第二十二回 ヘンデルとボルドー【名曲と美味しいお酒のマリアージュ】

クリスマスが近づくと街を彩る音楽があります。毎年お馴染みのメロディーが聞こえてくると、一年も終わりかという気持ちになります。

しんみりと一年を振り返りたくなるようなメロディーあり、来年も新たに頑張ろうと高揚感を増すメロディーあり、そんな中から今月はヘンデルの《メサイア》を取り上げてみたいと思います。

作曲者のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、1685年2月23日ドイツのライプツィヒ近郊にある街ハレ(当時はブランデンブルク選帝侯領)に生まれました。同じ年のおよそ一ヶ月後の3月31日には、ヨハン・セバスティアン・バッハが、ハレから西に150キロほど行ったアイゼナハ(当時はザクセン選帝侯領)で誕生しています。
バッハが生涯ドイツから離れることがなかったのとは対照的に、ヘンデルはドイツに次いでイタリアで学びイギリスで活躍しました。

1517年マルティン・ルターがライプツィヒの北東50キロほどにあるヴィッテンベルク城の教会の門に貼り出したといわれる「95カ条の論題」に始まる宗教改革は、その後1世紀以上にわたりヨーロッパにおいてプロテスタントとカトリックの宗教対立と戦争を引き起こします。とりわけドイツの三十年戦争(1618~1648)は国内の領邦の争いにフランスやスペインなども加わり、単にカトリックとプロテスタントの争いではなく、新旧両勢力入り乱れての戦乱となったのでした。

1648年のウェストファリア条約により戦争は一応の決着をみます。しかし、その結果神聖ローマ帝国は事実上解体され、ドイツは300もの領邦と呼ばれる小国家に分裂した状況となっていました。

さて、後にヘンデルが活躍することになるイギリスの状況も見ておきましょう。
テューダー王朝第2代ヘンリー8世(在位1509~1547)は、熱心なカトリックだったためルターの宗教改革には同調しなかったものの、離婚問題(世継ぎの男児誕生のために6度も結婚)でローマ教皇と対立し、カトリックから独立して1534年首長法を制定し国王を長とするイギリス国教会を創設しました。
3番目の王妃ジェーン・シーモアとの間の息子のエドワード6世は父の死に伴い幼くして即位しましたが、16歳で亡くなったため、最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンとの子メアリー1世が即位します。イギリス最初の女王となった彼女は、母の熱心なカトリックへの信仰を復活させます。スペイン王フェリペ2世と結婚し、プロテスタントを弾圧し「ブラッディ・メアリー(血塗れのメアリー)」と呼ばれました。
しかし次のエリザベス1世(ヘンリー8世と2番目の妻アン・ブーリンとの子)が即位すると、再度首長法を制定し国教会の制度を確立しました。そのエリザベス1世が1603年に亡くなると、子どもがいなかったので、遠縁のスコットランド国王ジェームズ1世(ヘンリー8世の兄とキャサリン・オブ・アラゴンの子の血筋)を迎えてステュアート朝となりました。

彼は絶対王政を強化しようとしたため議会と対立、続くチャールズ1世も同様の政策で議会を無視。その結果、ピューリタン革命が起こり、チャールズ1世は処刑され、クロムウェルによる共和制とは名ばかりの独裁が始まります。これに対する民衆の反発は大きく、彼の死後、チャールズ1世の息子チャールズ2世を迎えて王政復古を遂げました。
チャールズ2世の死後、その弟ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)が後継となると、ジェームズ2世の即位を認めるトーリー党と呼ばれる一派と、議会派のホイッグ党が対立。しかしジェームズ2世がカトリックによる絶対王政を目指し、加えて世継ぎの男児ジェームズ(後述)が誕生すると、トーリーもホイッグと共に彼を追放しようと画策し始めます。彼らはジェームズ2世の娘でオランダに嫁いでいたメアリーと夫のオランダ総督ウィレム公に白羽の矢をたてます。

このことはウィレム側にもメリットがありました。当時、オランダはフランスから執拗に侵出を受けており、イギリスがカトリック勢力となりフランスと同盟を結ぶことがないように阻止する狙いがあったからです(ルイ14世とチャールズ2世の間には対オランダの密約が結ばれていました)。ただ、これとは別にオランダは、イギリスとも3次にわたる英蘭戦争を戦っており、この時代の政治・外交は極めて複雑な様相を呈していました。

さて、ジェームズ2世は追放され、ウィレムがウィリアム3世として即位しました(1689年)。しかし、カトリック教徒の多いアイルランドでは、フランスに亡命していたジェームズ2世を迎え反乱を起こすなど、火種はくすぶったままでした。ジェームズ2世の息子も後に反乱を起こします。
ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートは生後五ヶ月の時に、父と共にフランスへ逃れ、フランスで育ちました。1701年父ジェームズ2世が死去すると、反体制派の中心人物となり、1708年にはフランスの支援を得てスコットランドへ上陸。当時はウィリアム3世の後を異母姉のアンが王位を継いでいました。血筋からすれば、彼はステュアート王家の直系ですから王位継承の資格があるのですが、プロテスタントへの改宗を拒んだため、実現しなかったのです(1701年にウィリアム3世が定めた王位継承法により、ステュアート家の血をひくプロテスタントでなければならないとされた)。
1714年にアンが亡くなると、アンの18人の子どもは皆すでに亡くなっていたため、ジェームズ1世の女系の子孫にあたるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒをジョージ1世として迎え、ハノーヴァー朝が成立しました。現在は名前をウィンザー朝と変えてはいますが、今に続くイギリス王家です。

 

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(1)

 

さて、ここまで長々と歴史を辿ってきましたが、ようやくヘンデルの登場となります。
1710年25歳でハノーファーの宮廷楽長に就任していたヘンデルですが、なぜか就任後すぐに休暇を取りロンドンへ向かい、翌年2月にはオペラ《リナルド》を発表・上演します。
《リナルド》は15回も公演を重ねるほどの成功を収め、ヘンデルはアン女王にも謁見しハノーファーへと帰るものの、1712年にも再びロンドンを訪れ、今度はなんとそのまま住み着いてしまうのです。宮廷楽長の職はどうなってしまったのでしょうか?

ヒントは前任者ステッファーニにありそうです。彼は音楽家というだけではなく極めて有能な外交官としても活躍していました。ヘンデルにもそのような役割を求められたとしても不自然ではありません。実際、ヘンデルは1706~10年まで滞在したイタリアで政治的内容のオラトリオを作曲しています。

1714年、選帝侯がジョージ1世として即位すると、ヘンデルは宮廷楽長としてではありませんが、王室との良好な関係を保ち続けました。
1717年には有名な《水上の音楽》を作曲。また、「王室音楽アカデミー」のために数々のオペラを作曲します。1723年、王室礼拝堂作曲家に就任。1727年にはイギリスに帰化しました。同年、即位したジョージ2世のために《戴冠式アンセム》を作曲。この中の「司祭ザドク」は歴代国王の戴冠式でも演奏されており、来年5月のチャールズ3世の戴冠式でも聴けるでしょうか。

 

 

~今月の一曲~

 

《メサイア》

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(2)

 

1741年にアイルランドでの慈善事業のために作曲された作品で、台本はチャールズ・ジェネンズ。とりわけ第2部の終曲「ハレルヤ」が有名です。ヘンデルは1750年以降ロンドンでも養育院の慈善事業として《メサイア》を毎年上演。次第に人気が高まり、今日に至るまで世界各地で演奏され続けています。宗教的な内容の曲ですが、クリスマスと結びついたのはアメリカで、1818年のクリスマス・イブに全曲演奏が行われたのを機に、毎年この時期に演奏するようになりました。
 

 

~今月の一本~

 

クラレンドル・ルージュ

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(3)

現シャトー・オー・ブリオンを所有するクラランス・ディロン・ワインズが造るオー・ブリオンのブドウを含むワイン

 

英語で「クラレット」といえばボルドー産の赤ワインのことですが、これは12世紀にボルドーが英国領になった頃から、ボルドー・ワインが飲まれていたことに由来します。

ロンドンでは、1666年、ボルドーのグラーヴ地区にあるオー・ブリオンのオーナーの息子フランソワ=オーギュスト・ポンタックが開いたL’Enseigne de Pontac(ポンタックの看板)というレストランが大人気でした。この店はフランスからの輸入禁止、大凶作、高い関税などに悩まされながらも、100年以上にわたって商売を続けたようです。ボルドーの人気は衰えることなく、またワインの品質も向上したことから高級品としての地位を確立していきました。

ヘンデルは大食漢としても知られ、ボルドーを愛飲したようです。もしかするとオー・ブリオンを口にしていたかもしれませんね。

 

 

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Text&Photo(ワイン):野津如弘

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