【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第1回 ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」①

新しいシリーズ・エッセイ『その歌の理由』を始めます。タイトルには少々悩みましたが、どんな音楽作品にもそれが存在する“理由”が、大小はともかく何かあるはずで、それについて考えてみようという意味を込めてみました。
ポップミュージックの場合、まずたいてい「ヒットすることを目指して」という“理由”でつくられることが多いでしょう。そして「歌は世に連れ世は歌に連れ」という慣用句の通り、意図するしないは別として、その時代からの何らかの影響が“理由”として侵入してくるでしょう。
だけど、100のうち98くらいはヒットせずに、またヒットした作品の多くも「世は歌に連れ」ることなどなく、歴史の流れの中に埋もれていきます。ただ、ごくたまに、埋もれずにいつまでも人々の記憶から離れない作品、あるいは一度は埋もれたにもかかわらず、再び注目され話題となる作品、中にはホントに「世は歌に連れ」るような作品も出てきます。
そういう貴重な作品たちにも、やはり作品自身が持つ“理由”と、作品を取り巻く環境からの“理由”が、必ず存在すると思います。
その様々な“理由”を考える。解り得ないこともあるでしょうが、解明しようとする試みが、その音楽作品はもちろん、音楽にまつわる人々の営みに対する理解を深めることになると、私は信じています。

 

その歌の理由_01

 

「帰って来たヨッパライ」がつくられた理由

 

今回は“ザ・フォーク・クルセダーズ”の「帰って来たヨッパライ」を取り上げます。インディーズ・レーベルという概念もない時代に、大学生がつくった自主制作音源が280万枚もの大ヒットとなり、加藤和彦、北山修、はしだのりひこという日本音楽界の重要人物を世に送り出し、その後の音楽業界にも様々な大きな影響を及ぼした、歴史的な一曲です。

1965年、加藤和彦さんが京都での大学生時代、雑誌『MEN'S CLUB』(メンズクラブ)の読者欄に出した「メンバー募集」に応じた北山修さんらと結成したのがザ・フォーク・クルセダーズですが、言わば学生のクラブ活動みたいなものでしたから、当然のように卒業に伴って解散する予定で、その記念としてレコードをつくりました。アマチュアが自主制作レコードをつくること自体珍しかった時代ですが、とあるアマチュアバンドがつくったという話を聞いて、自分たちもやってみようと思ったそうです。学生ですからお金があるはずもなく、予算は北山さんが親に借りた二十数万円だったそうです。
「帰って来たヨッパライ」は、実はアルバムの曲が足りないから追加でつくった、おまけのようなものだった、と加藤さんは語っています [1]
当時、加藤さんはビートルズの『Revolver』(1966)に深く感銘していて、自分も何かああいう音響的な工夫を凝らした、面白い音楽をつくれないかと考えていました。北山さんの実家に、たまたまオープンリールのテープレコーダーが1台あって、録音したものを倍速で再生したら音程が1オクターブ高くなることを知り、歌をそれでやってみることを思いつき、そこからイメージが広がっていきます。
何と言ってもあのマンガのような“倍速声”のインパクトはすごかったですね。あんなことやったのはあれが日本初でしょう。ただ、米国には“倍速声”を使った曲が既にありました。1958年にロス・バグダサリアン(Ross Bagdasarian)という人が、デヴィッド・セヴィル(David Seville)あるいは“アルビン・アンド・ザ・チップマンクス(Alvin and the Chipmunks)”という名で発表した子ども向けのノベルティソング。本人とシマリス(chipmunk)が掛け合いで歌うという設定で、シマリスの声を自らの“倍速声”で表現したのです。アニメもつくられて「The Chipmunk Song(Christmas Don't Be Late)」という曲など、全米4週連続1位、400万枚を売り上げる大ヒットになっています。加藤さんがそれを知っていたかどうかは不明ですが。

話を戻します。詞曲は既につくっていたものでした。加藤さんはその頃、毎夜のように松山猛さんと、松山さんの家でいっしょに曲をつくっていて、その中にアメリカのフォーク・バラッド(寓話性の詞を持った伝承音楽)風のものがあり、それが“倍速声”に合うと思ったんです。歌詞の内容は、松山さんが、自身の子どもの頃の交通事故での臨死体験を元に“適当に”つくったそうです。「天国よいとこ…」のくだりは草津節のパロディですね。
そこに北山さんが「怖い神様」のセリフとか、お経を読むとか「It’s been a hard day’s night」とかいろいろチャチャを入れる。さらにビートルズの「Good Day Sunshine」の間奏ピアノ・フレーズ、クラシックの『天国と地獄』や「エリーゼのために」のワンフレーズを加えたりと、要するにいろんなもののパロディをコラージュ的に詰め込んで、ひとつひとつ見ると特に新しくはないのですが、できあがったものは圧倒的に新しかった。

音楽において、実験性と大衆性はほとんどの場合、相反します。多くの人々は音楽を理解するために労力を使うことなどまっぴらだからです。かと言って、何も新鮮味がなければそれはそれで楽しくない。実験性とは未知なものを持ち込むことですが、人は未知なものにまずは警戒する。その警戒を解くのに労力が要るわけですが、たまに未知だけど分かりやすく楽しいものもあり、その場合は、未知だからこそ楽しさは非常に大きい。それが爆発的なヒットを生むのです。たとえばビートルズがそうでした。実験性と大衆性の両立には、能力やセンスといったものも当然必要でしょうが、何より、アーティストが心底それを楽しんでいることが重要なのではないでしょうか?
加藤さんは、売ることなんてまったく考えてなかった。そんなこと考えるような状況じゃなかったし、とにかく、自分にとって最高に面白いと感じることを、夢中でやりきっただけなのです。
そして、予算が乏しく、かつ売れるとも思えない時、ふつうなら「ギター弾き語りでいいか」とか“安かろう平凡だろう”という方へ行きがちだけど、あえて面倒な手の込んだことをやるという、加藤さんの精神性の高さ。改めてすごいと思います。

 

その歌の理由_02

 

「帰って来たヨッパライ」が売れた理由

 

彼らはアルバム『ハレンチ』を300枚プレスしました。学生バンドの解散記念ですからそんなものでしょう。しかも100枚程度で売れ行きが止まってしまったそうです。それで北山さんが放送局に売り込みにいったらしい。

1967年9月26日、ラジオ関西の『ミッドナイトフォーク』という番組で「帰って来たヨッパライ」が初めてオンエアされ、その時の録音テープが11月5日午後2時半からの音楽番組『若さでアタック』で再放送されると、聴取者からの問い合わせ電話、リクエストが相次ぎ、11月8日の「電話リクエスト」で改めてレコードをかけた。翌週15日の「電話リクエスト」では一躍ベストテンの2位に食い込んだ……という記録が残っています [2]
京都にいた北山さんが、神戸にあるラジオ関西に売り込んだんでしょうか? 情報がないのですが、後にフォークルのマネジメントを担う「高石事務所」の秦[はた]政明さんが既に関係していたらしいので、北山さんが秦さんに相談をして、秦さんがラジオプロモーションをしたのかもしれません。

ともかくそのラジオ関西の「電話リクエスト」でDJを務めていたのが木崎義二さんという音楽評論家で、彼から「パシフィック音楽出版(PMP/現フジパシフィック音楽出版)」の朝妻一郎さんとニッポン放送の亀渕昭信さんに「今こんな変なのが関西で流行ってるよ」と紹介しました。
朝妻さんは1966年にニッポン放送が設立したPMPの創設メンバーとして入社しましたが、それまでは「石川島播磨工業(現IHI)」に勤めていたという変わり種です。だけど高校時代から、ポール・アンカのファンクラブ会長をやったり、洋楽レコードのライナーノーツを書いたり、ニッポン放送のDJ高崎一郎さんのアシスタントをやったり(高崎さんにおまえも「一郎」を名乗れと言われた…)と活躍していたので、木崎さんとは旧知の仲なのでした。
立ち上げ間もないPMPのために楽曲の権利獲得に邁進していた朝妻さんは、すぐに関西を訪れ、秦政明さんに会います。秦さんは「アート音楽出版」を立ち上げるところで「帰って来たヨッパライ」の著作権についてはそこで管理すると。しかし原盤権はPMPに渡してくれました [3]
「原盤権」というのは音源に対する権利で、その音源をどう利用するかについて決めることができる重要な権利ですが、そういうことについて、朝妻さんは理解していただろうけど、秦さんはおそらくよく分かっていなかったんじゃないかな? で、その強い権利は、通常、その音源の制作費を負担するところが持ちます。だからタダでやりとりするものではないので、PMPはいくらか払ったと思いますが、そもそもこの音源は、わずか二十数万円とは言え、アーティスト自身が負担したものです。果たして秦さんはアーティストからちゃんと原盤権を委譲されていたのか、疑問です。

とにかく「帰って来たヨッパライ」の原盤権をPMPが獲得し、レコード会社の争奪戦を経て東芝音楽工業(当時)が、シングルを1967年12月25日にリリースしました。ちょうどその年の10月にスタートしたのが、ニッポン放送の深夜番組『オールナイトニッポン』です。PMPの社長にしてニッポン放送の重役だった石田達郎氏が「この曲は『オールナイトニッポン』だけでかけるぞ!」と号令しました。たちまち日本中がこの曲のウワサで持ち切りになっていきます。

私は当時中学1年生。大阪に住んでいながら、ラジオ関西で人気になっていたことは全然知らなかったのですが、どこからか「オールナイトニッポンで1日1回は流れる」という情報をつかんで、猛烈に聴きたくなりました。その頃家にはレコードを聴ける機器がなかったので、レコードを買うという発想はハナからなく、オールナイトニッポンを聴くしかありません。だけどその頃ふだん8時頃には寝ていた私には、深夜1時に始まる放送まで起きていること自体がたいへんで、ラジオの前で何度も寝落ちして、結局ちゃんと聴けたのは1、2回だったと思います。音楽を聴くのにあんなに必死になったのは人生最初で最後でした。
ところで、考えてみると、いくら原盤を持ったからといって、他の放送局に「オンエアするな」とは言えないはずです。なぜオールナイトニッポンでヘビーローテーションになったことだけが伝説になっているのでしょう? どうやら、昼間はやはり保守的でこの手の音楽にはなかなか手を出さなかったのと、ライバルのTBSの深夜放送『パックインミュージック』はスポンサーに日産自動車がいたため、内容的にオンエアできなかったようです。

さて、曲がヒットし始めているのに、グループは解散を決めていました。それでは困るというので、PMPと東芝音工は活動を続けてくれるよう懇願します。しかし、加藤さんにはまったくその気がありませんでした。彼は料理が好きで、卒業後は料理人になろうと考え、就職先もほぼ決まっていたらしいです。そして、北山さんは医大だったから、当然医学の道に進むことになっていました。
もちろん史実として、彼らは、新たにはしだのりひこを加えたトリオを再結成し、再スタートするのですが、この状況はいかにして打開されたのでしょうか。答えは次回に。

…つづく


参考図書

[1] 『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』

牧村憲一 監修/加藤和彦・前田祥丈 著
スペースシャワーブックス(2013)

[2] 『【ラジオ関西】電話リクエスト物語』

神栄赳郷 著
自由席社(1968)

[3] 『ヒットこそすべて』

朝妻一郎 著
白夜書房(2008)

 

 

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