第30回 J-POPはなぜ世界で通用しないのか②【音楽あれば苦なし♪~ふくおかとも彦のいい音研究レポート~】

ミック・カーンの衝撃

 

土屋昌巳さんのアルバム『LIFE IN MIRRORS』(1987)の、ロンドンでのレコーディングの話。参加してくれたミュージシャンたちの誰も譜面が読めないという状況に、驚くと言うよりはむしろ不思議な思いでいたのですが、中でも元“JAPAN”のベーシスト、ミック・カーン(Mick Karn)は印象的でした。
土屋さんは、依頼する曲のベース抜きのラフミックス・カセットを彼に渡し、その3日後にスタジオに来てもらいました。他の楽器はほぼ日本で録音済みで、ミックのベースだけを追加録音するという工程です。
しばしの談笑ののち、さあやろうか、とエレキベースを取り出し、ケーブルで調整卓(コンソール)につなぎセットアップ。で、録音テープを回したら……私はちょっと感動してしまいました。
そもそもミック・カーンは、非常に個性的な “キテレツな”と言ってもいいくらいのベースフレーズを得意とする人ですが、その時も、3日前に初めて聴いた曲なのに、おもむろに、彼ならではの独特なベースラインを弾き始め、譜面やメモなど全く見ることなく、しかもただの1音も間違えることなく、完璧なノリのよさで最後まで弾き切ったのです。
「一日千夜」という曲です。残念ながら音楽配信サイト「mysound」にはないようですが、機会があったら、ぜひ聴いてみてください。
ちなみに土屋さんはミックにテープを渡した時も、打合せなど全くしていません。カセットテープを聴きながら、ミック自身がラインを考案したのでしょうが、すごいのは、それを完全に頭に、いや身体に覚え込ませて、A、B、サビ、間奏、と構成も簡単じゃないのに、ひとつのミスもなく涼しい顔で弾いてしまうという……でも、ホントの衝撃はその後にやってきました。
そのプレイを聴いて土屋さんが、ある1音だけ音程を変えたいと思ったんです。で、プレイバックしながら、ミックに「ここをGにして」と言うと、彼は「Gって…」と戸惑っています。なんと、彼はフレットの指の位置と音階名が結びついてなかったんです。それだけ弾ける人がそんなことってあり得ますか! 土屋さんはミックの指をつまんで、Gの位置に持っていってあげました。
そしてもう一度、頭から録り直しましたが、当然のようにそれがOKテイク、録音終了でした。

 

音楽あれば苦なし♪(1)

 

世界に通用しない理由

 

あれほどの“離れ業”は他に知りませんが、米国やオーストラリアで経験した、セッション・ミュージシャンを呼んでのレコーディングでも、さすがにコード譜(コード進行と構成だけ書いた譜面)くらいは使っていたものの、やはり日本のセッション・ミュージシャンたちの“楽譜リテラシー”の高さには比ぶべくもありませんでした。
譜面に強くない分、どうするかと言うと、単純に何回も演るんですね。曲全体が頭と身体に入ってしまうまで。“The Ronettes”の「Be My Baby」という大ヒット曲がありますね。あれはフィル・スペクターというプロデューサーが、米国西海岸の“レッキングクルー(The Wrecking Crew)”と呼ばれたセッション・ミュージシャンを十数人も呼んで、セーノで録音したのですが、全部で42回もやり直したようです。そのスタジオの様子がレコードになっていて、YouTubeにもアップされているんです。まあ、途中で誰かがミスするとか、スペクターが気に入らなくて止めるとかで、完奏しないことが多いのですが、それでもそんなにやったら、疲れていい演奏ができなくなると思いますよね。でも、みんな体力はあるのか、ひたすら繰り返しています。

楽譜は音楽における言語みたいなものだから、レコーディング作業をスムーズに進めるために不可欠だし、プロのミュージシャンたるもの当然読み書きできなければならない、くらいに思っていたのに、米英ではそうじゃないという事実を知りました。で、実際、効率はよくない。だけど、結果生まれてくる音楽はというと、それでも米英はいいものをつくっているんです。
効率のよさと音楽のよさは、常識的に考えれば関係ないでしょう。でもひょっとしたら日本人は、効率のよさを重視して、そのために音楽のよさが減っているのかもしれない。楽譜が読めれば楽なのに、あえてそうしないで音楽に対することが、音楽のよさを高めているのかもしれない。

エンジニア“文化”の違いも興味深い。これについては、この『音楽あれば苦なし』の「レコーディング・エンジニアという職業について」、特にその③で詳しく書いたので、参照してもらえればと思いますが、要するに、日本ではエンジニアに従いその手足となって働くアシスタント・エンジニアは概してとても優秀で、特に録音機材などを操作する職人ワザなんて素晴らしいのですが、エンジニアとして有能なプロデューサーにまでなるような人が多いのは、圧倒的に米英のほうなのです。

また、米英では伝統的に、音楽づくりの中心は「プロデューサー」ですが、日本ではその存在感が希薄です。これもこのシリーズで「日本にはなぜ音楽プロデューサーが少ないのか?」と題して、考察しました。“NOと言えない”日本人の精神性と「創造性」のような目に見えないものにお金を出そうとしない社会感覚、売れても大きく儲からないけど売れなくても責任が軽いアーティストの事情……などがその原因だと考えます。

もうひとつ、海外レコーディングで気づいたことがあります。英国で、遊佐未森のアルバム『アルヒハレノヒ』(1994)の中の2曲を、元“New Musik”のトニー・マンスフィールド(Tony Mansfield)のアレンジにより、レコーディングした時の話です。トニーは特に「小鳥」という曲を気に入ってくれたみたいで、ある時「これ、いい曲だからシングルかな?」と話しかけてきたんです。「そうだね、まだ決めてないけど」と返してそれで終わった、ほんの一瞬の何気ない会話だったんですが、ハッとしました。なぜなら、日本ではシングルを決めるのに、タイアップをつけないととか、ラジオのヘビーローテーションが決まったらとか、何かとしがらみがつきものだったからです。「いい曲だからシングル」という、本来当たり前のシンプルな発想が、その時の私の頭からは消えかかっていたので、トニーの素直な一言はとても印象に残りました。むろん彼が特殊だったわけではなく、彼らの文化では、依然「いい曲だからシングル」がふつうだったということですね。

以上のエピソードは、いずれもがひとつのことを示唆しています。日本の音楽業界は「ホントにだいじなもの」を忘れている、あるいは軽んじているんじゃないかということです。「だいじなもの」とは「いい音楽をつくろうという気持ち」です。
日本でもアーティストやミュージシャン自身は、まずはいい音楽をつくろうと考えていると信じたいですが、業界という単位になると「効率」や「要領」のよさや「費用対効果」などが優先され、どんなに「いい音楽」だと言われようと売れなければ意味がない、という考え方が支配的です。もちろん、売れなければやっていけないのですが「いい音楽=売れる」という発想がほとんどなく、むしろその逆のような空気さえあり、さらにそれをユーザーすら共有しているようにも感じます。
そりゃ、米英にだってそういう考え方の人は少なからずいるでしょう。だけど、私が体験したわずかな機会においても、真逆なほどの違いをはっきりと感じたくらいですから、これはもう国民性とか文化の差と考えざるをえません。

効率を優先し、売上を第一に考えれば、日本国内である程度の商業的成功を収める確率は上がるでしょう。しかも成功体験はそのやり方の正統性を強化していきます。しかしそれで、世界に通用する音楽を生み出せるとは思えません。世界が求めるのは、理屈抜きに楽しい、あるいは刺激的な、あるいは感動的な、つまり「いい音楽」だからです。

 

音楽あれば苦なし♪(2)

 

変わらないのだろうか?

 

こう考えてきて、ふと、これって「日本人の英語」と似た話かもなと思いました。日本人って、ちゃんと義務教育から英語を学ぶし、その後も英語学習の機会はありあまるほどあって、学習熱もかなり高そうなのに、英語を流暢に喋れる人はホントに少ないですよね。
世界各地からのニュースなど見ていると、とても教育環境がいいとは思えないような地域の人でも、ブロークンながらちゃんと英語で自分の考えを話していることが多いと感じます。もしかしたら日本人は世界でいちばん英語を話せないのでは、なんて思ってしまいます(自分も含めて…)。
この原因は、言語というものの、いちばんだいじなポイントを押さえられていないからだと思うんです。だいじなのは「伝えること」ですね。単語を並べるだけだろうが、身振り、表情駆使しようが、何でもいいから伝わればよし。だけど日本の英語学習は、英文法と綴りから入っていく。日本人が最初に習う(今は違うのかな?)「I have a pen」、教科書によっては「This is a pen」なんて、実生活では絶対使わない。見れば分かるから、とツッコミながらも、基本的にはその延長で勉強してしまう。正しい文法、正しい綴り、豊富な語彙を目指してしまう。英語で話そうと思ったら、頭の中で日本語を“正確に”英語に翻訳して……なんてやってるから結局シドロモドロになってしまう。それが恥ずかしくて、よけいしゃべれなくなってしまう、という悪循環です。今や「だいじなのは伝えること」ということも、みんな解っていますよね。なのに、変えられない。いつまで経っても、日本人の英語リテラシーは低いままです。
これはやはり日本人の特性なんですよ。

音楽においても「いい音楽をつくろうという気持ち」がだいじだということを、みんな頭では解っているでしょう。だけど、業界は売上第一、より多く売った人が発言力を持ち、出世をする。最初は「“売れる”いい音楽をつくろう」と意気込んでいても、いつの間にか、タイアップのあるなしでシングル化を決めるようになってしまう。
「英語」よりもたちが悪いのは「いい音楽をつくろう」なんて絵空事だ、青臭い理想主義だと、むしろバカにするような空気があることです。そして、バカにしている人たちは「いい音楽」というものに真摯に向き合ったことがないので、何がいいのかも解らないし、当然つくることなどできないのです。

どうしたらいいかって? ほとんどもう手遅れだと思いますけど、一人ひとりが、青臭い理想主義の「いい音楽をつくろうという気持ち」を持って、真剣につくっていくしかないんじゃないですか。そもそも「いい音楽」って、いつだって自分を、若くて青臭かった頃に引き戻してくれるものなんですから。


※今回で『音楽あれば苦なし』シリーズは終了します。読んでいただいてありがとうございます。来月からはまた違うテーマのもとに、面白いこと見つけていこうと思っていますので、引き続きよろしくお願いいたします。

ふくおかとも彦

 

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