「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第6回:「自意識の煮こごり」として自伝を読む】

 

音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第6回は、「自意識の煮こごり」として自伝を読むです。

――悲観主義者(ペシミスト) オネゲルの自意識

 

 ベルナール・ガヴォティ様

 あなたは、あなたが監修しておられる《わが職業》という名の叢書のために、音楽の作曲家に関係した本を一冊書きおろせとおっしゃる。わたしはなにも、あなたの提案のうらをかんぐって、どこか皮肉な感じがするなどという気はありません。《わたしは作曲家である》と宣言するわけですね。それにしても、だれかが《余は詩人である》と確言したら、それをきいている者が微笑するくらいのことは考えていただきたいものです。交番で身元を尋問されているとき、こんな宣言をしたら、その罰としておきまりのげんこを見まわれるのがおちでしょう。(吉田秀和 訳)


 フランス語による原著が1951年、日本語訳が出版されたのが1953年(1970年に改訳)なので文章自体には古色蒼然な印象を受けるかもしれない。だが、今もテレビのニュースで「自称ミュージシャンの○○」といった報道がなされたりすることがあるのだから、語られている内容は現代にも通ずる感覚だ。

 引用したのは作曲家アルテュール・オネゲル(1892〜1955)が自らについて語った《わたしは作曲家である Je suis Compositeur》の書き出し部分である。「どこか皮肉な感じがするなどという気はありません」とはいうものの、誰がどう読んでも皮肉だろう。
 そもそも《わが職業》という叢書(=シリーズ)には他にも、あの高級ブランドDiorの創設者クリスチャン・ディオール(1905〜1957)による《わたしはクチュリエ(服飾デザイナー)である Je suis couturier》などがラインナップされていたというので、《わたしは〜である》というタイトルはシリーズ共通のもの。本来は余計なニュアンスを削ぎ落とした即物的なタイトルであるように思うのだが、オネゲルの書き出しを読んでしまうと――彼自身が付けた題ではないのにもかかわらず!――こじれた自意識そのものに思えてくるのが面白い。
 今回取り上げたいのは、音楽家たちが自分自身について語った文章から視える「自意識」だ。オネゲルの場合は、“作曲家”という肩書に対するイメージが、自分と世間一般で大きく乖離していることを自虐的に、そして悲観的に表明したのが先ほどの文章だったといえる。次にご紹介したいのは、かのジョン・ケージ(1912〜1992)が異なる次期に自らの人生を振り返ったことで視えてくる自意識だ。

 

――35歳と77歳、ふたりのケージ

 

 ケージといえば、舞台上で演奏家がまったく音を出さない《4分33秒》(1952年)がとりわけ有名であるように、それまでの既成概念を打ち壊していった作曲家として知られている。1989年には京都賞(思想・芸術部門〔受賞当時は精神科学・表現芸術部門〕)を受賞しているのだが、「業績ダイジェスト」として次の一文が掲載されている。
 

「偶然性の音楽」をもって、伝統的な西洋音楽に非西欧的音楽思想や音楽表現による大きな衝撃を与えるとともに、その音楽表現を現代音楽の主要な様式の一つに定着せしめ、終始、現代作曲界の最尖鋭部分の牽引力として自己変革の先頭に立ち、音楽家のみならず、舞踏家、詩人、画家、彫刻家、写真家など広い分野の芸術家に大きな影響を与えた現代アメリカを代表する作曲家である。


 一言書き添えればケージの代名詞のようになっている「偶然性の音楽」は、中国の八卦(はっけ)に示唆を受けたもので、具体的にはコイン投げによって楽譜に記す音を確定させていった手法が有名だ。あるいは日本の「禅」を海外に広めた鈴木大拙から影響を受けていることも繰り返し語られてきた。だが、そもそもケージは何故、非西欧を志向するようになっていったのだろうか? 実は、その答えらしきものが2つの「自伝」を読み比べることで透けてみえてくる。
 ただ「自伝」とはいっても2つとも出版を主目的としたものではなく、講演のために準備されたものである(現在ではオフィシャルな校正を経た英文が公開されている)。ひとつめは1948年2月28日にヴァッサー大学で行われたカンファレンスでの『作曲家の告白 A Composer’s Confessions』。ふたつめは前述の京都賞受賞記念講演で、1989年11月12日に国立京都国際会館における『自叙伝 An Autobiographical Statement』である。今回はアルテスパブリッシングから出版されている大西穣さんによる邦訳を引用するが、京都賞の公式WEBサイトでは『私の人間形成について』という題の異なる訳で読むこともできる。
 大事なポイントとなるのは、非西欧を志向する前のケージがアメリカ亡命後のアルノルト・シェーンベルクを通して1930年代なかばに西洋音楽をじっくりと学んでいたという事実だ。「音楽に人生を捧げること」を条件に無料でレッスンを受けていたケージだったが、シェーンベルクのもとを離れることになった経緯が、1989年の『自叙伝』に書かれている。

それ〔シェーンベルクに師事して〕から二年ほど経てわたしたち師弟二人には、わたしにハーモニー感覚が欠如していることがはっきりとわかりました。シェーンベルクにとって、ハーモニーとは色彩的なだけではなく構造的なものです。それは作品の一部分を他の部分と区分けするための手法だったのです。それゆえにわたしには作曲はできないだろうと彼は言いました。「なぜなのでしょう」と尋ねると、「あなたは壁にぶつかり、それを突破することはできないでしょうから」と言われたので、「それではその壁に向かって頭を打ち付けることに人生を費やしましょう」と返しました。


 ところが1948年の『作曲家の告白』では、シェーンベルクに習ったのは「対位法」だと書かれており、次のような記述が続く。

私は大量の作曲課題をこなさなければならず、自分の作品を作曲する時間をほとんど見出すことはできませんでした。その頃、十二音技法の理論面には感心していたものの、そのサウンド自体は好きではありませんでした。


 ハーモニーについての記述がないばかりか、シェーンベルクが発明した「十二音技法」に対する否定的な見解を述べ、この後にはケージ自身の作曲のアイデアが連なっていく。ハーモニー(=和声)についてはこの話題(19頁)からかなり後(43頁)に、次のような説明を加えている。
 

 わたしは、今まで和声に対して自然な感情を持ったことがなく、切符売り場での収入を増やし、聴衆の数を増大させ、音楽を印象的に大きく聞こえさせる道具のように感じていました。東洋や初期キリスト教社会においても、金や名声を得るための道具ではなく、歓びや宗教に奉仕するものとして音楽は関心を持たれていたため、和声は避けられていたのです。


 つまり1948年の『作曲家の告白』では、シェーンベルクのもとで判明した「ハーモニー感覚の欠如」は、師のもとを離れて10年以上経っているにもかかわらず表立って語れる心持ちにはなっておらず「悪いのは自分ではなく、シェーンベルクと和声(ハーモニー)」とでも言わんばかりなのだ。
 1989年の『自叙伝』で触れられていた「あなたは壁にぶつかり、それを突破することはできないでしょうから」という師の辛辣な言葉(シェーンベルクは他の弟子に対しても厳しい言葉をかけ続けていたようだ)に対して「それではその壁に向かって頭を打ち付けることに人生を費やしましょう」とユーモアをもって答えたと語っているが『作曲家の告白』で自らを正当化するのに必死な当時35歳のケージの記述を読む限り、そんな心の余裕があったようには思えなくなってくる。
 シェーンベルクとのエピソードの後は『作曲家の告白』でも『自叙伝』でも抽象的なアニメーション映画を製作していたオスカー・フィッシンガーから物質ごとに異なる「精神spirit」を持っているのだという言葉からインスパイアされて、打楽器のための音楽を作曲するようになったと語っている。この選択は『作曲家の告白』では遠回しに説明されているように、西洋的な和声から離れるためでもあったので「ハーモニー感覚の欠如」が前提となっているのだ。
 そして、シェーンベルクのもとで学んでいる時期、ケージの人生における大きな出来事が1935年7月6日にゼニア・アンドレイエヴナ・カシェヴァロフ(1913〜1995)と結婚したことだった(ただし、それ以前のケージは複数の男性と恋愛関係を経てきており、ゼニアとは親友のような間柄だったという指摘もある)。1946年に2人は離婚してしまうのだが、現状、最も詳細なケージの評伝であるケネス・シルヴァーマン著 柿沼敏江訳『ジョン・ケージ伝』によれば原因は1943年頃から始まったとされるマース・カニングハムとの愛人関係だったという。
 プライベートかつセンシティブな話題であるため、自伝では全てが語られているわけではないが、どこまで語るかの違いは興味深い。『作曲家の告白』では、離婚から2年後とまだ日が浅いこともあって、結婚自体に触れていないが、作品を通して当時の心境がほのめかされている。

 

 《アモーレス》〔1936年作曲/1943年改訂〕は、恋人たちの間の静寂さに関する作品です。それに対して、《危険な夜》〔1943〜44年作曲〕は愛が不幸に陥ってしまったときの、人の孤独と恐怖に関わります。


 一方、『自叙伝』ではゼニアの実名と結婚について触れている。そして彼女と直接的に結びつかないように異なる話題を挟んだ上で、非西洋の文化に興味を持った経緯を語っている。

 

 〔当時勤めていた〕コーニッシュ・スクールでは東洋哲学の一部である禅仏教にも出会いました。それはのちになって、精神分析に取って代わるものとなりました。わたしはそれまで、私生活、そして作曲家としての公的生活の上で、あることに悩まされていました。音楽の目的をコミュニケーションだとするアカデミックな考えを受け入れることができませんでした。〔中略〕コミュニケーションよりもっとましな理由を見つけられなければ、作曲をやめようと決心していたのですが、その頃に出会ったインド人の歌手でタブラ奏者のギタ・サラバイから、その答えを見つけました。


 この時期の「私生活」の悩みというのがゼニアとの関係だったのは間違いないようだ。ケージは《季節外れのバレンタイン》という曲を贈ったりして関係修復を試みたが、ゼニアは受け入れず、ふたりは離婚することに。その過程でゼニアが行っていた精神分析をケージも試してみたが受け入れ難く、代わりとなったのが当時25歳のサラバイからもたらされたインド文化だった。つまり、ケージの業績として評価された「非西欧的音楽思想」は、プライベートにおける恋愛問題がきっかけとなって彼の音楽に入り始めていったものといえるのだ。
 (大きな)嘘はついていないようだが、自らのコンプレックスを包み隠した『作曲家の告白』は、自分の独自性を主張しがちな若き芸術家の自意識がみてとれる。それに対して、自分が何に影響や示唆(反面教師を含む)を受けてきたのかを可能な範囲で赤裸々に明かした『自叙伝』は、自らが如何に過去や同時代の芸術と繋がっていることを理解してほしいという、どのように歴史に位置づけられたいかという自意識が感じられる。
 自伝だけではなく、芸術家が自分自身について語るときは「どう見られたいか」という自意識が、煮こごりのようになって行間に詰まっているのである。

 


<今回の紹介書籍>

 

「本棚の前で音楽と・・・」_01

 

『ジョン・ケージ 作曲家の告白』
(アルテスパブリッシング刊)

ジョン・ケージ著 大西 穣訳
初版刊行日:2019年7月30日
判型:小B6判
定価:1,600円+税
ISBN:978-4-86559-206-1
https://artespublishing.com/shop/books/86559-206-1/

 

 

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Text:小室敬幸

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