第18回 録音芸術【音楽あれば苦なし♪~ふくおかとも彦のいい音研究レポート~】

1917年、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)という美術家は、単なる便器に「R. Mutt」と署名し「泉」、フランス語の原題では「Fontaine [フォンテーヌ]」と名付けて美術展に出品しようとしました(断られたんだけど)。
また、ジョン・ケージ(John Cage)という音楽家が1952年に発表した「4分33秒」という作品は、その長さの“無音”でした。
便器が美術で無音が音楽?、なんじゃそりゃ!と思うでしょうが、いずれも芸術史に特筆されている有名な「作品」です。なぜそんなに崇められているかと言うと「なんじゃそりゃ!」ぶりがあまりにも大きかったからです。「芸術」というものが「それまで感じたことのないような感覚を引き起こす企み」だとするならば「なんじゃそりゃ!」度が大きいほど、芸術度も高いと言ってもいいでしょう。
「美術とは作家の心が表現された絵画やオブジェである」。「音楽はメロディとリズムを持った音で構成されている」。そういった、カテゴリーをカテゴリーとして成立させている大前提の枠組を「泉」と「4分33秒」は壊してしまったんです。これ以上の「なんじゃそりゃ!」はありません。


ビートルズ・サウンドの秘密

 

まあ、ここまで突き抜けられても私のような凡人にはまったくついていけませんが、それでも、表現の限界に挑むその精神は大いに尊敬すべきだと思っています。残念ながら私はそれらを直接鑑賞したことはありませんが、もししていたら多分デュシャンやケージの精神のエネルギーの残り香みたいなものは感じたんじゃないかな、なんて想像します。

“The Beatles”はケージほど極端ではなかったけど、それまでの音楽の「枠組」をいろんな部分で乗り越えて、斬新なポップミュージックを生み出しました。そして、ケージとは違って、とても分かりやすく楽しかったので商業的にも大成功しました。
未だに、高音質盤などが出るとたくさんの人が買ってしまうビートルズですが、もちろん懐かしさだけがその理由ではないでしょう。彼らの音楽は今も“現役”の輝きを持っています。解散してからもう50年以上が過ぎたというのに、なぜでしょう?

彼らのメロディや歌唱には、唯一無二な素晴らしいものがたくさんあります。そこは不滅の強みなのですが、音楽の要素はそれだけじゃありません。サウンド、音の響きも非常に重要だと思っています。これは人間の無意識的なところに作用して、快感を左右している気がします。60年代以前の録音はまだまだ機械や技術が未熟で、たいていサウンドがもの足りません(ジャズやクラシックは既に確立していたところがありますが)。だけどビートルズにはあまりそれを感じない。さすがに、今どきのようなシャキッとしたメリハリや豊かな低音域はありませんが、それでも、もうこれで完璧だと感じさせる何かがあるのです。
もし、ビートルズの曲をアレンジはそのままで現代の最新録音技術によるサウンドですげ替えみたらどうでしょうか? バリッとしてドシッとしてグリグリ来る感じ。想像でモノを言ってもしょうがないのですが、おそらく、元にはかなわないんじゃないかと思うのです。
ビートルズが好きだから、ということではないつもりです。やはりビートルズの音からは、彼らの精神のエネルギーの余熱を強く感じるからなんです。

サウンドだけに限っても、彼らは「枠組」に挑み続けました。特に、ライブ・パフォーマンスから撤退し、レコーディングに専念することに決めたアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』(1967)からは徹底しています。
この時代は、今よりずっと音楽表現の「枠組」が小さかった。たとえば、シンセサイザーなんてなかったし、エフェクトも「エコー」くらいしか使えませんでした。録音のための「マルチトラック・テープレコーダー」もせいぜい4トラックでした。
どういうことかと言うと、もし1トラックしかない場合は、録音する時に、歌とすべての楽器を、音量バランスも決めて、全員が途中で一度も間違わずに演奏しなければなりませんが、4トラックあれば、1つにドラム+ベース+リズム・ギター、2つ目にストリングス、3つ目にギター・ソロ、4つ目に歌、などと別々に録音できます。さらに「ピンポン」と言って(英語では“bounce”)、2つ以上のトラックに録音された音を、まとめて別の1トラックに録音し直すこともできて、そうすると元のトラックはまた別の音の録音に使えます。ただ、アナログ・テープには「ヒスノイズ」と呼ばれる“サー”という雑音があって、ピンポンするとそれが倍増してしまうので、何度もできません。つまり、4トラックは最低限、多いほうが便利なので、70年代からは16、24とどんどん増えていきます。
ともかく、4トラックで、『Sgt. Pepper's〜』のような凝ったサウンドをつくるのはたいへんだったと思います。中でも「A Day in the Life」では、あのもの凄いストリングスを追加録音するために、4トラック・レコーダー1台では到底ムリと判断し、2台をシンクロさせて(シンクロナイザーがあったわけではありません。それをつくるところからです)、走らせたそうです。
むろん、レコーダーのシンクロのことなどはエンジニアが知恵を絞ったわけで、ビートルズのメンバーやプロデューサーのジョージ・マーティンは音楽のことを考えていただけでしょうが、「こんな音楽をつくりたい」というビジョンの大きさに対し、当時の制作環境はあまりに非力でした。それでもあきらめない。ビジョンの実現に向かう強い情熱が、スタッフ全体を動かして不可能を可能にし「枠組」をなんとか乗り越えていったのです。そのエネルギーの痕跡は50年や100年程度では消えないでしょう。

 

音楽あれば苦なし♪(1)

 

10cc「I’m Not in Love」の場合

 

話が長くなりますが、もうひとつ紹介したいのが、“10cc”の「I’m Not in Love」[アルバム『The Original Soundtrack』(1975)収録]という曲。分厚いハーモニーが、人の声なのに息継ぎもなく、曲頭から最後まで空間を埋め尽くすという、とてつもないコーラスワークが有名な作品です。
音楽制作をかじったことのある人なら、ああサンプラーを使えば簡単だけどね、としたり顔で言うでしょう。しかし、時は1975年です。マイクから録音した音をデジタル処理して楽音として使えるようにする「サンプラー」はまだこの世に存在しません。
ならば、彼らはどのようにしてこれをつくったのでしょうか。

①この曲のリードボーカルでありエンジニアでもあったエリック・スチュアート以外のメンバー3人が、ひとつの音程をいっしょに“アー”と歌いました。この頃はレコーダーがもう16トラックでしたから、16回同じことをやって、それを合わせると計48人が歌っていることになりますね。分厚くなる。
②声を出し続けられる時間はせいぜい10秒くらいでしょうから、先ほどの48人分をまとめて別のテープに録音したのち、そのテープを繋いで輪っかにします。輪になったテープをレコーダーで再生してやると“アー”がずっと続くというわけです。
③この“アー”を、演奏が録音されている16トラック・レコーダーの空いているトラックに曲の頭から終わりまで録音してやる。
④別の音程について、①から③をやります。全部で、1オクターブの13半音分、つまり13回やります。
⑤演奏のコード進行に合わせて、ふさわしい音程の“アー”を出したり消したり、大きくしたり小さくしたりしながら、いい感じにミックスダウンします。

やれやれ、言葉で説明するだけでもたいへんですが、実際気の遠くなるような作業で、このコーラスの作業だけに、3週間を費やしたそうです。

さて、もし「サンプラー」があればどうなるか。上記の①の前半、つまり3人の“アー”を一度きり録れば、あとは音程を変えたり、長さを延ばしたりして、一応同じようなものはつくれ、⑤のミックスダウンに進めます。ミックスダウンも、彼らはマニュアルで、つまり音量変化や左右への動きなどは、手でツマミを動かしながらやるしかなく、失敗したらやり直しで、しかも二度と同じことは再現できなかったのですが、現代はコンピュータで動きを記録し調整して、“エンター”で完了です。

じゃあ、今から考えると、10ccの作業は徒労だったんでしょうか。いやいや、そんなことはまったくありません。限られた機材でなんとかやりきることで得られた大きな成果もあるのです。それは前述の「ヒスノイズ」。3人の声を何度も重ねているので、テープのヒスノイズもかなり大きくなってしまったのですが、ふつうなら嫌われるノイズが絶妙な効果音に転じ、コーラスに、まるで「天上の声」かくあらん、と思わせるような荘厳な響きをもたらしたのです。
サンプラーやコンピュータがこれだけ発達しても、「I’m Not in Love」の域に達している作品を、私は他に知りません。

 

自由度は広がったものの……

 

不自由な枠組にくじけず、工夫と努力でなんとか突破口を見出し、自分たちの表現を実現せしめていく。そういう不屈の営みが残した“余熱”が、ビートルズや10ccの作品を輝かせ続けているのではないかと、私は思っています。

その枠組は時代とともに、どんどん広がりました。シンセサイザーができ、サンプラーが生まれ、テープの代わりにデジタルメモリーに録音するようになりました。もうトラック数は無限です。CGで描かれた風景が本物と見分けがつかなくなってきたように、デジタルはあらゆるものを代替できるようになっていくのでしょうか。
本来なら、枠組が広がれば、表現の可能性も広がり、面白いものもつくりやすくなりそうなものですが、実はその逆かもしれません。
もし、何でもできるとしたら、何をやっても面白くないでしょうからね。できないと言われることに挑戦することは人間の性[さが]であり、それをやり果せることは人間の無上の喜びのひとつです。挑戦すべきもの、したいものが、世の中からなくなってしまったとしたら、人間はいったいどこへ向かうのかな。

このように広がった枠組の中で、若い音楽家たちはどうしているのでしょうか?
とりあえずムリはせず、思うところを淡々と表現して、そこそこ楽しい作品群を並べていくのか。
それとも、その広がった枠組でもできそうもないほどの、大きなビジョンを持って、だけど決してあきらめず画期的な作品ができるまで工夫と努力で突き進むのか。

もちろん後者の若者たちがいないと、音楽市場は面白くもなんともないし音楽業界に未来はありません。

 

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