第十三回 《ウエスト・サイド・ストーリー》とラム【名曲と美味しいお酒のマリアージュ】

先月公開された映画《ウエスト・サイド・ストーリー》を観てきました。1957年にミュージカルとして初演され1961年に映画化された作品を、スティーヴン・スピルバーグ監督がおよそ60年の時を経て再映画化したものです。
僕自身《ウエスト・サイド・ストーリー》の演奏会用組曲《シンフォニック・ダンス》を指揮したり、ミュージカルの舞台を観たりと大好きな作品だったので、一体どんな風にリメイクされているのか興味津々でした。二番煎じ的な仕上がりだったらどうしようという一抹の不安もありましたが、冒頭から再構築された見事な世界に引き込まれ、あらためて深い感動を味わいました。

レナード・バーンスタイン作曲の音楽も、グスターボ・デュダメル指揮ニューヨーク・フィルハーモニックそしてロサンゼルス・フィルハーモニックの素晴らしい演奏で、新たな命を吹き込まれたかのようです。デュダメルは南米ベネズエラ出身の指揮者で、以前から《シンフォニック・ダンス》は彼の十八番でした。シモン・ボリバル・ユース・オーケストラを率いたノリノリの「マンボ」は、聴くだけでなく、見ていてもこちらまで踊り出したくなるような楽しい演奏です。

それが、今回、映像と歌と組み合わさって、細部までより洗練された音楽を聴かせてくれています。61年の映画版では、吹き替えの多かった歌のシーンも今回は本人たちが歌っているというのが、リアリティー感を後押ししているのでしょう。

バーンスタインのメイキング映像も残っている自作自演のサウンドトラックでは、ホセ・カレーラスなどオペラ歌手を採用していますが、どことなく違和感を感じたものです。

もっともバーンスタイン自身、初演の際にはキャスティングで苦労したようです。10代に見えて、歌えて、踊れて、という役者を探し出すのは大変だったと述べています。土台としたシェイクスピアの『ロメオとジュリエット』もそれぞれ16歳と13歳という設定ですから、どうしてもティーネイジャーでなくてはというこだわりがあったのかもしれません。しかし「『歌手』を役に付けなくて正解だった、プロ的な歌い方になるほど『若者』らしさが消えてしまっただろう」と。

そもそも、この作品は音域が広かったり、構造が複雑だったりと音楽的にかなり高度な内容です。それをプロのような歌い方をせずに、いかに若者らしく自然に歌うか。しかも登場するのは不良グループですからなおさらです。

 

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(1)

ニューヨーク市マンハッタン地区の西65丁目、ブロードウェイとリンカーンセンターが交差する場所にあるレナード・バーンスタイン・プレイス

 

さて、ここでバーンスタインのことを少し書いておきましょう。彼は1918年、ユダヤ人移民の両親の元、ボストンの北方ローレンスで生まれました。父サミュエルはウクライナのユダヤ教のラビ(ユダヤ教の指導者)の家系に生まれ、10代後半にロシアで起きていたユダヤ人の迫害を逃れて、理髪店を営む叔父を頼りにアメリカへと渡ります。母ジェニーも同じくウクライナ出身のユダヤ人でした。

ハーバード大学・カーティス音楽院で学んだのち、ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニックを指揮したコンサートが大成功を収めます。

以後、パレスチナ管弦楽団(現イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団)の指揮者、アメリカ人として初めてのニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督を務めるなど活動の場を広げていきます。若い聴衆に向けての啓蒙活動となった『ヤング・ピープルズ・コンサート』はCBSによって中継され、現在も映像が残されていますので40代の若々しいバーンスタインを今でも見ることができます。

指揮活動と並行するように作曲活動も盛んに行い、1942年交響曲第1番《エレミア》を47から49年にかけて交響曲第2番《不安の時代》を作曲。また、44年には《オン・ザ・タウン》、53年には《ワンダフル・タウン》といったミュージカルの作曲も手がけています。

《ウエスト・サイド・ストーリー》は1949年、ジェローム・ロビンズの電話から始まりました。当初は、キリスト教の復活祭とユダヤ教の過越祭の時期(年によって移動し、およそ3月下旬から4月中旬頃)するスラム街で展開される現代版『ロメオとジュリエット』という設定だったようです。しかし、互いの多忙のためか計画は進まず数年が経過してしまいます。

ようやく1955年になって、脚本家アーサー・ローレンツとの話し合いで、今度は設定を二つのギャング団の対立と変えて再スタート。そのうちの一つがプエルトリコのギャング団でした。プエルトリコは1898年に長年のスペインの植民地から独立したものの、短い自治政府期を経て1900年からはアメリカ合衆国領となっていました。その後は独立派、自治権拡大派、アメリカ合衆国の一州を目指す一派と三つ巴状態で、1950年前後には独立派による運動が激化し治安が悪化します。その中で米国本土への移住者が大幅に増加していた、という社会背景がありました。

ところで、この時期バーンスタインは《キャンディード》の作曲にかかりきりでした。しかし、スティーヴン・ソンドハイムによる素晴らしい詞がもたらされるなど、バーンスタインの創作意欲に火がつきます。1957年2月《キャンディード》が公演を終え解放されると、《ウエスト・サイド・ストーリー》の完成へと全力を注ぐのでした。
 

 

~今月の一本~

 

プエルトリコ産ラム

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(2)

 

ラムというのはサトウキビを原料に作られる蒸留酒で、プエルトリコを含むカリブ海の西インド諸島が発祥地とされています。サトウキビは大航海時代にコロンブスらの一行によって持ち込まれ、その後の黒人奴隷を使役したプランテーションで広く栽培されるようになりました。

​​​​​​​一般的には、サトウキビから砂糖が製造される過程で出来る副産物のモラセス(サトウキビの搾り汁を煮詰めて、さらに結晶と蜜を分離した際の蜜の部分)を原料としています。中にはサトウキビの搾り汁そのものを原料として作られるラムもあり、前述の一般的なトラディショナルあるいはインダストリアル(工業)・ラムと区別して、アグリコール(農業)・ラムと呼ばれていますが、手間もかかるためごく少量しか生産されていません。

映画の中で、1961年版でアニータを演じたプエルトリコ出身の女優リタ・モレノがヴァレンティーナ役としてカムバックし、ドラッグストアの店主として重要な役どころを演じています。そんな彼女が、ひとり噛み締めるようにラムを飲んでいるシーンがとても印象に残りました。そして、その瓶には大きくプエルトリコ産ラムと書かれていたのです。

バーンスタインはその生涯にわたり、社会問題に関心を寄せてきました。青年時代の共産主義への傾倒、J. F. ケネディへの敬愛、晩年にはベルリンの壁崩壊記念コンサートで自由の尊さをベートーヴェンの第九にのせて謳い上げています。そんな彼が、昨今のウクライナ侵略を巡る、音楽と政治の問題を目にしたら、一体どんな発言をするのか、ぜひ聞いてみたいところです。

 

 

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Text&Photo:野津如弘

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