第十五回 アルルの女とプロヴァンス地方のワイン【名曲と美味しいお酒のマリアージュ】

南仏プロヴァンス地方というと、地中海沿岸の風光明媚なリゾート地というイメージを持たれる方も多いと思いますが、その歴史はたいへん古く、紀元前600年頃には古代ギリシア人によって植民地マッサリア(現在のマルセイユ)が築かれ、その後は古代ローマの属州ガリア・トランサルピナ、そしてガリア・ナルボネンシスとしてローヌ川を利用した交易の拠点として発展しました。

オランジュのローマ劇場とその周辺および「凱旋門」、アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群、ポン・デュ・ガール(ローマの水道橋)などがユネスコの世界遺産に登録されています。

この内、オランジュのローマ劇場では「コレジー・ドランジュ」(オランジュ音楽祭)が毎年夏に行われており、古代ローマ遺跡の雰囲気を味わいながらコンサートやオペラを楽しむことが出来ます。夏の音楽祭といえば「エクサン・プロヴァンス音楽祭」もあり、こちらはオペラ中心の演目で知られています。

若き日にプロヴァンスに魅せられ、後年、フランスのみならずオペラというジャンルを代表する人気作《カルメン》を作曲したのがジョルジュ・ビゼーです。

ビゼーは、1838年パリに生まれました。父アドルフは声楽とソルフェージュの教師、母エメはピアニストという環境の下、小さい頃から音楽の才能を発揮し、わずか9歳という若さでパリ音楽院のピアノ科に入学。10代後半になると、当時オペレッタの作曲家として成功を収めていたオッフェンバックや、パリに移住したイタリア・オペラの巨匠ロッシーニらに認められ、彼らの主宰するサロン(夜会)に出入りするようになります。そして、この早熟の天才は、18歳で、カンタータ《クロヴィスとクロティルド》でローマ大賞を受賞し、ローマへと留学する機会を与えられたのでした。

ローマのヴィラ・メディチに赴く旅の過程で、ビゼーは他3名の留学生と共にプロヴァンス地方を観光しています。アヴィニョンからニーム、アルルへと足を延ばし、各地の遺跡や風景に大いに感銘を受け、マルセイユでは初めて目にした海に心を奪われます。この旅は一ヶ月にも及びました。

 

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(1)

 

充実した幸せな3年の留学を終えてパリへと戻ったビゼーを待ち受けていたのは、病に伏せた母親の姿でした。ひどくショックを受けた彼でしたが、そんな中、パリに来ていたリストからピアノの腕前を称賛されます。ところが、オペラ作曲家を目指していたビゼーには、このピアノの巨匠からの言葉もさほど響かなかったようです。

最愛の母の死に続いて恩師のアレヴィを亡くしたビゼーは、編曲やオーケストレーションの下請けなどの仕事を細々とこなしながらオペラ作曲家としての成功を虎視淡々と狙っていました。

しかし、オペラ座やオペラ・コミック座での仕事は、実力だけでなく政治力や後ろ盾も必要で、若手のビゼーにはなかなか回ってきません。そこへリリック座という大衆向けの劇場から作曲依頼が来ました。古代メキシコを舞台にした《レイラ》という作品です。支配人のカルヴァロの横槍も入り、最終的には舞台はインド洋の島へ変更され、タイトルも《真珠採り》と変わりましたが、何はともあれビゼーは念願のオペラ作曲家としてのデビューを果たしたのです。

1866年には《美しきパースの娘》を仕上げ、1869年には亡き師アレヴィの娘ジュヌヴィエーヴと結婚します。ささやかな成功と幸せを手にしたビゼーでしたが、1870年には普仏戦争が勃発、フランスは不利な戦いを強いられ、パリも包囲されてしまいます。終戦後も混乱を極めた政治状況に翻弄されながら、彼は再度カルヴァロの依頼で後世に残ることになる名作を作曲します。それがアルフォンス・ドーデの『風車小屋だより』の一編「アルルの女」を戯曲化した作品への付随音楽でした。
 

 

~今月の一曲~

 

ジョルジュ・ビゼー 《アルルの女》(1872年)

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(2)

 

プロヴァンスに隣接するラングドックの古都ニームに生まれた作家アルフォンス・ドーデは、プロヴァンスのフォンヴィエイユ村の風車小屋に居をかまえ、そこからパリの読者に宛てた手紙という形式で語られる短編集『風車小屋だより』を発表します。

「アルルの女」は20歳になる地主の息子ジャンが、アルルの闘技場で出会った若い女に恋をするものの、女には情夫がいることを知り、想いを断ち切ろうとしますが、嘆きは深く、ついには身投げして命を絶つという話です。これを元に少々設定を変えて三幕の戯曲版が作られました。

女の名前は明かされませんが「両親はこの土地のものではなく」、「びろうどとレースずくめ」の格好をしていると書いてあります。アルルの闘技場でも闘牛が行われていたことも踏まえると、後に作曲される《カルメン》の主人公を連想させられるのは僕だけでしょうか。

有名なのは組曲版です。第一組曲はビゼー自身のアレンジで戯曲が初演された年に編まれました。第二組曲はビゼーの死後、友人の作曲家エルネスト・ギローによるアレンジで《美しきパースの娘》からハープとフルートで奏でられる一曲が加えられ、今では《アルルの女》を代表する一曲となっています。戯曲版・組曲版共に、当時まだ若い楽器だったサクソフォーンが組み入れられているのが特色で、オーケストラ作品としては最初期の使用例として知られています。

また、レコーディングの数は少ないですが、合唱の入る全曲版も魅力的ですので、ぜひ聴いてみてください。
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~今月の一本~

 

ドメーヌ・ド・トレヴァロン

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(3)

 

プロヴァンスはブドウ栽培の歴史も古く、古代ギリシア・ローマ時代に遡ります。生産されるワインの90%はロゼ・ワインで、日本でももっぱらロゼを見かけますが、赤ワインにも素晴らしいものがあります。

​​​​​​​今回、ご紹介するのは《アルルの女》の舞台となったフォンヴィエイユ村からアルピーユ山塊を越して北側に位置するドメーヌ・ド・トレヴァロンです。

ルネ・デュルバックはキュービズムの画家アルベール・グレーズやパブロ・ピカソとも交流のある芸術家で、1950年代にこの土地を購入し、1973年、息子のエロワがカベルネ・ソーヴィニヨンとシラーを植え始めました。エチケットは1996年のヴィンテージからルネが手掛けたデザインが使われています。

ところで、アルルという名前が付いた芸術作品では、フィンセント・ファン・ゴッホの『アルルの跳ね橋』を思い浮かべる方も多いと思いますが、彼にはアルル時代に他に『赤い葡萄畑』という収穫を描いた作品もあり、こちらは生前に売れたたった一枚の絵として有名です。描かれているのはアルルから少し北東に向かったモンマジュール修道院の辺りと言われています。その後、精神を病み療養のために滞在したのがサン=レミ・ド・プロヴァンスのサン=ポール・ド・モーゾール修道院で、こちらはトレヴァロンのあるサン=テティエンヌ・デュ・グレから東に7キロほどの場所にあります。

多くの芸術家を魅了したこの地域で育てられたブドウから醸されるワインは、地元で獲れるジビエ・ヤマウズラのローストやピレネー産子羊の背肉のロースト、プロヴァンス風かき卵ブルイヤードのトリュフ添えなどと合わせて楽しむと一層味わい深いものになるでしょう。

 

 

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Text&Photo(ワイン):野津如弘