坂東祐大×小室敬幸対談 ポートレート・コンサート『耳と、目と、毒をつかって』について大いに語る

 

昨年は『大豆田とわ子と三人の元夫』で音楽を担当し、大手メディアからも注目を集めた作曲家の坂東祐大。他にも『竜とそばかすの姫』や、今年に入ってからは『17才の帝国』といった話題作でも印象的な音楽を提供しているが、彼自身はあくまでも「現代音楽の作曲家」であるというスタンスを強調している。
坂東にとっての本分である、現代音楽に特化したポートレート・コンサート(個展)である『耳と、目と、毒を使って』の東京公演が2022年10月16日(日)に浜離宮朝日ホールで開催される。まず、坂東が現代音楽にこだわり、どんな問題意識をもって創作をおこなっているのか?音楽ライターの小室敬幸との対談でたっぷりと語ってもらった。

小室:今日は坂東さんと、そもそも2020年代に「現代音楽」と向き合う意味や意義について語っていければと思っています。まず触れたいのが昨年(2021年)、中公新書から出された『現代音楽史 闘争しつづける芸術のゆくえ』で、この中で著者の沼野雄司先生が、非常に鮮やかに20世紀の現代音楽を整理し直していてですね……。

坂東:買いました、買いました。

小室:最後の〈第8章 21世紀の音楽状況〉で、沼野先生は「現代音楽のポップ化、資本主義リアリズム」という切り口を提示しているんですね。ポップ化というのは言葉ヅラだけでも伝わると思うんですけど「資本主義リアリズム」について少し説明しておくと……。
マーク・フィッシャー(1968〜2017)というイギリスの批評家が『資本主義リアリズム』(原著2009年/邦訳2018年)という著書も出しているんですけど、それにも触れつつ「たとえ東側の社会主義リアリズムを逃れたとしても、西側で芸術を行なうということは、資本主義的な「ポップ化」を強制されることなのだというアイロニーを鮮やかに示すものだろう」と沼野先生は語っているわけです。

坂東:なるほど、すごい納得がいく。

小室:ですよね。もっと簡単に言い換えれば、社会主義の国家が持続できなくなり、事実上の資本主義一強になってしまった時代では、資本主義の中で経済的に成り立ちやすくなるように芸術作品もポップ化(≒大衆から支持を得られるような変化を)せざる得ない状況になっているっていう話なんですよね。

坂東:すごく分かります。

小室:社会主義国家ではなく、かつ世界的にみて芸術音楽に公的なお金を費やしている方であろうドイツではまだまだ伝統的な現代音楽が延命されているように思いますが、民間からの支援が主であるアメリカでは、グラミー賞でノミネートされるような話題になるような音楽はもう完全にポップ路線に進んでいますよね。
……と、かなり大雑把に世界的な現状を説明してみましたが、日本で生まれ育った坂東さんとしてはどのような感覚で現代音楽と向き合っているのかをまず聞きたかった。

 

坂東祐大インタビュー(1)

 

――日本の現代音楽は「本国からフランチャイズされたスピンオフ」である

 

坂東:ちゃんと「アートとしての意義」みたいなことを考えながらやっているんですけど、そこの単位があまりに小さ過ぎて分かってもらえないことが多いのは、むず痒いところですよね。「好きでやってるんでしょう」みたいに思われると、ちょっと違うんですよっていう。

小室:いかにも音楽活動、創作活動に対する、社会からの雑な理解(笑)。そうだったら公的な支援とか受けられていませんよっていうね。

坂東:そうなんですよ。それでいうと、僕の態度はもう吹っ切れていて。多分「西洋音楽史」というものは完結してしまっているっていうのを、悲しいけど認めざるを得ないところから考えないといけない……。そう思うようになりました。悲しいから認めたくないんですけど。
おそらく「現代音楽史」というものは「西洋音楽史」に入らなくて、別冊になってしまうだろうし、しかもそれは日本においては“原作が終わっちゃっている上での他国におけるスピンオフだ”っていうところまで考えないといけないのかもと考えています。喩えるならMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)でいえば、アメリカ本国で全てのフェーズが完結した後に、フランチャイズしてもらって日本で新作を作っている感じというか。

小室:その例え妙にしっくりきますし、リアルな肌感覚が伝わってきますね……。

坂東:「本国で終わっていて」、「フランチャイズされたものと繋がる要素を探さないといけない」って考えてみると、自分の中でしっくりきたんですよね。現代音楽の場合の本国はもちろんヨーロッパになるわけですが、と同時にここ数十年、作曲家の認知度って下がりつづけていると思うんです。一般の方が知っているコンポーザーって、多分フィルム・コンポーザーしかいないんじゃないかっていう。​​​​​​​

小室:ちょっと注釈的なことをいれると、フィルム・コンポーザーってのは映画だけじゃなくドラマとか、いわゆる「劇伴」の音楽を専門とする作曲家たちのことですね。​​​​​​​

坂東:(フィルム・コンポーザーではないけれど色んなジャンルから知られている)ライヒはそういう意味でいうと、すごくうまいことやったなって思うんですけど……いずれにせよ、そもそも現代音楽の作曲家という存在が知られていないというのが前提になってしまうのは悲し過ぎます。でも悲しいだけじゃ終われないですよね、そもそも始まらないから。そんな状況をどうしようかっていうところをまずスタートラインにしないと……。

小室:スタートラインの先の話も伺いたいんですけど、その前に確認しておきたいのは、歴史が続いているという感じをいつ頃まで信じられていました? そしてその認識に変わったのって坂東さんの作品の中でいうとどのあたりからですか?

坂東:コロナ前までですね。でも、以前から薄々は感じていて……。コロナになってからやっぱり考える時間が増えて、今の現代音楽を西洋音楽史に帰属させるのって相当難しいんじゃないか、と思うようになったり。聴衆も演奏家も実際にはクラシック音楽の世界とかなり距離があるし。そんな思いがある中で《ドレミのうた》を作って吹っ切れたんですね。
あと「アート」とは、という問いに対して考える時間も増えました。これはあんまり言うと意地汚くなっちゃうんですけど、ステイホームになった時にみんな、家から自分の演奏をYouTubeに上げはじめたじゃないですか? あれに違和感を感じてしまったんですよね。もちろんすべてじゃないですけれど、普段全く演奏もしたことがないようなポップスをカバーして演奏してみた、みたいなバズることを狙った動画とか……。文脈もないし、アートでも何でもないじゃないですか。

小室:公演のテーマである「毒」が出てて、いいですね(笑)。

坂東:作品やアーティストが提示したものに対して自分なりの答えを考えてみる、そこで思考をちゃんと深めるっていうことが、アートの基本であり、それはクラシック音楽でも現代音楽でも一緒だったはずなんだけど、なんかいつの間にかリラックスすることみたいになっていて。

小室:プレイリスト的な聴取なんかまさにね。

坂東:あるいは聴く側に対しても、ただ上手い演奏を聴くことにすり替わっていて、なんか全然それアートじゃなくない?っていう思いがあって、なんでそうなっちゃうんだろうって考えていたんです。

小室:めっちゃ分かります。超絶技巧だったり、美しい音色だったりと上手い演奏が魅力的で人を惹きつけるのは分かるんですけども、でもそれって言い換えると何弾いたって一緒じゃんっていうことにもなりかねない。その作品が複雑に作られていたり、何らかの音使いである必要性とかって究極的にはどうでも良くなってしまうわけですからね。「新しい複雑性」と呼ばれるような音楽を超絶技巧の部分だけ楽しむのなら、あの複雑性は本当に必要なのか?とかね。

坂東:今の日本では、現代音楽と他のカルチャーとの繋がりが希薄になっているから広がらないし、それはアカデミズムのなかには極論すると音楽しかないから、カルチャーとしてやっぱり広がらない。教育の問題として片付けるのは簡単だけど、根源を考えていったら、さっき言ったような歴史観で考えると合点がいくのかな……って思うようになったのが、2019年から2022年にかけてという感じですね。一個人が、というより構造的な問題も大きいと思います。

 

――坂東の作曲した《ドレミのうた》とは、何だったのか?

 

坂東祐大インタビュー(2)

 

坂東:もうひとつ考え方が変わったのは、ただ作品を作るだけではなく、公演としてどうするのかってことまで考えないと、作曲家としてというよりも発信者として誰がやっているのか軸がぶれると思うようになったんです。公演といっても興行的に大成功を収める、みたいな大それたことをしたいわけじゃなくて、コンサート全体のプログラムをキュレーションすることにシフトしていく方が、アーティストとしての自分を発信できるだろうなっていうことを考えたんですよね。
そのひとつの形態としてアルバム(CDやLP)もあると思ったし、音楽の配信みたいなのもあると思うんですけど。実際に何かを提示するときにそれを一晩でやってみたいというのは、例えばダンスの公演だったらカンパニーがあって振付家がいて、誰が主体かっていうのが分かるじゃないですか。でもオーケストラの一晩のコンサートって、誰が主体なのかよくわからない構造になっていますし……。

小室:聴衆の多くは自分が理解できたか、自分が楽しめたかどうかを判断するだけですし、いわゆる評論家の多くも若い作曲家の創作遍歴を押さえられているわけでもないから適切な判断が出来ないというのが実情ですもんね。

坂東:それに、もはや新作のオーケストラ曲を書いたから偉いんだという時代でもないじゃないですか? 創作を取り巻く価値観に対して、様々な欺瞞に満ちているような気がしてならなくて……欺瞞って言っちゃうと色んな人を敵に回してしまうんですが(苦笑)。「今からみんなで新しい価値観を作って行こうぜ」って作曲家が大勢頑張っていた1960年代だったらそれでも良かったのかもしれませんが、2020年代で「それはちょっとなくない!?」って正直思ってしまいます。

小室:確かにこの欺瞞に満ちた暗黙のルールに向き合わないまま創作を続けたって、何も変わんないですよ……。

坂東:そうなんですよ。

小室:それで、吹っ切れて作ったのが《ドレミのうた》になるわけですね。《ドレミのうた》は日本の現代音楽という枠でみても、これまでの坂東作品――それこそ一緒にCDとしてリリースされた『TRANCE / 花火』と比べると、かなり浮いているように思えるのですが……。

坂東:どう考えても浮いてましたもんね(笑)。今から考えると、僕はどういう立場なのかアティテュード(姿勢)的なものを表明した作品のひとつが《ドレミのうた》だったような気がしていて。何かひとつ「ずらす」とか「くすぐる」ことによって別のものを見られるんじゃないか、みたいなね。それはアートの基本であるはずだし、音楽でやっていいはずなのに、全然やっていなくないか?って思ったんです。
モデルケースを探そうとしたんですけれど、やっぱり音楽の中にはなかなか見つからなくて。 美術とかパフォーミングアーツにしか、モデルになりそうなものがない。でもだからこそ自分の持っているパレットと組み合わせたら、面白いものができるんじゃないかってところからもう一度考え直した作品なんですよ。もっと色んな人から怒られると思ったんですけど、意外とみんな笑ってくれましたが……。

小室:それは良かったともいえますけど、悪い見方をすれば、こういう作品もあるでしょ……ぐらいで、まともに受け取られなかったのかもしれないですよね。でも《ドレミのうた》こそが今後の坂東さんが進んでいこうとしている道なんだと伝われば、反応も変わりそうな気がしますけど。

坂東:それを最終的にはオペラでやりたいんですけどね。面白そうじゃないですか、全てが屈折していて……。

小室:リゲティの《ル・グラン・マカーブル》みたいになりそうですね(笑)。

坂東:あの路線はもっと継承されても良さそうなのに、と思っています。

小室:もしそうなったら《ドレミのうた》の捉え方は完全に変わりますね(笑)。この曲は実際のところ、ソルフェージュ(=音符の読み書き)の専門教育を受けている人の方がより違和感を覚えると思いますが、《ドレミのうた》でズラされているのは(紀元前のピタゴラス由来の)音律と、(11世紀のグイード・ダレッツォ由来の)音名・階名――つまり西洋音楽を成り立たせている根幹なので、義務教育レベルの音楽知識でも面白さが伝わるのがこの作品の良いところだなって私は思っています。ファンダメンタルな部分をくすぐっている感覚自体が、作者と聴衆双方で共有できているという意味でね。

坂東:さっき言ったように現代音楽は西洋音楽のスピンオフだとはいえ、スピンオフが故に本編と接点がないと駄目だと思うんですよ。その上でどういう面白いことが出来るのかというのを今の立場を踏まえた上で考え直すみたいな思考が、多分これから15年ぐらい自分の中で続くと思うんですよね。それならやる意味があると思えるかなっていう。ただ《ドレミのうた》については突き抜けている感じもあるので、もうちょっと幅があってもいいかなとも思っているんですけど。とはいえ今回の個展『耳と、目と、毒を使って』の作品は、やっぱり全部そういう意地悪な感じです。

小室:坂東さんの音楽を「毒キノコ」とか「毒」って評したのは(ヴァイオリニストで、Ensemble FOVEメンバーの)尾池亜美さんでしたっけ?

坂東:そうです。言い当てられたなと(笑)。実は最近、『耳と、目と、毒を使って』のあとには続きがあるんだと思うようになって。「目と、耳と、毒を使って、音楽の仕組みをくすぐってみる」っていうか、なんか「音楽の根源」とか「音楽の成り立ち」を「ずらしてみる」とか、なんかそういうのが続くのかなって気がしてきています。もちろん、それは自分ひとりで成し得たこととかではないとも思っていますが。

 

坂東祐大インタビュー(3)

 

――いかにして自分で書いたものの良し悪しを判断するか?

 

小室:もともと『耳と、目と、毒を使って』は、2022年3月13日に京都芸術センターで行われた坂東さんの個展でした。その時のチラシをみると《言い訳の方法》(2020/22) for flute、《間の観察》(2021/22) for koto、《ため息の音楽》(2022) for clarinet and percussion、《声の現場》(2021/22) for speaker, sampler and music ensembleといった曲目が並んでいますが、実際は《ドレミのうた》からも2曲、映像付きで流していましたね。そのうちひとつがAC部の制作した映像でしたけれど、YouTubeで観た時よりも「何を観させられているんだろう?」という居心地の悪さがより際立っていたのが忘れられません(笑)。

坂東:(笑)。

小室:それで、今度10月16日に浜離宮朝日ホールで開催される東京公演のプログラムと見比べてみると、まずはクラリネットと打楽器のための作品のタイトルが丸っと変わりましたが……。

坂東:そう、《ため息の音楽》は全て書き直しました。やっぱり違うな、うまくいかなかったなと思って。なんか小室さんもおっしゃってませんでした?

小室:同じ公演内で比べた時に、他の作品はプログラムに書かれた坂東さん自身によるコンセプトの解説が、実際の音としても直感的に面白さが伝わってきたんですね。ところが《ため息の音楽》のコンセプトは、頭で解釈すれば理解はできるけれど、音そのものからは充分に伝わってこなかったんですよ。それに毒っけもあまり感じられなかった。

坂東:そうなんですよね。直感的に伝わるものじゃないと、多分これは分かんないなと思って。それでクラリネットの曲はもう全部、一から考え直して、新しく《上手にステップが踏めますように》っていうリズム遊びを匂わせるようなタイトルなんですが、すごく意地悪な曲を書きました。このタイトルは二重の意味がかかっていて、第1には「奏者がちゃんとグルーヴィーに演奏できますように」、第2には「それを聴いた聴衆がまるで踊れるようになるか、ならないか」という……。

小室:だからステップなわけですね。

坂東:ちゃんと楽譜上で作曲されてるんですけど、間違ったようなリズムがずっと続いて、それが噛み合ったり噛み合わなかったりする。でもそれが癖になってきたりして、最終的には踊れるようになるんですけど「こんなんできるか!」みたいな(笑)、すごく意地悪な舞曲になるっていうのをイチからやっていったっていう感じですね。

小室:私も大学時代に作曲科で学んでいた身として、今のお話を聞いて思うのは、そういうアイデアを思い付くこと自体は多くの人に出来たとしても、それを直感的に伝わる曲に仕上げるのはものすごく難しいと思うんですよ。実際に演奏されてみないと、もちろん分かんないことってあると思うんですけど、作曲中はどんなことに注意を払ってるんですか?

坂東:ちょっと遠回りな話になるんですけど、そこが野田門下なのかなっていう感じなんですよ。

小室:先日、訃報が入ったばかりですね……〔※インタビューは作曲家 野田暉行さん死去のニュースが流れた3日後の9月21日〕。

坂東:作曲家としての度胸をつけていただいたことは事実なんですね。先生の元で鍛えられたことが今の自分の筋力になってます……のようなことは門下生の諸先輩方がおっしゃっているような気がしますね。僕が習ったのは芸高(東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校)の受験前から高校2年までで、エクリチュール(書法/和声、対位法などの作曲に必要な基礎技術)だけだったんです。

小室:つまり、自由な創作物は見てもらっていないということですか。

坂東:エクリチュールに関して厳しい教育を受けると、書くからには、書いたからには責任を持たざるを得ないっていう感覚があるんです。作曲していて主観的に音楽の中に入って書いているときと、客観で書いているときを見極めないと分かんなくなっちゃう。その判断をするには時間がいるんですよ。トライ&エラーして、違う違う、楽譜見てソルフェージュをして、やっぱり違うな……みたいなことをひたすら繰り返すだけなんですけどね。それが楽譜を書くってこと対する基本姿勢みたいなことだと思うんですけど。

小室:でもそうやって時間をかけて書いたものをボツにすることもあるわけじゃないですか。しかも演奏前にダメだと判断することもあれば、演奏した後に改訂したり、破棄したりすることもありますよね。五線譜の上に書いたものを、これでOKだとゴーサインを的確に出せるかっていうのは、難しい問題ですよね。

坂東:何か目的があって、しかもそれがチーム戦だとすごく筋道が簡潔なんですよ。例えば、映像に音楽を付けるということだったら目的があるから判断しやすいし、しかもプロデューサーもいれば監督もいるっていう色んな人の意見が聞ける状況ですから。でも自分だけがOKであればそれで良いっていう究極的に全部兼ねている状況なら、やっぱり迷います。

小室:坂東さんは、そういった様々な分野の人々がいる現場でたくさん活動されていますけど、そういう経験があまりない作曲家の場合、良し悪しを判断するモデルが自分の作曲の師匠――つまり世代が上の同業者――から受けてきた指導になってしまいがちなんじゃないかと思うんですよ。作曲コンクールの審査員も世代が上の同業者ばかりなので、業界内で認められるためには、旧世代の価値観にある程度以上従う必要性がある構造になっていますし。

坂東:(《声の現場》のテキストをキュレーションした詩人の)文月(悠光)さんから聞いたんですけど、現代詩の世界も選評する人が作り手っていう状況なんですって。現代音楽と全く一緒らしい。別に聴衆に寄り添え、媚びろっていうわけではないですけど、これは全く良いことじゃないじゃないですか。せいぜい音楽学の方がいらっしゃるぐらい。

小室:どう考えたって、タコツボ化しますからね……。

坂東:僕がいろんなジャンルの人と交流しているのは、そういう理由が確実にあって。マズいくらいタコツボ化しているから、このまま行っちゃダメだし、嫌だって感じたんです。色んな面白いクリエイター、そしてちゃんとリスペクトし合える方々と関わっていないと、ちょっと正気を保てないみたいな感じになっちゃって。そういうのがないとクリエーションする気にさえならないっていうのはあるかなっていう感じがします。

小室:じゃないと業界内の身内で称賛し合うさもしい状況になってしまい、業界外からしたら自己満足で発表しているようにしか見えないと思うんですよ。まあ嘘偽らずにいって実際に数多くの現代音楽がそうなっているわけですもん。特に自主企画で発表して、関係者だけ聴きにくるような公演だと。

坂東:それはやっぱり良くないし、出会った色んな人をちょっとでも引きずり入れて聴いてもらうんだ、と。1人でも2人でも外から聴いてくれる人がいた方が絶対に意味があるとは思っています。

小室:だからこそ今回の個展でも文月悠光さんのテキストによる《声の現場》があったり、東京公演で追加されたエレクトロニカの最前線で活躍するPause Catti(パウゼ・カッティ)さんとの共作《逆に、》があったりするわけですよね。

坂東:Pause Cattiさん、めちゃめちゃクールなトラックを作っています。彼と一緒に作った《逆に、》は委嘱された豊中市立文化芸術センターで初演されたのですが、ちょうど僕が『大豆田とわ子』と『竜そば』とかの仕事を同時並行で一気にやっているときだったので、もう死にそうになってて残念ながら初演に全然立ち会えなくて。なので、生で聴くのは自分も初めてで、すごく楽しみです。
よくよく考えてみるとこの作品も全部、逆張りだなと思っていて。エレクトロニクスってこういうのでしょ? ライヴエレクトロニクスの曲にこういう曲あるよね?みたいなやつの逆張りを全部やっていくっていう作品です。それがファニーな感じで面白いなと。

 

――「改訂」と「作曲」の狭間で、何を求めているのか?

 

小室:このまま個展に話を戻しまして……。既に筝のLEOさんのコンサートで演奏されている《残像と鬼》は、京都公演時の《間の観察》の改訂なのか、それとも別の新曲なのでしょうか?

坂東:だいぶ変わりましたよ。ほぼ新曲という感じです。

小室:ん?それは、どのくらい元の素材が残ってるんですか?

坂東:指の形だけ残ってます。だからさらう(練習する)のは、半分の労力でいいっていう。

小室:え〜?それ本当に半分の労力で済みます?(笑)。そもそも《間の観察》は筝とメトロノームのための楽曲で、メトロノームが非常に遅いテンポで6拍子周期のリズムを刻むために、邦楽的な間(楽器の余韻や演奏していない時間)が邪魔されるわけですが、徐々にアンサンブルしているようにも聴こえてくるという不可思議な作品でしたよね。

 

坂東祐大インタビュー(4)

 

坂東:さっきの《ため息の音楽》と異なり、《間の観察》のアイディアはもっと広げられるし、アンサンブルでやったほうが面白いなと思っちゃったんですよね。(主宰するEnsemble FOVEのオリジナルプロジェクト)SONAR-FIELDみたいなトーンで、一晩あのコンセプトで色んな楽器とやれるまで、あのアイデアはとっておくことにしたんです。
それに箏――つまり日本の古楽器で、間を使ったフレージングを書いたら、こういう間で演奏されるんだっていうのが何となく掴めてきたので、逆に「この間では、このリズムでは絶対やらないだろう」みたいにフレージングを脱構築してみようと。もっと抽象度を高くして「何だろうこれ?」みたいな、よく分かんなくて消化できないような展開とか、そういうことを作ってみるのもいいかなと思ったんですよね。そういうブラッシュアップをしていったら、ほぼ新曲になったという感じですかね。

小室:メトロノームを鳴らさずとも、邦楽の間の概念を再検討できると判断したわけですか。それに今のコンセプトをうかがって面白いなと思ったのが、同じLEOさんのために作曲された藤倉作品とは発想から何から真逆だなあと。

坂東:真逆ですね。

小室:LEOさんのための作品に限らず、藤倉さんは楽器の可能性を汲み尽くしてその中から新しい組み合わせを探していく、めちゃくちゃ正攻法でアプローチしていくことが多いように思いますけれど、坂東さんはご自身でも言っているように「逆張り」ですもんね(笑)。

坂東:とはいえ逆張りも長くやっていると、それがスタンダードになっていくはずなので、そこからまた次の世界があるんだろうな……ということは自明の上でやっています。自分はすごい飽き性なので、「引用」に飽きたみたいな感じで「壊す」ことに飽きてくるはずなんですよ。10年持たないかもしれない(笑)。

小室:それでも今は、これこそが自分の中で最もリアリティを持って取り組める問題意識なわけですもんね。

坂東:今、お話させていただいたような状況は多分、有識者であれば100%賛同はしてくださらないかもしれないけど、部分的には共感してくださるんじゃないかと思います。怒る方も一定数いるのは分かりつつ。

小室:でも以前からおっしゃっているように、安直に泣かせることを目的とするような音楽は書きたくないわけですもんね。

坂東:感動が目的になってしまうのは、もういいよって思っちゃってますね、自分の場合は。

 

――声を素材にした《言い訳の方法》《ドレミのうた》《声の現場》と、その先にあるもの

 

小室:政治家の演説をフルート独奏に変換した《言い訳の方法》には手を加えていますか?

坂東:ちょっとだけディテールをブラッシュアップしました。さらにいろんな政治家の方を足したりしつつ(笑)。

小室:詳細は実際にご覧いただきたいですけれど、京都公演の時には最後、もう一度答え合わせ的なものがあるのも良かったです。

 

坂東祐大インタビュー(5)

 

坂東:これはウケますよね、掛け値なしに多久(潤一朗)さんが面白いから(笑)。あ、あと《ドレミのうた》は実演する前提で作曲していなかったので、新バージョンを書きました。子どもの声をはじめとした様々な声をサンプラーにアサインして、それに合わせてソプラノの高野百合絵さんとバリトンの黒田祐貴さんが斉唱して歌う……けど、完璧なデュエットで気持ちよくハモっていくのに何かがおかしいっていう(笑)。それで(《ドレミのうた》旧バージョンと)《声の現場》との中間みたいなところを狙っています。

小室:ちょっと話が外れちゃいますけど、音名・階名で歌うといえば、フィリップ・グラスのオペラ『浜辺のアインシュタイン』(今年30年振りに日本で再演)が有名ですよね。声楽が音名や拍数や繰り返す数などしか歌わないのがオペラとして革新的だ……というような説明がよくなされるんですけれど、作曲者グラスの自伝を読む限り、そこに芸術的なこだわりがあったというよりも、練習のために音名と数で歌ってたところ、そのままでいいかっていうぐらいのノリなんですよね。

坂東:エコな作曲がグラスらしいし、いい話ですね。

小室:それが巡り巡って、オペラの歴史を変えた伝説的作品とみなされるのが面白い。

坂東:そのぐらいでもいいんだっていうのは、なんか勇気湧きますよね。頑張ったから良い曲が書けるみたいな、そういうことじゃないと思うんですよ。全部150キロ、160キロの剛速球を目指せばいいかっていうと、そういうことじゃないよねっていう。

小室:それって結構大事なことですよね。もちろん訓練の段階では、さっき語っていたようなエクリチュール的なことを身につけるためにものすごい努力と、一定以上の年数が必要になってしまいますけども、その先に何をやるかっていう時には、必ずしも労力や時間のコストをかければいいってものでもない。

坂東:そのこと、意外とみんな分かってないし、実際自分もできなかったですもん。

小室:坂東さんもそうなんですか?

坂東:力を入れ過ぎているっていうのが、分かってはいるんですけどね……。でも、そういう意味でいくと、《声の現場》は展示とかコンセプトを作り上げるのにはすごく時間かかっているんですけど、作曲にはそれほど時間がかかってないんですよ。即席っていうと語弊がありますが、ザーっと勢いで書いちゃおうと思って作ったら、面白くなったから「いいじゃん、これで!」みたいな感じでしたね。時間と労力に比例しないんだなっていうのを、その時にちょっと分かった感じがあって。

 

坂東祐大インタビュー(6)

 

小室:《声の現場》の場合は、アンサンブルとして演奏するバージョンの前に、声だけをコラージュしたバージョンをサウンドインスタレーションとして展示していることが、やっぱり大きいんじゃないですか? あの時点で時間軸上にどうテキストを配置するのかという課題に対し、納得できる解が見いだせているわけですもんね。

坂東:本当にそうだと思います。あの展示がなかったら、あんな風には作曲できていないですよ。いずれにしても作曲するという行為にブラックボックスがあり過ぎるんですよね。

小室:ブラックボックスだからこそ、神秘化したり、神格化されたりしてきたわけですよね。クラシック音楽や現代音楽では未だに天才的な個人の想像力こそが最高のものとされており、他者が天才を刺激することがあっても、共作に対するネガティブな捉え方は拭えていないままな気がします。

坂東:それにある程度以上の長さをもったオーケストラ作品で、優れたものを書いた作曲家が絶対的に偉いみたいなね、そういう風潮に対して「オケを書くことだけが正義じゃないよ」みたいなことは、ある程度年齢がいった作曲家が言っていかないと、下の世代が制作する上で窮屈に感じるんじゃないかと思うんですよね。

小室:日本音楽コンクールの作曲部門には室内楽の年もありますが、武満徹作曲賞にしても、海外の有名な作曲賞にしても、優れたオーケストラ作品を書けないと評価されづらい状況は確実に存在していますもんね。

坂東:芸術活動においては自分の表現したいことが作曲家として表現できるっていうことこそが大事なわけだし、それには色んなやり方があるから、ひとりひとりが見つけていけばいいと思うんですよ。そういうことに否定的な人は、多様な美学を楽しむっていう普通のことが何故できないんだろう?

小室:もう本当にそれは私も強く思っていることで、誰とは言いませんが現代音楽を専門とする音楽評論家とかで、どういう基準でその良し悪しを判断しているのかは、これまでの主張をいくつも読めば分かるし、首尾一貫はしているわけですよ。でもその価値観にそぐわないものに対しては批判しか出来ないわけです。当人はそれが当たり前で、それが正しいと思っているかもしれないけれど、それが現代音楽という世界・業界のタコツボ化に寄与してしまっていませんか?……と自問してみて欲しいですよ(苦笑)。

坂東:(現代音楽を専門としない)クラシックの人たちに対しても、全体のマップを見間違っているじゃないかって感じることがありますよ。新作の委嘱をする社会的・文化的な意識を改めて考えて買いたいし……あんまり言うと怒られるから言わないだけで、同じようなことを思っている人はいるはずだと思いますけどね。

 

坂東祐大インタビュー(7)

 


 

【公演情報】

『耳と、目と、毒を使って』東京公演

https://www.yutabandoh.com/portrait2022

日程:2022年10月16日(日)18:00(開場17:30~)
会場:浜離宮朝日ホール (東京都)
作曲・構成・指揮:坂東祐大
出演:多久潤一朗|フルート
   LEO|箏
   大石将紀|サックス
   山中惇史|ピアノ
   高野百合絵|ソプラノ
   黒田祐貴|バリトン
   東 紗衣|クラリネット
   大家一将|パーカッション
   前久保 諒|キーボード
   矢部華恵|声
   有馬純寿|エレクトロニクス
   文月悠光|テキストキュレーション

坂東祐大:
言い訳の方法(2020/22)for flute
残像と鬼(2022)for koto
逆に、(2021)for saxophone, piano and electronics(Electronics:Pause Catti)
ドレミのうた(New version)for mezzo soprano, baritone and piano
上手にステップが踏めますように(2022)for clarinet and percussion
声の現場(2021/22)for speaker, sampler and music ensemble(Text:文月悠光)

※やむを得ない事情により、曲目が変更になる場合がございます。予めご了承ください。
 

かつて「現代音楽」は、音楽の歴史における必然の進化プロセスとみなされていた。だがそれも遥か昔……現在では音楽ジャンルに貴賎はなく、多様な価値観を尊重すべきであるという考えが当然となりつつある。権威と共に社会における存在感を失って久しい「現代音楽」は今後も、限られた聴衆のためのジャンルであり続けるのか?――そんな不安な未来予想は、坂東祐大の個展に来れば容易く吹っ飛んでしまうに違いない。
敢えていうならば、坂東は“毒をもって毒を制す”タイプの毒使い。私たちが無意識に「当たり前」「普通」だと信じてやまない物事を、居心地の悪さでもって自覚させ、いま一度フラットに捉え直すきっかけをくれる。それでいて音響そのものは理屈っぽくなく爽快で、憎らしいほどなのに憎めない。シーンを今まさに更新せんとする坂東の動向は、片時も見逃せない。

小室敬幸(音楽ライター)

 


 

Interview&Text:小室敬幸

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