【スージー鈴木の球岩石】Vol.3:2013年のマツダスタジアムと吉川晃司「イマジン」


スージー鈴木が野球旅を綴る新連載「球岩石」(たまがんせき)。第3回はいざ広島へ。何度も足を運んだ広島市民球場から移転した、カープの新本拠地=マツダスタジアムにおける、吉川晃司のある「筋の通し方」に感動したという話です。

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吉川晃司、始球式 広島対阪神

 

趣味の「校門撮影」、広島ではどの高校へ?

 

私の変わった趣味に「校門撮影」があります。旅先にある有名高校の校門を撮影するというものです。

と、いきなりわけの分からない話ですいません。音楽評論家&野球愛好家のスージー鈴木です。そう、この肩書きにあるように、音楽&野球関連の有名高校までわざわざ出向いて、校門を撮影するのです。

さて、今回の話の舞台は、広島。

後述するような理由で私は、広島を「日本ロックの首都」と呼んでいるのですが、そんな広島にも何度となく足を運んで、校門撮影をしました。

広島県呉市にある呉三津田(くれ・みつた)高校はその1つ。呉といえば近年、映画『この世界の片隅に』(2016年)で有名になりましたが、私としては「呉=呉三津田高校」となります。

というのは、この高校、あの浜田省吾の出身校なのです。彼のデビューシングル『路地裏の少年』(76年)の歌い出しに「♪真夜中の校舎の白い壁に訣別(わかれ)の詩(うた) 刻み込んだ」とあるので、もしや浜省本人が書いた「訣別の詩」があるかもと、校舎の壁を探したのですが、見つからなかったので(当たり前だ)、あきらめて、普通に校門撮影しました。

ちなみに浜田省吾は、硬式野球部出身。そして、同野球部の大先輩には、あの廣岡達朗がいるのです。浜省と廣岡――という、まるで話の合わなそうな組み合わせが、この高校の度量の広さを示しているのかも。

次に、私が「広島ロック界のPL学園」と呼んでいるのが、広島皆実(みなみ)高校。何といっても、あの吉田拓郎と奥田民生の出身校なのですから。

彼らの土臭い作風から、私はこの高校、てっきり田舎の方にあるのだと信じていたのですが、校門撮影のために探してみると、放送局(テレビ新広島)の近くという、かなりの街ん中でした。

 

広島は日本ロック界の首都

 

さて、冒頭に描いたように、私は広島を「日本ロック界の首都」だと考えます。理由は単純、この町が生み出した、輝かしい音楽的才能の数々。人口対比で、異常な輩出力だと思うのです。ライバル県があるとすれば、いつかこの連載で取り上げるはずの福岡県ぐらいのものでしょう。

――吉田拓郎(ただし、生まれは鹿児島)に始まり、矢沢永吉、浜田省吾、西城秀樹、世良公則、原田真二、奥田民生、吉川晃司……。

このラインナップを見て思うのは、まずは「個性の強そうな感じ」です。えーと、もうちょっとあからさまにいえば「ちょっと面倒臭そうな感じ」。飲み屋で会ったりすると、こんこんと説教されそうなイメージ(失礼)。

その「個性の強さ」の本質にあるのは「きっちりと筋を通す感じ」だと思います。彼らが、安易に忖度することなく、きっちりと自分の筋を通して活動してきたからこそ、広島が日本ロック界の首都となり得たのでしょう。

そんな広島出身音楽家のスター(星)たちが相互につながりあった「星座」が形作られてきました。代表的なのは、吉田拓郎と浜田省吾(拓郎の弟子筋といっていい)や、同じく吉田拓郎と原田真二(拓郎が設立したレコード会社からデビュー)ですが、その他にもいろいろとあります。

私が個人的に大好きなのは、デビュー前の吉田拓郎と、上に挙げた1人の音楽家がまだ小学生だった頃に出会ったときのエピソードです。

田家秀樹『小説吉田拓郎 いつも見ていた広島』(小学館)によれば、1968年の広島、アマチュア時代の吉田拓郎らが組むバンド「ザ・ダウンタウンズ」の練習を、小学生が見ていて、拓郎が招き入れると、ローリング・ストーンズ『サティスファクション』(65年)を、その小学生が見事に歌い上げる。
 

――拓郎は認めざるをえなかった。確実に時代は変わっているということを……。
拓郎は陸奥田の弾くディストーションのかかった特徴的なリフに合わせ、巧みにマイクスタンドを操る少年を目の当たりにし、そんなことを実感させられた気がした。

「君、名前は何というの」

拓郎は、歌い終えた少年に思わずそう声をかけた。

「タツオです。キモトタツオ」


キモトタツオ=木本龍雄――もちろん、西城秀樹の本名です。

 

広島市民球場とマツダスタジアム

 

広島出身の音楽家のほとんどが愛しているであろう広島カープの本拠地は、長らく広島市民球場でした。

今はなき広島市民球場があったのは、広島市中区基町という、もう繁華街の中の繁華街。広島空港に飛行機で着いて、空港バスで広島バスセンターに着いたら、すぐそばのところに、球場があるのですから。東京でいえば、「バスタ新宿」(新宿高速バスターミナル)のそば、新宿高島屋のあたりに球場があるようなものでした。

何度も足を運びましたが、広島市民球場に行くたびに聴こえてくるのが「♪カープカープ カープ広島 広島カープ~」という歌、その名も『それ行けカープ』。しかし、戦争から12年経った年、つまりは原爆投下の傷跡も生々しく残っていたであろう1957年に完成したこの球場が、当初たずさえたメロディは、別のものでした。

「♪勝て勝てカープ 勝て勝てカープ」――この曲『勝て勝てカープ』の元タイトルは『広島カープの歌』。カープ球団の発足時(50年)に、歌詞が公募され、発表された曲なのです。

その後「赤ヘル旋風」と言われた1975年の広島初優勝の年に作られた新球団歌が『それ行けカープ』で、そのときこの曲は『勝て勝てカープ』と改題され、『それ行けカープ』のB面に収められたのでした。

『はだしのゲン』で著名な漫画家、中沢啓治による漫画『広島カープ誕生物語』の中で、広島の人々が『勝て勝てカープ』を初めて歌うシーンに出てくる会話―――「ご通行中のみなさま 広島カープの応援歌が出来ました みんなで合唱しましょう」「ようし わしは覚えるぞ はよう教えてくれえ」「調子がええのう」「広島市が明るうなるわい」「ほうじゃ なんだか元気がでるのう」

2009年、広島カープの本拠地が「Mazda Zoom-Zoom スタジアム広島」、通称・マツダスタジアムに移転します。メジャーリーグ風のエンタテインメント性に溢れた球場として、前評判が非常に高く、私は「早く行きたい! 早く広島で“球岩石”したい!」と思っていました。

ただ、実際に足を運ぶと、ちょっとした寂しさも感じたのです――広島駅から近かったのです。近過ぎたのです。

「玄関口から近い、いいじゃないか」と思われるでしょうが、繁華街の中の繁華街にあった広島市民球場の風情が大好きだったことの反動で、駅から歩いていける距離、それも線路沿いという立地に、正直すぐには馴染めなかったのですが。

 

ピースナイターでも筋を通す吉川晃司

 

2013年の8月6日、つまり爆忌の当日、マツダスタジアムで「ピースナイター」が行われることとなりました(タイガース戦)。原爆忌における広島でのプロ野球開催について、2011年の暮れに『週刊ベースボール』に寄せた拙記事から、少し長くなりますが引用します。ちなみに栗原健太とは、当時のカープの主力選手です。
 

――今年の8月6日、原爆記念日に広島で開催された広島=巨人は、「8月6日の広島」で開催される53年ぶりの公式戦だったらしい。(中略)08年の同日に栗原健太がブログに書く。「8月6日は広島にとって(広島だけではありませんが)とても大事な日ですが僕たちは毎年遠征で広島にいません。理由は色々あるのでしょうか?」。そこでは、妻が被爆三世である事実が明かされ、そしてこの日に広島で野球をしたいという気持ちが込められていた。(中略)このブログがきっかけとなり、今年の8月6日、公式戦が開催され、セレモニーでは高木いさおの詩「8月6日」が朗読された。「8月6日がやってきたら『忘れてはいけない!』と声に出そう」


さて、2013年のピースナイター、始球式に選ばれたのは、吉川晃司でした。私は興奮しました。というのは、原爆忌の約2ヵ月前に掲載された、この記事を読んでいたからです。
 

――「父は広島で入市被爆しており、僕は被爆2世です。(中略)原発問題の根底には、多くの差別や矛盾がある。立地、使用済み核燃料の行き先、働く人々……。事故は続いているのに、海外に原発を輸出する話まである。広島、長崎、そして福島の経験をした唯一無二の国が厚顔無恥では悲しい」(朝日新聞/13年6月9日)。


また、その2年前の東日本大震災のときに彼は、ボランティア活動で奮闘していたのです。被爆2世として、原発問題に対する複雑な思いが働いたのかもしれません。また、東日本大震災の復興支援に向けて、布袋寅泰とのユニット=COMPLEXを再結成し、東京ドームで開催したチャリティライブも、まだ記憶の新しいところでした。

つまり吉川晃司は、出自からの問題意識を背景に、きっちりと筋を通し続けていたのです。

さぁ、ピースナイター当日。大きな話題を呼んだのが、吉川晃司が始球式で投げたボールの球速です。何と――111キロ!

ですが、個人的にさらに染み入ったのが、5回裏終了後、原爆の爆心地から1.8kmの場所で被爆した「被爆ピアノ」をバックに、ジョン・レノン『イマジン』(71年)を日本語で歌ったことでした。
 

――♪天国は無い ただ空があるだけ 国境も無い ただ地球があるだけ みんながそう思えば 簡単なことさ


この歌詞は、RCサクセションのアルバム『COVERS』(88年)に収録されたカバーと同じものだったのですが、続く2番の歌詞が異なっていました。RC版では「♪社会主義も 資本主義も」となっているところを、吉川晃司はこう歌ったのです。
 

――♪放射能はいらない もう被ばくもいらない


吉川晃司、ここでも筋を通す! 111キロ以上の豪速球で。

試合は、丸佳浩の犠牲フライでカープがサヨナラ勝利。丸は試合後、こう述べました――「広島の人たちが8月6日にどれだけ特別な思いを持っているかを感じ、みなさんの前で野球をできる幸せをかみしめながらプレーした。カープは(広島の)人々の生きがい。苦しい試合だったけど、こういう形で勝ててよかった」

吉川晃司が歌った瞬間、そして、サヨナラ勝利の瞬間、マツダスタジアムが、歴史を背負う広島カープの本拠地として、さらには日本ロック界の首都として、最高の球場になった――テレビ画面越しの私には、そう見えました。

そして、あれから10年。2023年の8月6日も、マツダスタジアムで試合が開催される予定です。

 

 

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Text:スージー鈴木