【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第2回 ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」②

「帰って来たヨッパライ」が売れた理由(のつづき)

 

京都の学生フォークバンド“ザ・フォーク・クルセダーズ”(以下フォークル)が卒業記念に自主制作した「帰って来たヨッパライ」(以下「ヨッパライ」)は、1967年秋にラジオ関西で話題になり、そこでDJを務めていた音楽評論家の木崎義二さんからニッポン放送に伝わると「これは面白い!きっと売れる!」と、深夜番組『オールナイトニッポン』で強力プッシュしていくことが即決されました。
ところがその時既にバンドは解散。キーマンの加藤和彦さんは料理人を目指し、マネージャー的存在だった北山修さんは医学の道に専心しようとしていました。しかし、集まってきた音楽業界の大人たちはそれでは困る。レコードのプロモーション、さらには新作の制作のために、なんとしても活動を続けてほしいと説得します。

幸いしたのは世の中の情勢でした。60年代末は全国的に学生運動が大きく盛り上がり、また過激化した時代で、多くの大学で学園紛争や学校封鎖(バリケードによる授業ボイコット)が頻発しました。北山さんの京都府立医科大学も例外でなく、長期の学校封鎖で勉強したくてもできない状況になってしまったのです。そこへ、自分たちのレコードが予想だにしなかった爆発的な反響を呼び、音楽業界からも熱視線が注がれるという事態が訪れたのです。「じゃあ、とりあえずもう少しやってみるか」となるのは当然だったでしょう。北山さんは加藤さんを説得しました。全然やる気はなかったらしい加藤さんですが、北山さんの勢いに押されて承諾しました。朝、寝ていたところに北山さんがやってきて「加藤、やろう、1年やろう!」。加藤さんは寝ぼけた頭で「うーん、いいよ」と答えて、決まったそうです。
ただ、もう一人のメンバー、平沼義男氏はやはり抜けるというので、代わりのメンバーを探さねばなりません。北山さんが杉田二郎さんを提案しますが、加藤さんは「なんとなく合わないと思う」と却下し、 はしだのりひこさんを推しました。
ということで、加藤和彦、北山修、はしだのりひこというトリオで“新生フォーク・クルセダーズ”活動再開ということになったのですが、再開と言うよりは、いきなりそれまでとは打って変わった売れっ子バンドとしての怒涛の日々の始まりでした。67年11月上旬の『11PM』(司会:大橋巨泉)が彼らの最初のテレビ出演ですが、それがなんと、はしださんの加入決定から僅か3日後くらいのことだったそうです。それを皮切りに、彼らは月10本以上もテレビに出まくっていきます。私も何回かテレビで観た記憶がありますが、あの“倍速声”はどうしてたんだろう? たぶんテープを使って、本人たちは口パクだったと思うんですが、定かでない。歌の雰囲気に合わせたのか、映像エフェクトで画面がグニャグニャしていたのは印象に残っています。
67年12月25日に東芝音楽工業(現ユニバーサルミュージック)から改めてリリースされたシングルは飛ぶように売れまくり、売上枚数は公称280万枚、実質200万枚にもなりました。68年にスタートしたオリコンチャートでの、初のミリオンセールス・レコードだそうです(当たり前か…)。

ところで、この間の経緯にはちょっとした疑問がありました。前回詳述した通り、67年9月末に、ラジオ関西の『ミッドナイトフォーク』という番組で初めてオンエア、その録音テープが11月5日に『若さでアタック』で再放送されて話題になり、11月8日の「電話リクエスト」で改めて紹介……という記録があります。で、その「電話リクエスト」でDJを務めていた木崎義二さんがニッポン放送の亀渕昭信さんとPMP(パシフィック音楽出版/現フジパシフィック音楽出版)の朝妻一郎さんに伝えるのですが……前述のように『11PM』には11月上旬に出演した、とこれは北山さんが「たぶん」付きで語っています。そして加藤さんを説得したのが10月下旬から11月にかけてだったとも。東芝音工との契約が11月で、シングル発売が12月25日なのは確かですから、北山さんの話に矛盾はありません。しかし「電話リクエスト」で紹介したのちに木崎さんが亀渕さんたちに伝えたのだとしたら、11月8日以降になりますから、その後の展開があまりにも早過ぎます。
そしたら「ラジオ関西ファン」の方のブログに“「帰って来たヨッパライ」がラジオ関西で紹介されたのが昭和42年(1967年)9月下旬で10月13日に亀淵氏に音源を渡し、10月14日の「高崎一郎のオールナイトニッポン」で放送され、全国的にブレークしたようです”という記述がありました。そうであればスケジュール感は自然ですが、この情報も根拠が明記されていないので何とも言えません。木崎さんがこの段階で曲を知っていたのは早過ぎる気もします(ただ『ミッドナイトフォーク』のDJが小山乃里子という人で、彼女は「電話リクエスト」で木崎さんの相手役でもあったらしく、彼女を通じてということは考えられます)。また、朝妻さんは「大人のミュージックカレンダー」というサイトで、木崎さんが聴かせてくれたのは「1967年の11月だったと思う」と書かれています。その時、木崎さんから「ラジオ関西の電話リクエスト番組で圧倒的な人気を博している」との情報もあったようなので、こちらを信じると「10月13日」は怪しくなってきます。

ともかく、1年限定で再結成したフォークルは「ヨッパライ」のプロモーション活動を全うし、ニュー・シングル「悲しくてやりきれない」やアルバム『紀元貮阡年』も世に出した後、予定通り、68年10月に解散しました。ラスト・シングル「青年は荒野をめざす」は解散の後、12月にリリースされました。

 

その歌の理由_01

 

「帰って来たヨッパライ」が理由となったできごと

 

最後に「ヨッパライ」が生まれたこと、ヒットしたことによって起きたできごとについて、見ていこうと思います。

まずは「柳の下の泥鰌」狙い、つまり二番煎じ。何かひとつヒットしようものなら、その“おこぼれ”に与ろうとするのが、音楽業界のみならず、商売の常であります。アイドルや歌謡曲なら当然のように、似たようなテイストの続編を出しますし、でなくても、ふつうはレコード会社なりが同じ路線の作品を要望するのですが、彼らは「頼まれて、再活動してやっている」ので、そんなことは聞きません。全く趣向の違う「イムジン河」を持ってきます。結局それはリリースできないのですが、詳しくはまたあとで。68年10月になって、あまりに要求がしつこかったからなのか「さすらいのヨッパライ」という二番煎じを出しますが、内容的にはかなり手抜き。でもB面で、埋もれていた名曲「戦争は知らない」を取り上げて、結果的にこれをスタンダード化させるという意味がありました。
で、外部の二番煎じ。早くも68年1月25日に「ケメ子の唄」という、例の“倍速声”を使った、いわゆるノベルティソングが、“ザ・ジャイアンツ”というグループによってリリースされました。さらに同じ曲の別バージョンを、その1週間後の2月1日に“ザ・ダーツ”というグループが「ケメ子の歌」としてリリースします。両者ともにデビューシングル。要はこの企画のために結成されたということですね。商業的には成功で、前者がオリコン6位、後者が2位とヒットしました。もちろんいずれも「一発屋」でした。

映画化もされました。曲がヒットしたらすぐ映画化するのが、まだ業界の常だった頃なので、「ヨッパライ」に便乗したい映画の話もあちこちから舞い込んだそうです。そこで「やるんだったら大島渚監督で」と北山さんが言ったらすぐに実現してしまいました。ただこちらはヒットとはいかなかった。同じ「帰って来たヨッパライ」というタイトルになった映画は「日本の『A Hard Day’s Night』をつくろう!」と大島さんの意気込みは高かったのですが、メンバーがあまりにも忙しく、68年3月4日に撮影開始、3月30日には公開するというバタバタものだったこともあり、大島監督最大の駄作と言われるような作品となってしまいました。当時も話題になったような記憶はなく、ずっと観ていなかったのですが、最近ようやく観てみたところ、あまりのつまらなさに呆れました。途中から何の脈絡もなくいきなり冒頭のシーンに戻ってしまい、ストリーミングで観ていたので、何かデータのバグか?と本気で思いました。そのうち、同じことが少しだけ違って展開されていて、意図的なものとは分かったのですが、そうする意味は全く解りませんでした。

さて、当たり前ですが「ヨッパライ」のヒットがなければ、フォークルの3人がその後、音楽史に残るような活躍をすることはなかったかもしれません。まあ、はしださんは自ら音楽家の道を切り開くことができたかもしれませんが、北山さんは何もなければ精神科医の人生を歩んだでしょうし、加藤さんも本当に料理が得意みたいなので、料理人としてミシュランの星を目指していたかもしれません。もし加藤さんが音楽を続けていなければ、日本の音楽市場は確実に少し違う景色になっていたことでしょう。

ニッポン放送の『オールナイトニッポン』が独占状態で「ヨッパライ」をかけまくったことが大ヒットへのトリガーになったことは前述しました。実は、その逆作用も起きていたのです。その後大発展する若者向け深夜ラジオの嚆矢となり、50年の星霜を超えて今に続く『オールナイトニッポン』は67年10月にスタート。「ヨッパライ」のシングル発売の直前です。NHKのラジオ受信料の廃止(68年4月)とか魅力的なパーソナリティの存在とか、様々な要因はあるにせよ「ヨッパライ」が番組の人気急伸長の大きな力となり、その噂が、聴かない人にまで『オールナイトニッポン』のネームバリューを高めたことは間違いありません。

 

その歌の理由_02

 

『オールナイトニッポン』に「ヨッパライ」の情報が伝わった経緯は前回も書きましたが、ニッポン放送が66年に設立したばかりの子会社、PMPが、とにかく有望な曲の権利が欲しかった時期。社員第1号だった朝妻一郎さん(現会長)は木崎義二さんから、金曜に曲を聴かされ、なんと翌月曜には権利交渉のために関西に飛んだとのことです。残念ながら著作権はもらえなかったけど、原盤権を獲得しました。その音源のレコードが200万枚以上も売れたのですから相当な収益です(シングルレコード400円、原盤印税10%として、200万枚で原盤使用料=8000万円)。それまでヒット曲と言えるものがなかったPMPとしては、これは会社の運営が軌道に乗るための大きな原動力となりました。

で一方、著作権を押さえたのが、秦[はた]政明さん率いる「高石事務所」(の傘下の「アート音楽出版」)。
「ヨッパライ」の次作に予定されていた「イムジン河」は、作詞の松山猛さんが朝鮮人の中学生から教えてもらったメロディに日本語詞をつけた曲ですが、作者不詳の朝鮮民謡と思っていたところ、北朝鮮の、作者もはっきりした曲であって、朝鮮総連から「朝鮮民主主義人民共和国の歌であることと、作詞作曲者名を明記すること」を要求されましたが、東芝音工は「政治的配慮」により発売日の68年2月21日の前日、既に13万枚出荷済みでしたが、発売を中止しました。代わりに加藤さんが3時間でつくったのが「悲しくてやりきれない」ですね。
秦さんはこの件や、この直後に起きた岡林信康の「くそくらえ節」が発売中止されたのを見て、自分たちが出したいものを自由に出せるレーベルを持ちたいと考え、69年1月、日本初の本格的インディーズレーベル「URC(アングラ・レコード・クラブ)」を設立します。2月にその第1弾として発売されたのが、松山さんや元フォークル・メンバーの平沼義男氏をメンバーとする“ミューテーション・ファクトリー”による「イムジン河」のシングルでした。それをプロデュースしたのが北山さんでした。
もちろん、このURC設立の資金の大部分は「ヨッパライ」の収益から賄われたと考えられます。

他にも、はっきりとはしないことや目立たないところで「ヨッパライ」が“理由”となって始まったもの、変わったものがいろいろあるかもしれません。
戦争反対!と歌うだけでは直接戦争を止めることはできないだろうけど、いくつかのホントに力のある音楽は、人を動かし、社会を動かしていくこともできる、と私は信じます。そしてなぜか、えてしてそういう音楽は、一見そんなに力があるようには見えないものなのです。このなんともスットボケた「帰って来たヨッパライ」のように。

 

参考文献

・『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』

牧村憲一 監修/加藤和彦・前田祥丈 著
スペースシャワーブックス(2013)

・『永遠のザ・フォーク・クルセダーズ ~若い加藤和彦のように~』

田家秀樹 著
ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス(2015)

・『ヒットこそすべて』

朝妻一郎 著
白夜書房(2008)

・「高度成長期マニアックス・ラジオ関西ファンのブログ」

http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-eecd.html

・「大人のミュージックカレンダー」

http://music-calendar.jp/2015122501

 

 

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