【スージー鈴木の球岩石】Vol.2:2004年の大阪ドームとレッド・ツェッペリン「アキレス最後の戦い」


スージー鈴木が野球旅を綴る新連載「球岩石」(たまがんせき)。第2回は、東大阪の近鉄沿線に生まれた筆者が、大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)に向かうたびに必ず、近鉄バファローズとレッド・ツェッペリン『アキレス最後の戦い』を思い出すという話です。

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北川博敏による「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」

 

昭和における近鉄電車と近鉄バファローズ

 

現在放映中のNHK朝ドラ『舞いあがれ!』の舞台となっている大阪府東大阪市は、他ならぬ私の故郷です。主人公・岩倉舞の実家が東大阪のどこかは明かされていませんが、私の実家を明かすと、東大阪における交通の要衝とも言える、近鉄布施駅の近所でした。

近鉄。きんてつ。近畿日本鉄道。東大阪と言えば近鉄なのです。『舞いあがれ!』の中では、山口智充演じるお好み焼き屋「うめづ」の主人は、熱烈な近鉄バファローズ・ファンの役回りなのですが、その背景には、まさに「近鉄タウン」とも言える東大阪市の環境がある。

正直に言えば、私自身がバファローズ・ファンだった経験はないのです。それでも近鉄電車に近鉄バス、近商ストア、近鉄百貨店……に囲まれた生活を送っていたので、特に70年代、小学生時代には、かなりのシンパシーを抱いてバファローズを見つめていました。

近鉄布施駅から鶴橋駅へ、そこで国鉄の大阪環状線に乗り換えて、森ノ宮駅の近くにあった、当時のバファローズの本拠地、日生球場に行く。はたまた布施駅から逆方向の八尾駅で降りて、近鉄バスでバファローズのもう1つの本拠地、藤井寺球場に行く。そして親にねだって、鈴木啓示のサインボールを買ってもらう――。

70年代後半は、名将・西本幸雄監督の下、バファローズがぐんぐん力を付けていく時期でした。当時の東大阪キッズの中では、阪神タイガースがやはり一番人気でしたが、少しずつへこたれてきた南海ホークス、強いんだけれどなぜか面白くない阪急ブレーブスを超えて、バファローズ人気が高まっていく。

1979年、私はイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)に出会って、「これからはスポーツなんてダサい、音楽だ」と勝手に思い始めて、プロ野球(とプロレス)から気持ちが遠のくのですが、その間にバファローズは「江夏の21球」や「10・19」や「ブライアントの4連発」で、話題性と個性に溢れたチームとして知られていきます。

80年代中盤から、私は大学進学のため上京。相変わらず野球から遠く離れた日々を過ごしながらも、それでも元・東大阪キッズとして、バファローズがいつのまにか、ホークスやブレーブスを超える存在感を得ていたことが、少しばかり誇らしかったのです。

 

違和感を抱いて、ケチも付いた大阪ドーム

 

90年代中盤、私がプロ野球を、また熱心に観出した頃に完成したのが、大阪ドームです(現・京セラドーム大阪)。97年、前回取り上げたナゴヤドーム(現・バンテリンドームナゴヤ)と同じタイミングで、プロ野球の本拠地に。さっそく私は意気揚々と、その巨大で奇妙な建築物に足を運びました。

「あれ? 近鉄沿線ちゃうやん……」

最初の違和感は、近鉄沿線ではなく、大阪市大正区に位置していたことです。今でこそ、近鉄電車と阪神電車が乗り入れて、京セラドーム大阪の脇の地下を近鉄電車が走っているのですが、当時は近鉄布施駅から行くには、ちょっと面倒な乗り換えが必要だった。

その上、つまらないケチも付きました。

――京セラドーム大阪(大阪市西区)では平成11(1999)年ごろ、ライブで観客が縦ノリをした際、近くの高層マンションで「震度3」に相当する揺れが観測された。住民グループが苦情を訴え、ドームではその後、100カ所以上に振動を抑える装置(制振装置)が設置された(産経新聞/2013年9月25日)

興奮や一体感を表す文学的な描写として「ドームが揺れた」のではなく、物理的に「揺れた」。そして当のバファローズは、ドーム元年の97年こそ3位でしたが、98年から5位→最下位→最下位。

そんなこんなで、元・東大阪キッズの私は落胆しました。「現・東大阪市民」だった、お好み焼き屋「うめづ」のご主人も、さぞかし落胆したことでしょう――「あかんやん、家から遠いし、建築は危なっかしいし、肝心のチームも弱いし……なぁ、舞ちゃん!」。

 

プロ野球史上、もっとも奇跡的なホームラン

 

ロウソクの炎は、消える寸前に一瞬パッと明るくなるといいます。

01年9月26日の大阪ドーム。その時点での正式名称「大阪近鉄バファローズ」(ただし以下「(近鉄)バファローズ」で通します)は、オリックスと対戦しました。こちらの名前は当然、まだ「バファローズ」ではなく「オリックス・ブルーウェーブ」。

バファローズ=「いてまえ打線」。投手力はともかく、とにかく打って打って打ちまくる。そんな大阪人好みの持ち味で、この年のバファローズは勝ち続けました。「いてまえ」とは、大阪弁で「行ってしまえ」、つまり「やっちまえ」「打ってしまえ、勝ってしまえ」という意味。「いてまえ打線」という代名詞とともに好調をキープし続けたバファローズ。

そして9月26日のブルーウェーブ戦、9回裏の大阪ドームは、プロ野球史上、もっとも奇跡的なホームランを呼び寄せるのです。北川博敏による「代打・逆転・サヨナラ・満塁・優勝決定・ホームラン」!

この日のスコアボードを見つめると、さらに重大な事実に気付きます。

 

スージー鈴木の球岩石_02

 

赤字部分をよくご覧ください。一番右の「R」の欄は得点。5対6、バファローズはたった1点差、つまり最少点数差で優勝を決めました。そしてその1点差を導いたのは、もちろん9回裏の北川博敏による満塁ホームラン。

サヨナラ満塁ホームランにも、いろいろなパターンがありますが、余計な点が1点もない、このギリギリの一発のことを野球界では「お釣りなし」と呼んで珍重します。

「あっ!」

この瞬間を、当時勤めていた会社のテレビで観た瞬間、私はそう声を上げました。そして、元・東大阪キッズの血が煮えたぎるのを感じたのです。

お好み焼き屋「うめづ」の主人も、さぞかし興奮したことでしょう――「ええやん、家から遠いし、建築は危なっかしいけど、肝心のチームはリーグ優勝やん……なぁ、舞ちゃん!」。

しかし、この奇跡の一発は、消える寸前に一瞬パッと明るくなったロウソクの炎なのでした。

 

球団合併に向けた梨田昌孝と福本豊の言葉

 

――その陰で、04年まで同じく情熱をもってプロ野球に見入っていたはずの人々が、05年には行き場をなくし、右往左往している。ある者は球場に入って10分で耐えきれずに退出し、ある者は見るのもイヤだと球場を避けるようにして暮らし、ある者はおそるおそるテレビ中継を眺め、ある者は複数チームの応援席を転々としている……。

 

05年、吉岡悠という人が著した『野球難民』(長崎出版)という本の「まえがき」には、こう書かれています。
 

語られているのは、近鉄バファローズ・ファンのその後です。そうです。04年のいわゆる「球界再編問題」で、近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブは合併、翌05年シーズンから「オリックス・バファローズ」として運営されることが決まりました。

いや、「合併」とは事の本質を表現していません。つまり、近鉄バファローズは事実上、消滅したのです。その結果、ファンは路頭に迷って、「行き場をなくし、右往左往している」。


今さらながらな結果論を言えば、2チームは合併したものの、「東北楽天ゴールデンイーグルス」が新規参入したのですから、本来なら合併などせず、オリックス・ブルーウェーブはそのまま、近鉄バファローズは新生「楽天バファローズ」として運営されればよかった。

しかし、とにかく、消滅した。鈴木啓示が、ローズが、ブライアントが、中村紀洋が躍動し、そして北川博敏が奇跡の一発を打った、あの近鉄バファローズが――。

04年9月24日、近鉄バファローズ最後の試合で、当時監督の梨田昌孝はこう言ったといいます。

――「みんな、胸を張ってプレーしろ。おまえたちがつけている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」(web Sportiva/2019年11月26日)

しかし反面、オリックス・ブルーウェーブの前身である阪急ブレーブスの黄金時代を支えた福本豊は、『日本プロ野球 追憶の「球団史」』(ベースボール・マガジン社)で、こうコメントしています。

――「俺はオリックスがバファローズになったときは、ほんとさびしかった。それはもう近鉄やないか」

そうです。04年の球団合併は、近鉄バファローズだけでなく、阪急ブレーブスの歴史も途絶えさせたのです。果たして、あの球界再編問題で、誰かが幸せになったのでしょうか。

お好み焼き屋「うめづ」の主人はこうつぶやいたのかもしれません――「なくなってしもた。俺らのバファローズが……舞ちゃん」。

 

 

そして、ジョン・ボーナムと中村紀洋

 

近鉄電車と阪神電車が、ようやっと乗り入れて、東大阪の近鉄布施駅から、面倒な乗り換えなし、近鉄1本で大阪ドームに行くことができるようになったのは09年。遅かった。近鉄バファローズに間に合わなかった。そして大阪ドームはオリックス・バファローズの本拠地となり、いつのまにか名前も「京セラドーム大阪」に変わりました。

その年、実家での野暮用を終えた私は、オリックス・バファローズの試合を観るために、近鉄布施駅から京セラドームに向かってみました。出来たばかりの「ドーム前」という地下駅から京セラドームに行くには、大きな階段をのぼらなければなりません。階段の下から、地上を見つめました。

その瞬間、梨田昌孝のあの言葉が去来しました。

――「みんな、胸を張ってプレーしろ。おまえたちがつけている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

近鉄バファローズ最後の試合で放たれた言葉を思い出すとともに、私はある曲をも、思い浮かべたのです――レッド・ツェッペリン『アキレス最後の戦い』(Achilles Last Stand)。

70年代に世界を席巻した、ジミー・ペイジ率いるハードロックバンド=レッド・ツェッペリンといえば、まずは『天国への階段』となりますが、彼らのキャリアを代表する1曲と言えば、迷わずこの曲を推します。

「世界で一番短い10分25秒」と私は形容します。それほど、おそろしく濃密な演奏。とりわけジョン・ボーナムが猛烈に叩き倒すドラミングはもう、圧巻の一言。

そして、その濃密感は、まさに「いてまえ打線」そのもの。ジョン・ボーナムはさしずめ中村紀洋。熱くて、力強くて、でもどこか奇妙なドラミングは、中村紀洋のバッティングと、しっかり通じている。

mp3プレーヤーをいじり、『アキレス最後の戦い』をプレイします。そして「ドーム前」の階段下から地上を見つめます。

――「おまえたちがつけている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

ジョン・ボーナムのドラムが聴こえてきた、その瞬間。中村紀洋が私に憑依するのが分かりました。

アキレス最後の戦い、近鉄バファローズ最後の戦いに向けて、東大阪キッズだったあの頃にはたずさえていなかった貫禄付きの胴回りとともに中村紀洋は、いや私が階段を一気に駆け上がる!

すると、後ろから、誰かが追いかけてくるではありませんか。その誰かは、耳慣れた東大阪のアクセントで、ジョン・ボーナムのドラミングをさえぎるほどの大声を発して、こういうのです。

「なくなってしもたけど、なくなってへんでぇ。俺らのバファローズは……なぁ、舞ちゃん!」

 

<今回の紹介楽曲>

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レッド・ツェッペリンアルバム『Presence』より「アキレス最後の戦い(Achilles Last Stand)」

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Text:スージー鈴木