第十一回 エリック・サティとエルダーフラワーのリキュール「サンジェルマン」【名曲と美味しいお酒のマリアージュ】

遅ればせながら明けましておめでとうございます。今年も本連載をよろしくお願い申し上げます。

酒飲みの正月と言えば、お屠蘇に始まり、来客やら、新年会など、朝から晩まで飲める口実に溢れており、普段ああでもない、こうでもない、と理由を探して飲んでいる身にとっては、向こうから飲んでくれとやってくるわけですから願ったり叶ったり。実に幸福な気分に浸れるわけです。

しかし、こう始終飲んでいると、さすがに松の内も明ける頃になると飲み疲れが溜まってきます。そこへ七草粥でもって胃腸をいたわるという風習があり、これでいくぶんは回復するものの、もう日本酒はちょっと飽きてしまったな、かといってワインもちょっと重たいな、という気分になります。ここでおとなしく飲まなければよいのでしょうが、禁酒という選択肢を選ばないのが酒飲みの性。何か口直しになるような酒はないものか、酒に疲れたら酒に癒しを求めるのです。

 

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(1)

 

ところで、我々は日常さまざまな音に囲まれて生活をしています。その中には風の音や、雨の音のような自然の音もあれば、電車や車の走る音、工事の音など人工的な音もあります。特に日本は交通機関での過剰とも思えるアナウンス、繁華街の店から流れ出てくる大音量の音楽など一日街中で過ごすと耳が疲れてしまうほどの音で溢れかえっています。

そんな時に静寂を求めるのもよいですが、音楽好きなら心地よい音で癒されたいと思う方も多いはず。

そこでおすすめしたいのが、サティの音楽です。
 

 

~今月の一曲~

 

《ジムノペディ》(1888年)

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(2)

 

エリック・サティは1866年、フランス北西部ノルマンディー地方カルヴァドス県の港町オンフルールに生まれました。4歳の時に一家でパリに移住するものの、6歳で母親が亡くなるとオンフルールの祖父母の元へ送られ小学校時代は寄宿舎で過ごし、12歳の時に祖母が亡くなると妹弟とともに父親の住むパリへと戻ります。翌年、父アルフレッドはピアノ教師のユージェニ・バルネシュと再婚。エリックは彼女にピアノのレッスンを受け、パリ音楽院に入学しますが、教師から「練習を熱心にしない」「音楽院で最も怠惰な生徒」と評されるなど才能はあったものの環境には馴染めなかったようです。音楽院から逃れるように20歳の時に軍隊に入りますが、軍隊生活にも馴染めず、わざと気管支炎にかかり除隊となります。その後音楽院へは戻らず、また家族からも独立してモンマルトルに部屋を借り、酒場でピアノを弾いて生計を立てることになりました。文学酒場「黒猫」のピアニスト時代に作曲したのが、この《ジムノペディ》です。

《ジムノペディ》という不思議な名前は、古代ギリシアのアポロン神を讃える祭典「ギムノパイディア」に由来します。しかし、その内容を描いた作品というより、これは新井満がサティの若年時代を描いた小説『エッフェル塔の黒猫』の中で書いていることですが、黒猫の経営者サリスにタイトルの意味を訊かれて答えたもので「本当は『ガチョウをしめ殺したあとに踊る黒猫の優雅なダンス』」なのだけれど「このタイトルの方がそれらしく聞こえるからいいか」といったほどのことなのでしょう。

作品は、第1曲「ゆっくりと、苦しみをもって」、第2曲「ゆっくりと、悲しさをこめて」、第3曲「ゆっくりと、厳粛に」といういずれも3分ほどの同じような曲調の3曲からなっています。

この曲が世に広まるきっかけの一つとなったのは、ルイ・マルの映画『鬼火』(1963年)でしょう。同じくサティ作曲の《グノシエンヌ》と共に使われ、人生に虚しさを覚えた男がアルコールに溺れ自殺するまでの48時間を描いた映画を決して邪魔することなく、しかし印象的に支えています。

日本ではこの映画は1977年に公開されました。ちょうど1975年から3年がかりで、音楽評論家でピアニスト高橋アキの夫・秋山邦晴によるサティ没後50年を記念した連続演奏会が渋谷の小劇場ジャン・ジャンで開催されていた頃です。その後、テレビCMやBGMに使われるなどのサティ・ブームが起きました。

サティは音楽界からは異端児として見られていましたが、ドビュッシーとの交流やラヴェルへ与えた影響は大きく、また本コラムでも第8回に登場したジョン・ケージも「サティはキノコのようだ」と大好きだったキノコに例えて称賛しています。

そんなサティが青年時代を過ごした当時のパリは「ベル・エポック」の真っ只中。19世紀末から20世紀初頭にいたる都市の消費文化のさきがけとなった華やかな時代でした。キャバレーと呼ばれる酒場がモンマルトル界隈にオープンしたのもこの頃のことです。

ジョルジュ・オスマンによって19世紀半ばから進められたパリの大改造計画により、多くの芸術家が未だ郊外の農村だったモンマルトルに移住してきました。葡萄畑と風車の残る丘の麓には飲み屋が立ち並び、丘の上には1876年から1912年にかけて今や当地のシンボルとなっているサクレ・クール寺院が建設されたのです。

前述の「黒猫=シャ・ノワール」は1881年の開店。ドビュッシーや作家のモーパッサン、詩人のヴェルレーヌなど多彩な顔ぶれで賑わいました。現在も観光客で賑わう「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」は1889年の開店です。1889年は、パリで4回目となる万国博覧会が開催された年でこれに合わせてエッフェル塔が建設されました。

サティがモンマルトルで暮らしたのは1898年まで。彼はパリの南、郊外のアルクイユへと引っ越します。そこからモンマルトルの酒場まで10キロの道のりを歩いて通い、ピアノを弾き続けました。そして40歳を目前にもう一度音楽を学び直す、と決心してスコラ・カントルムに入学。ヴァンサン・ダンディやアルベール・ルーセルに師事しますが、後にサティより年下だったルーセルは、サティはすでに立派な音楽家で教えることは何もなかった、と語っています。

晩年は「家具の音楽」というコンセプトを提唱。まるで部屋に置いてある家具のように、聞く人に意識されず(=空間に馴染んでいる)、邪魔にならず(=ぶつかったりしないように配置されている)、快適な(=座り心地の良いソファのような)音楽を書こうとしました。

 

~今月の一本~

 

サンジェルマン

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(3)

 

今月の一杯は、癒しのカクテルです。飲み疲れたある日のこと、疲れを癒すためバーにふらりと立ち寄った(矛盾しているようだが、酒飲みの定義では矛盾しない)際、マスターに「軽めで何か」と、お願いしたところ出てきた一杯です。サンジェルマンというエルダーフラワー(セイヨウニワトコ)を漬け込んだリキュールをシャンパンで割ったカクテル。エルダーフラワーは白い可憐な花で、ほんのりと甘い香りがします。

神楽坂の名店サンルーカル・バーの新橋さんの作るカクテルは、どれも優しい。

ずいぶんと酔って訪れた時に、さっぱりしようとマルガリータを頼んだことがありました。よく覚えていないのですが、同行した友人によると、出されたカクテルを飲むなり、僕は「今まで飲んだマルガリータの中で一番うまい!」と宣言したそうです。新橋さんはこっそり友人に「酔いが回っているようですので、ノンアルで作りました」と。こんなエピソードもありました。バーは癒しの場ですね。

 

 

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Text&Photo(お酒):野津如弘