第十回 グリーグとアクアヴィット【名曲と美味しいお酒のマリアージュ】

手元に一冊の本があります。『北欧音楽入門』と題された本で、著者は大束省三とあります。

この本との出会いが果たしていつだったのか、覚えていないほど前のことです。奥付を見ると、2000年6月10日第一刷発行とありますから、発売後すぐに入手していれば23、4歳の頃になるでしょうか。

折に触れ読み返してきたので、今となってはシベリウスやグリーグの音楽もこの本を通して発見したのでは?と錯覚するほど、僕と北欧の音楽をつなぐ一冊となっています。

単に作曲家や作品を伝記的に紹介するのではなく、「箸やすめ」と称するコラムも交えてリッラクスした調子で語るところに、たいへん親しみやすさを感じました。フィンランドへ留学した際にも持っていき、何度も本に書いてある通りだ!と感動したことを鮮やかに覚えています。

さて、帰国後して数年が経ち、ある合唱団でグリーグの歌曲を取り上げる機会がありました。そこへ、ちょうど良いタイミングで日本グリーグ協会主催のノルウェー歌曲のワークショップが開催されるとのこと。フィンランド語とノルウェー語は同じ北欧の言葉でも発音から文法まで全く違うので、これ幸いと、合唱団のメンバーと一緒に参加してレクチャーを受けました。

そこで当時会長だった大束省三先生と初めてお目にかかる機会を得たのです。1926年生まれの先生は御年87歳とは思えぬほどの情熱的なご指導をされ、僕たちはそのエネルギーに圧倒されるばかりでした。

このワークショップではもう一つの素晴らしい出会いがあり、それがシェル・ヴィーグさんとの出会いでした。シェルさんは直系の子孫のいないグリーグの末裔です。グリーグの従兄弟アレクサンダー・ベーレンス・グリーグの系譜に連なり、グリーグの音楽の紹介を積極的にされています。オスロ大学で音楽学を学び、歌手としてグレックス・ヴォカーリス、スコラ・カントルム、ノルウェー・ソリスト合唱団などに長年参加されてきました。

 

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(1)

シェル・ヴィ―グさんと著者

 

懇親会でシェルさんはワイン、特にブルゴーニュがお好きと分かり、後日、行きつけのワインバーにお連れしました。それ以来、来日するたびにワインを飲みながら楽しい時間を過ごしています。
 

 

~今月の一本~

 

アクアヴィット

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(2)

 

今月ご紹介するのは、北欧を代表する蒸留酒のアクアヴィットです。ジャガイモを原料に造られるこのお酒の語源はラテン語のaqua vitae=命の水。

シェルさんから頂いたアクアヴィットのミニボトルはとても可愛らしく、飲んでしまうのがもったいないので、そのままとってあります。一見すると何の変哲もないノルウェー土産のヒップフラスクは、中に「ギルド」という銘柄のアクアヴィットを入れて裏側に「ギルド」のエチケットを貼ってプレゼントしてくれました。このような細やかな気遣いをされるシェルさんは、一般に想像されるノルウェー人とは違って小柄で、そこもグリーグを彷彿とさせます。

シェルさんとは酒席をともにするだけではなく、一緒に演奏する貴重な機会もありました。

前述のワークショップの翌年、同じく日本グリーグ協会主催で「グリーグを愛し 永遠を思う こころのコンサート」と題し、グリーグ最後の作品《四つの詩篇》を原語のノルウェー語に加えて大束先生が訳された日本語版でも歌うというコンサートが開催されました。バリトン・ソロにはもちろんシェルさんを迎えての企画でした。

ノルウェー語と日本語は違う指揮者が振った方が面白いだろう、との大束先生の発案で、僕がノルウェー語の演奏の指揮を担当することになったのです。会場は同仁キリスト教会。グリーグも信仰を寄せたユニテリアンの流れを汲む教会です。
 

 

~今月の一曲~

 

《四つの詩篇》作品74

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(3)

 

無伴奏混声合唱とバリトン独唱 L. M. リンデマンの民族曲集からの四つの古いノルウェーの賛美歌の編曲(1906)

第一曲 うるわしきかな神の子よ
第二曲 神の子は安らぎを与えた給えり
第三曲 イエス・キリストはよみがえり給えり
第四曲 天つみ国に

エドヴァルド・グリーグは1843年、ノルウェー南西岸の街ベルゲンに生まれました。幼少の頃から母ゲシーネ・ハーゲルプにピアノの手ほどきを受けて育ち、15歳の時、遠縁にあたるヴァイオリニストのオーレ・ブルと出会い、才能を見出されて本格的に音楽の道へと進みます。ライプツィヒ音楽院への留学の後、コペンハーゲンで作曲家のニルス・ゲーゼに学びました。

1867年、従妹のニーナ・ハーゲルプと結婚。翌年には娘のアレクサンドラが誕生し、幸せの中、代表作となるピアノ協奏曲イ短調作品16を書き上げました。しかし、アレクサンドラは生後13ヶ月という若さで亡くなりました。大束先生はこのコンチェルトを「エドヴァルドとニーナの永遠の愛の結晶」と呼んでいます。グリーグは最晩年に至るまで何度も改訂を重ねながら、この作品をヨーロッパ各地で演奏しました。またニーナはメゾ・ソプラノ歌手としてグリーグの作品を歌い、二人が共演するコンサートはとても人気があったといいます。

1884~85年、ベルゲンの南に初めて「我が家」と呼べる住居を建て、「トロルハウゲン=妖精の丘」と名付けます。1891年には、より静かに作曲できる環境を作るため、敷地の南側ノーロース湖畔に作曲小屋を建てました。以後、《抒情小曲集》(第3集以降)などがここで作曲され、とりわけ「トロルハウゲンの婚礼の日」作品65-6(1892年)の人気は非常に高いです。

ところで、政治的にも急進派だった彼は、既存の権威というものに反抗心を感じていたのでしょう。若い頃から教会に対する疑念を抱いていたようです。最後の作品となった《四つの詩篇》は、そんなグリーグの音楽上の純粋な信仰の告白と捉えることができるかもしれません。

ハンス・エードルフ・ブロアソン、ハンス・トミスン、ラウレンティウス・ラウレンティのバロック詩による古い賛美歌をもとに、バリトン・ソロと混声合唱が応答し合う美しい曲。時に短調と長調が交じり合い、時に反発しながら移ろいゆくハーモニーが独特の色彩感を生み出しています。そして、仄暗いぼんやりとした光の中を歩んだ先にあるのは、第四曲の輝かしいばかりの天上の響き。こうあらねばならぬ、というグリーグの強い意志が感じられます。

コンサートでは、「歌うように話す」と言われるノルウェー語の美しさもあいまって、シェルさんは透明感のある歌声で見事にグリーグの世界を我々に見せてくれたのでした。

大束先生は怪我の予後が思わしくなく、コンサートでの指揮を断念。その後、2018年7月天に召されました。今ごろ、エドヴァルドやニーナと心ゆくまで語らい、歌っていることでしょう。今年のクリスマスはグリーグの調べを聴きながら、大束先生を偲んでアクアヴィットの盃を捧げたいと思います。

それでは、皆さまよいクリスマスを! God jul!

 

 

←前の話へ          次の話へ→

 


 

Text&Photo:野津如弘