『大豆田とわ子と三人の元夫』を劇中音楽から読み解く【後編】


 ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』の最終回(第10話)が放送されたのは6月15日のこと。前週の第9話で、物語上のクライマックスを迎えていたため、第10話がどのような展開になるのか予想がつかなかったが、このドラマが描いてきた内容を締めくくるにふさわしい見事なエピローグになっており、心底唸らされた。放送業界で権威あるギャラクシー賞において、2021年6月度 テレビ部門 月間賞を獲ったのも当然だろう。

 ドラマの放送中からFODやU-NEXTで見逃し配信がなされていたが、更に8月1日からはNetflix、8月10日からはAmazonプライム・ビデオでも観られるようになったため、リアルタイム見逃し層も評判を伝え聞いて、これから後追いで観たいと思っている人は多いはず。この記事の前編では第1話の劇中音楽を中心に読み解いたが、今回は全10話のなかから音楽的な見どころ(聴きどころ!?)となる場面をピックアップして、深く読み解いてみたい。ネタバレ前提なので、その点だけはご注意を!

――とわ子への未練だけではない〈Attachments〉

 

 まず取り上げたいのはLEO今井が歌う〈Attachments〉だ。第2話で、とわ子が住宅建設会社「しろくまハウジング」の社長を引き受けた理由を語り、それを聴いた中村慎森(三番目の元夫)が彼女を励ます場面で初登場する挿入歌である。LEO今井が自身が手掛けた詞は、このようにはじまる。


How do I erase all of these attachments?
どうしたらこのアタッチメントを全部消し去れる?


Let them slide How could I?
無かったことにする どうやってそんな事がでさる?

 

日本語で「アタッチメント」と言うと「付属品」という意味で使われることが多いのだが、英和辞典で冒頭にでてくる意味は「愛着」。つまりは、慎森の抱えるとわ子への未練を表現しているのだ。なお、詞の第二連では“attachments”の部分が“assessments” ――動詞assessで「(税金・罰金を)査定・評価する」「(税金・罰金を)取り立てる・科する」という意味――に置き換えられる。

 

How do I get through all of these assessments?
どうしたらこのアセスメントを全部こなせる?


Test my life How would I?
人生を試す どうやったらそんな事ができる?

 

このシーンでは盛り返すものの、それまでプライベートではとわ子からの評価が下がる一方だった慎森。彼の心情が別の角度から歌われているわけだ。加えて第2話の劇中においては、この第二連から慎森と小谷翼(慎森が公演で出会う女性)のシーンになるように、(第一連と第五連を除いて)三人の元夫たちが新たな恋の可能性に戸惑う場面に音楽があてられていく。そうすることで田中八作(一番目の元夫)と佐藤鹿太郎(二番目の元夫)も意気揚々と新しい恋に踏み出しているわけではなく、程度の差はあれど彼らも未練を抱える身であることを、音楽でも示している。

 そして、ここからが非常に興味深いのだが、第5話でレストラン『オペレッタ』において八作に対して出口俊朗(八作の親友)が「他に片思いしてる子がいるのに結婚しちゃったんだもんな。そういうずるいとこあるよ」と言ったあと、「今からでも遅くないんじゃないの、その子のところに行けよ……」と悪態をついた瞬間に、ピアノ曲が流れ始める。次のシーンで八作の頭の中に綿来かごめ(とわ子の親友)が浮かんでいることが暗示されるなか、ピアノは〈Attachments〉の一部を奏でているのだ。

 こうして音楽でも八作がかごめに対して未練を抱えていることが描かれる。とわ子への未練が誰の目にも明らかである慎森には挿入歌という分かりやすい形で気持ちが表現されるのに対し、かごめへの未練を隠している八作はひっそりとした(分かる人にだけ分かる)表現になっているのが、実に味わい深い。
 



――〈Falling in Love〉が喚起するイメージの変容

 

 第1話で、斎藤工が演ずる結婚詐欺師・御手洗健正(みたらい やすまさ)と出会うシーンで流れ出す音楽が〈Falling in Love〉である。2分ちょっとの短い曲なのだが大雑把に構成を説明すると、きらきらとした音色で“初々しくピュア”な第1部、ピアノソロで恋に落ちていく様を描くような第2部、他の楽器も加わって両者の気持ちが高まっていく第3部……に分けられるだろうか(ちなみに第1部冒頭の響きは、〈鹿太郎のワルツ - オフィス編〉冒頭の和音と同じだ)。

 〈Falling in Love〉という曲名の通り、誰かが“恋に落ちていく”場面でたびたび流れるのだが、その使い方は実に巧み。一例を挙げれば、第4話で八作に三ツ屋早良(俊朗の彼女)が詰め寄るシーンでは、第2部から流れ出す。これ以前にふたりは出会っており、“初々しいピュア”な雰囲気がないからだろう。

 この曲の使われ方で特に驚かされるのは第4話だ。街中でとわ子に見つかって追いかけられ、逃げるかごめだが、幼い頃から苦手だった信号のない横断歩道が未だに渡れず。追いついたとわ子が、かごめの手を握ったところで〈Falling in Love〉の第1部が流れる。同じ第4話の中で先だって回想されていた、とわ子とかごめが仲良くなる30年前の出来事が現代で再現された瞬間である。“初々しいピュア”さを想起させるためにこの音楽をあてたと考えるのが自然だが、これ以前の〈Falling in Love〉は男女の恋愛感情に対してしか用いられてこなかったことを意識すると、ドキッとしてしまう。そして、深読みの欲求にも駆られる。

 この場面の少し前には八作の口を通じて、かごめにとってのとわ子は親友であるだけでなく「わたしのお父さんでお母さんで、きょうだいなんだよね」「わたしのおじいちゃんでおばあちゃんで、おじで、おばで」もあったことが語られ、少し後の場面ではかごめ本人が「恋愛が邪魔。女と男の関係が面倒くさいの、わたしの人生にはいらないの」と発言している。両親を早くに亡くし、(おばあちゃんとの関係は不明だが、その他の)親族が好きではなかったと思われるかごめにとって、少なくとも存命中の人間のなかでは大豆田とわ子が最も大事な存在であったことは間違いない。

 第10話で風吹ジュン演じる國村真(マー)が登場し、とわ子の母・つき子との関係が明かされることで「とわ子/かごめ」が、若い頃の「つき子/真(まこと)」のような関係になり得たかもしれないパラレルワールドの可能性を意識せざるを得なくなると、なおのこと「とわ子/かごめ」が第4話で手をつないだ瞬間に流れる〈Falling in Love〉(第1部)は、単なる初々しさの表現とは思えなくなってくる。手をつないで横断歩道を渡っている時のかごめがうつむきがちな雰囲気をみると、この音楽はかごめの心境にあわせて付けられているように感じられてならない。(男女の)恋愛を否定しているかごめは家族のような存在に喩えたが、実のところは飄々としているようで、かごめはとわ子を愛していたのではないか(もちろん女性同士の恋愛という形も、かごめには必要なかったのだろうが)。

 第4話の次には、続く第5話でも〈Falling in Love〉の第1部が流れる。母(つき子)の葬儀後、リュックに骨壷を入れたとわ子。街中を歩いていると「布団が吹っ飛んだ」というダジャレが現実のものとなる瞬間を目にする(このシーンは第1話の会話のなかで、言葉としては既に登場していたものだ)。まさにその瞬間、〈Falling in Love〉(第1部)が流れてくる。

 直後に続く社長就任の挨拶と、「しろくまハウジング」初の挑戦となるアートイベントの事業という2つの“新しさ”を、〈Falling in Love〉(第1部)の“初々しいピュア”さで表現したのかもしれないが、「布団が吹っ飛んだ」ことを骨壷に話しかけたり、社長就任の場面を骨壷が見守ったりと明らかに、亡くなった母の存在が強調されていることを見逃してはいけない。第4話で、かごめがとわ子のことを「わたしのお父さんでお母さん」と思っていたことが明かされたことを鑑みれば、「かごめにとってのとわ子」と「とわ子にとっての母」が並行関係になるように、〈Falling in Love〉(第1部)があてられていると考えられる。

 ちなみに第8〜10話でも〈Falling in Love〉の第1部は使われているが、すべて男女の恋愛に関する場面にあてられている。この第4〜5話での〈Falling in Love〉だけは明らかに、男女の恋愛とは別の意味で用いられているからこそ、読み解き甲斐があるように思う。

 

――〈Crescent Morning〉(三日月の朝)とはなんなのか?

 

 終回の直前、6月9日に発売・配信された音楽集『Towako's Diary – from “大豆田とわ子と三人の元夫”』には収録されていない3つの楽曲が、9月1日に配信で先行リリースされ、そして11月3日に発売予定のレコード『Towako's Diary - from "大豆田とわ子と三人の元夫" [LP Selection]』に収録される。そのうちのひとつが、Cwondoの歌う第9話の挿入歌〈Crescent Morning〉だ。まずはこのタイトルと使われている場面から、この音楽が何を伝えようとしているのかを考えてみたい。

 まず大きなヒントとなるのが第9話より前に、〈Crescent Morning〉と同じギターの伴奏音形が繰り返される楽曲が第7〜8話に登場しているという点だ。第2章が始まる第7話では、この第2章のキーマンとなる謎の男性(後に小鳥遊大史という名が判明)が「好きな人の話をしてくれてるんですよね」と、とわ子に語るところで流れ始める――故に、この曲は〈好きな人の話〉というタイトルなのである。〈Crescent Morning〉と共にリリースされる楽曲だ。

 この楽曲の上でとわ子は「何で手を繋いでてあげられなかったんだろ」(=第4話の横断歩道エピソードとの繋がり)、「こんなんだったらそっちに行ってあげたいよ」(≒自分も死んでしまいたい)と、「好きな人」であるかごめへの思いを吐露していく。その後に続く場面で大史が語った言葉も相まって、かごめの死から1年、ひとりで抱えこんできたとわ子の気持ちがやっと雪解けしはじめる。

 一方、第8話では同じ楽曲が少し展開を変えて、大史がマディソンパートナーズの社長とのなれそめについて語るシーンで流れる。買収された「しろくまハウジング」にとって憎き敵そのものであっても、大史にとってはかけがえのない恩人であり、大史の「好きな人」であることが音楽によって示されるわけだ。

 とはいえ、社長の命令は絶対という信念を曲げない大史に納得のいかないとわ子は、彼を自宅に招いてその考えを変えさせる。普通のドラマであれば、これで物語が結末へと進み始めそうなところだが『大豆田とわ子と三人の元夫』は更に一歩踏み込む。大史に「どこまで人から預かった荷物を背負い続けるんですか?」という台詞を語らせることで、社長に恩義を返し続ける大史と、かごめとの約束に拘泥するとわ子――今まさに、ふたりが相似形であることが描かれるのだ(ちなみにこの場面では、〈Crescent Morning〉と〈Attachments〉と〈序曲〉などを混ぜ合わせた、どれでもあってどれでもない旋律が奏でられるのが興味深い)。そして、第9話の前半で大史はとわ子に「人生を一緒に生きるパートナーになってくれませんか」とプロポーズするのであった。

 さて、ここまでお膳立てが揃って、遂に〈Crescent Morning〉の出番がやってくる。再び大史を自宅に誘ったとわ子は、ふたりで料理の準備を進める前に音楽をかける。それが〈Crescent Morning〉なのだ。作詞をしたシンガーソングライター兼クラシックピアニストのマシュー・ローは
 

Crescent=三日月、Morning=朝。訳すと“三日月の朝”。更に言うと“朝の三日月(Morning Crescent)”とは似て非なるもの


と、この曲についてツイートで説明している。

 “朝の三日月(Morning Crescent)”というのは、日本語でいうところの有明月――つまり、月が空に残ったまま夜が明けた状態のことであろう。これではないとしたら、三日月にとって朝に相当するものが何であるかを考えてみれば、月の満ち欠けそのものを一日に喩えた可能性が出てくる。満月を昼、その反対の新月を夜としたら、新月のあとにくる三日月は夜明けであり、朝に相当するものと捉えられる。最終的に、とわ子と大史は別々の道を歩むことになるのだが〈Crescent Morning〉は、それぞれの大事な存在から預かった荷物を捨てて、新たな門出(=朝)を選ぼうとする、ふたりを描いた楽曲なのではないだろうか。

 なぜ、ふたりを月に喩えているのかといえば、ラジオ体操で体をねじる運動のところが合わない両者の生き方を月の周期に基づく陰暦(反対に、体をねじる運動を合わせられる人々の生き方は、太陽の周期に基づくグレゴリオ暦)に、なぞらえているからだと考えられる。また、9月1日の配信リリースになって遂に公開された歌詞を読んでみると、第二連で「Looking far to the light / And I...」と歌われているように大史だけでなく、とわ子も(And I...)遠くに(Looking far to)明るい未来(the light)をみている。

 しかし、最後の連である第四連に至ると「And when all of the shapes and the colours come out of the shadow / They will shine / I will shine」――三日月の光っていない部分(the shadow)から、全ての“形”と“色”が出てきたとき(And when all of the shapes and the colours come out of)、彼らが輝き(They will shine)、私も輝く(I will shine)と歌われる。ここでポイントとなるのは、大史との未来を選ぶならThey will shineがhe will shineとなっているべきであるということ。そして便宜上、“形”と訳したshapesには「あるべき姿」「調子」、“色”と訳したcoloursには「個性」「人柄」という意味があるという点だ。

 要するに、歌詞の前半では大史との門出を想起させつつも、締めの部分でとわ子の頭にあるのはThey(彼ら)――少なくともその中には、かごめと八作は含まれているであろう――なのである。

 


大豆田とわ子と三人の元夫(1)

 

 

――第9話と第10話の両方で〈Finale〉が流れる意味

 

 〈Crescent Morning〉〈好きな人の話〉と共に配信・発売されるもうひとつの楽曲が、第9〜10話で登場する〈Finale〉だ。この記事の前編で解説したように、〈#まめ夫 序曲 ~ 「大豆田とわ子と三人の元夫」〉は劇中に登場する楽曲がメドレーのように連なっている楽曲なのだが、「終曲」「大詰め」といった意味の〈Finale〉も様々な楽曲の要素が散りばめられたメドレーになっており、〈序曲〉と対になっている楽曲といえる。

 フィナーレといえば通常、ひとつの章(≒劇場でいえば幕)にひとつだけというのが一般的だ。ところが、このドラマの第2章(第7〜10話)では、第9話と第10話の両方で〈Finale〉が流れる。それは何故なのだろう?

 第9話では、大史と別れたあとにレストラン『オペレッタ』にやってきたとわ子が、八作に対して「あなたを選んで、ひとりで生きることにした」と語ると、挿入歌〈All the Same〉のイントロが優しく奏でられ、続いて〈Attachments〉の旋律がピアノで奏される(このあたりからが〈Finale〉というメドレー楽曲のはじまりだ)。とわ子と八作が、かごめについて話しているシーンにつけられた〈Attachments〉は「未練」というよりも、言葉本来の意味である「愛着」「愛情」といったポジティブなイメージに転換したように思わされる。

 鹿太郎と慎森がスマホ越しに会話するコミカルなシーンを挟んで、再びとわ子と八作の対話に戻ると、〈Good night (Variation 6)〉の雰囲気に近い音楽になり、そしていよいよ、離婚せずに夫婦として続いていたらどうなっていたか?という想像上の「結婚18年目」シーンに入る。ここで流れ出すのが、〈序曲〉の優雅なメロディ(ミ♭→ド→レ♭)だ。

 そして、その後もいくつかの断片的なシーンに合わせて、様々な楽曲の旋律がメドレーのように登場していき、退院後のとわ子と八作がまた“夫婦で”ゆっくり会話をする場面で、再び〈序曲〉の優雅なメロディが登場。しかも一緒に鳴り響くアルペジオ(分散和音)は、〈All the Same〉からとられたものだ。“夫婦で”ベッドに入ると、今度は〈序曲〉の決めフレーズが、まずクラリネットで、次いでストリングスの柔らかな音色で登場し、音楽より先にあり得た未来を想像するシーンが終わる……。この第9話をリアルタイム放送で観た際には、想像上のシーンと〈Finale〉という楽曲がどちらも美しく調和がとれていることに、感情を揺さぶられた。言ってしまえば、映画『ラ・ラ・ランド』のクライマックスを想起させる展開だと捉えることも出来るだろう。

 ところが『大豆田とわ子と三人の元夫』が凄いのは、『ラ・ラ・ランド』を超えていくところだ。最終回となる第10話では、なんと2度にわたって、少し構成を変えながら〈Finale〉が流れる。しかも、第9話のように(多少の喧嘩はありつつも普通に)上手くいっている想像上の家族のシーンではなく、むしろ第10話では、とわ子とは微妙な関係性にある男性たち――「大豆田旺介(とわ子の父)」「三人の元夫」との会話シーンで〈Finale〉が使われるのだ。特に後者「三人の元夫」では、第9話同様に現実離れしたやり取りがなされる夢のシーンに〈Finale〉があてられているが、最終的には八作の台詞「僕たちはみんな君が好きだってこと」「大豆田とわ子は最高だってことだよ」が夢と現実で繰り返されることによって、どちらもさして変わらぬものであることが描かれる。こうして、この物語は想像や夢の世界だけでなく、日々のトラブルが耐えない現実をも肯定していく。『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマの音楽演出で、最も感動的な場面といえるかもしれない。

 そして、その後にとわ子が語る「わたしの好きは、その人が笑ってくれること。笑っててくれたら、あとはもうなんでもいい。そういう感じ」という台詞は第7話、夜景がみえる屋上でとわ子と慎森が紙コップでワインを飲むシーンでの「……元気でいて欲しい」という台詞を拡張したものであると考えられる。「……元気でいて欲しい」という台詞は、「僕のことをどう思っている?」と慎森から聴かれたとわ子が答えたものである。実は、このシーンでも〈序曲〉の優雅なメロディが流れており、しかも〈Finale〉に登場するこのメロディと変奏が似ている(調性や楽器編成などが違っている)。

 そして、この慎森ととわ子のシーンと全く同じ音楽が流れるのが、第10話で國村真のアパートを訪ねたシーンだ。とわ子の「どうしてあなたの元に行かず、どうして結婚して、どうしてわたしを産んだんですか?」という問いに対して、真が段階を踏んで答えていくなかで、〈序曲〉の優雅なメロディが印象的に登場するのだ。真が語る「ひとりの中に幾つもあって、どれも嘘じゃない、どれもつき子。結果はさ、家族を選んだってだけだし、選んだ方で正解だったんだよ」という台詞も、この『大豆田とわ子と三人の元夫』が最も大事にしてきた価値観を象徴するもので、ドラマ全体の主題である旋律があてられるのが納得の場面である。

 一緒に生きる人(結婚相手とは限らない)と自分が、共に自分らしく幸せに生きられる関係を大事にしたいとわ子にとって、自分が生まれたことで母・つき子が不幸せだったとしたら……。それは、どうしたって自分を責めざるを得ない。大事な存在は死してなおも一緒に生きる人であると捉え、どう向き合えばいいのかが自分で納得できたとき、とわ子はまた自分らしく生きられるようになる。亡くなる時に助けを求められながらも、それに応えられなかった親友・かごめとの関係にも同様のことがいえるだろう。

 こうしたドラマで物語られてきた主題には、音楽――特にメインテーマたる〈序曲〉――の主題が伴われることで、自然とエモーショナルなものとなり、押し付けがましくない形で我々視聴者の心に染み込んできたように思う。作曲家・坂東祐大の繊細な音楽表現には、驚かされるばかりだ。9月1日に追加で配信される3曲〈好きな人の話〉〈Crescent Morning〉〈Finale〉を繰り返し聴いてから、再び『大豆田とわ子と三人の元夫』の世界に訪れると、また新たな発見と気付き、そして感動が待っているはずだ。

 


 

【MUSIC】

大豆田とわ子と三人の元夫(1)

『Towako’s Diary – from“大豆田とわ子と三人の元夫”【and more】』
2021.9.1配信リリース 日本コロムビア

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https://columbia.jp/mameo/#release
 

「大豆田とわ子と三人の元夫」関西テレビ
公式HP:https://www.ktv.jp/mameo/

 


 

Text:小室敬幸

 

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『大豆田とわ子と三人の元夫』を劇中音楽から読み解く【前編】

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