【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第5回 Sam Cooke「A Change Is Gonna Come」①

今回は、アフリカ系アメリカ人で、50~60年代に活躍したシンガーかつソングライターであるサム・クックの「A Change Is Gonna Come(ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム)」(以下「Change」)という曲について探ります。

今やこの曲は、サム・クックの代表曲にして、屈指の名曲として広く知られています。米国の『ローリング・ストーン誌』による歴代名曲ランキング「500 Greatest Songs of All Time」においても、2004年版で12位、2021年版では3位と、時を経るほどにその評価が高まっています。
「米国社会において長く差別され虐げられているアフリカ系アメリカ人だけど、それでもいつか“変化は訪れる”」と歌うプロテストソングで、黒人差別と闘う「公民権運動」のアンセムとなったことがこの曲の重要性を高めたのですが、実はサム・クックにとってはっきりとしたプロテストソングはこれ1曲だけ。しかも、世の中に披露された1964年2月の時点では、アルバムの中の1曲に過ぎず、その10ヶ月後の12月に発売されたシングル「Shake」のB面に収録されたのですが、シングル発売時にはサムは既に亡くなっていたという、当時の彼にとってはなんとも微妙な存在の曲でした。

ゴスペル歌手から出発し、ポップに転向してからは常に白人マーケットも意識したポップなラブソングでヒットを連発した……それがサム・クックの表の顔です。そんな彼が、いったいどういう経緯で「Change」をつくるに至ったのでしょう?

 

「A Change Is Gonna Come」の時代背景

 

いつものポップソングじゃなくて、メッセージ性のある「Change」をつくるべくサム・クックの気持ちを動かしたのは、1963年8月に発売されたボブ・ディランの「Blowin' in the Wind(風に吹かれて)」と、同じ月にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が人種差別撤廃を訴えた、いわゆる「I Have a Dream」演説だと言われています。
その演説は「公民権運動」のひとつのピークとなった「ワシントン大行進(March on Washington for Jobs and Freedom)」において行われ、そこにボブ・ディランも参加したし、その場でピーター・ポール&マリーが「風に吹かれて」を歌ったのでした。

つまり「Change」がつくられた理由を探るには、まず「公民権運動(Civil Rights Movement)」について知る必要があります。

南北戦争中の1863年1月1日に宣言された、リンカーン大統領の「奴隷解放宣言」により、長年奴隷として白人から家畜やモノ同然に扱われてきた黒人は、やっと同じ人間であると認められ、市民権と選挙権も憲法で保障されることになりました。ただ、法的には自由市民となっても、自由になっただけで金も仕事もなく、教育も受けていませんから、社会の最下層から抜け出すのは容易ではありませんでした。もちろん、人々の差別意識もすぐに変わるものではないので、やがて南部諸州ではサービス、施設、雇用、医療、教育、住居など、あらゆる面で白人と黒人を分離する「人種隔離法」=「ジム・クロウ法」が施行されていきます。「ジム・クロウ」というのは、白人が黒塗りをしてステレオタイプ化(間抜けでお人好し)した黒人を演じて笑わせた「ミンストレル・ショー」で、最も人気を集めた黒人キャラクターの名前です。
そしてさらに、1896年、最高裁判所が人種隔離を不当だと訴えたある裁判において「分離すれども平等」(だから不当ではない)という判決を下しました。「隔離するだけなら平等でない、つまりアメリカ合衆国憲法に違反するとは言えない」という小理屈ですが、実際はもちろん、黒人(Colored)用のサービスや施設は白人用のそれに比べ、常に著しく劣っていました。しかし最高裁の言葉は独り歩きして、米国が国家として黒人差別を容認するようなことになってしまったのです。
このとんでもない法解釈が覆されたのは、やっと1954年。裁判の原告の名前をとって「ブラウン判決」と呼ばれますが、カンザス州のある地区で、近くに白人用小学校があるのに遠くの黒人用小学校に通わなければならなかったリンダ・ブラウンらの親たちが「州法が黒人の子供の平等な教育の機会を否定している」と訴えたのに対し、地方裁判所は前述の1896年の判例に倣って訴えを退けましたが、その後最高裁ではそれを覆し「人種分離した教育機関は本質的に不平等である」という歴史的判決を下しました。
実際にはこの判決も、ただちに教育現場での差別解消とはまったくならなかったのですが、これによって黒人たちの自意識が大きく高まり、公民権運動がアメリカ社会を大きく揺さぶるうねりとなっていきました。そのうねりはついに、1964年7月2日「公民権法(Civil Rights Act)」の制定に結実し、法の上での人種差別を無くすことに成功したのです。
それでも、今も「BLM=Black Lives Matter」が大きなムーブメントとなるように、人種差別の“根”は切っても切っても絶えることがないのですが……。

 

その歌の理由_02

 

「A Change Is Gonna Come」をつくった理由

 

サム・クックがディランの「風に吹かれて」に感じたのは、白人の青年がこうしたプロテストソングで声を上げているのに、黒人である自分がそういうことをできていないことへの忸怩たる思いだったと伝えられていますが、実は彼の注意を引いたのはピーター・ポール&マリー版のほうで、公民権についての歌がポップチャートの2位になるほど売れるという事実に驚いたそうです[1]。
サムは(まだ誰もそんなこと考えてなかった50年代から!)自身の音楽出版社を立ち上げたり、レーベルを経営したりとビジネス・センスにも富んだ人でした。公民権運動の高まりの中、プロテストソングにもビジネス・チャンスがあると気づく一方、白人市場にも多くのファンを持つ黒人である自分が同じようなことをやったらどういうことが起こるのか、考えてもみたでしょう。「白人だから気楽に歌えるんだ」……そんな“やっかみ”半分の反発の念を抱いたかもしれません。

また「Change」をつくる直接のきっかけになったとされる事件があります。
1963年10月、ルイジアナ州でツアー中だったサムは、専用運転手を務めていた兄のチャールズ・クックが運転する車で、妻のバーバラ、ロード・マネージャーのS.R.クレインとともに、8日早朝にシュリーブポートに到着。予約していたホリデイ・インに車を乗り入れました。車の状態はよかったのですが、鋭いカーブを切るとクラクションが鳴ってしまうという不具合があり、その時もビーッと鳴りました。ホテルにチェックインしようとすると、フロント係は部屋の準備ができていないと言います。「予約してあるのになぜだ?」とサムが文句を言っても、12時にならなければ用意はできないと冷たく返すばかり。しばしの押し問答の後、疲れていたこともあり、あきらめてバンドメンバーたちが泊まっている黒人ホテル、ロイヤルに向かうことにしました。車を出す際に、再びクラクションが短く鳴りました。ロイヤル・ホテルに着いて荷物を降ろしていると、5台のパトカーがやって来て、一行は逮捕されました。
翌日のニューヨーク・タイムズ紙で「ニグロのバンドリーダーをシュリーブポートで拘束」という見出しの下に「白人専用ホテルにチェックインしようとした後で、何度もクラクションを鳴らし、怒鳴り、滞在客の安眠を妨害した…」という記事が載りました。

いくら有名になっても、金持ちになっても、黒人というだけでこんな理不尽な目に合わなきゃならない。その怒りがプロテストソングを書かせた。……もっともですが、逆にこの類のことは、彼は幾度となく経験していますし、黒人全般に対する差別行為は、死に至るような残虐なものも含めて毎日のように繰り返されていた時代です。この事件がきっかけとなって書いたというなら、それまでなぜ書かなかったかのほうが気になります。

発言や行動においては、サムはそれまでも闘う姿勢を見せています。

1958年10月、それまでパーマをかけてストレート・ヘアーにしていたのを、自然な髪に戻す。
1959年6月、ヴァージニア州ノーフォークのコンサート会場で、白人、黒人の客席隔離を拒否し、座席統合でライブを行う(当時、特に南部諸州では白人、黒人で客席を分けるのがルールでした)。
1960年夏、ドロシー・キルギャレン(有名なジャーナリスト)主催の全米配信記事で「ある夜、ジョージアで仕事に穴をあけてしまった時のことを忘れない。人種差別(ジム・クロウ)のバスに乗る気はなかったし、白人タクシーは乗せてくれず、黒人タクシーは空港に乗り入れることを禁止されていたから。……僕が常に憎んでいるのは、立ち上がって主張する勇気を持たない人々だ」と意見を述べる。

 

その歌の理由_01

 

白人市場制覇の意志とプロテストソングの微妙なバランス

 

一方彼は、ポップ歌手へ転向したからには(もうゴスペルには戻れない)、黒人マーケットのみならず白人にもしっかり売りたかった。サムの音楽性は、同時代のライバルたち、ジェイムズ・ブラウンやレイ・チャールズ、ジャッキー・ウィルソンらよりもずっとソフトでスマートな印象がありますが、そのヒット曲のほとんどは自作曲であり、プロデューサーを立てていても、アレンジの細部に至るまで自身でコントロールしないではいられない人でしたから、白人にも受けそうな曲調もすべて彼がしっかり意図したものでした。

1957年のポップ転向の当初から彼は、白人マーケティングに強い芸能プロダクションである「ウィリアム・モーリス・エージェンシー(William Morris Agency)」(“The Beach Boys”、“The Byrds”なども所属)の協力を得て、人気音楽番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演したり、ニューヨークの裕福な白人のための音楽の殿堂「コパカバーナ」で公演を行ったりしました。60年代からはマネージャーをあえて白人に替え、RCAレコードに移籍すると“ヒューゴ&ルイジ”というイタリア系アメリカ人の従兄弟コンビのヒット・プロデュース・チームと(あまりソリはよくなかったんだけど)仕事をします。
1963年からは、なんとあの、ビートルズ解散時の悪名高きマネージャーとなるアレン・クライン(Allen Klein)にマネージメントを託しました。クラインは会計士で、金銭感覚に疎い音楽アーティストたちに重宝がられていましたが、マネージメントまで担当したのはサムが初めてでした。

先ほど、サムがつくったプロテストソングは「Change」1曲だけと言いましたが、実はもう1曲、それらしいものが以前にあります。1960年7月にリリースされた「Chain Gang」という、鎖に繋がれて労働する囚人たちを見てつくった曲です。奴隷時代の労働歌が囚人たちの労働時に歌い継がれ、その「コール&レスポンス」の形式がゴスペルやドゥーワップに発展したわけで、その光景はつまり、何世代にも渡る黒人の苦しみに直結します。いかにもプロテストソングにふさわしいテーマなのですが、なぜかサムは、これをゴキゲンなダンスナンバーに仕立てました。それによってか、この曲はポップチャートとR&Bチャートの両方で2位というヒットとなったのですが、この時点のサムにはプロテストソングに抵抗があったとしか思えません。

そんな彼がついに「Change」をつくりました。しかも単にメッセージだけではなく、音楽的には、ゴスペル、ブルース、バラードをすべて取り込んでいるし、自分の持てるもの全て、人生そのものを注ぎ込んだことが伝わってくるような、壮大な作品でした。

なのに、彼はそれを特にアピールすることなく、アルバム『Ain't That Good News』(1964年2月発売)の1曲として、さりげなく世に出しました。プロテストなら主張しないと意味ないのに……。

なぜでしょう?

…つづく


参考文献

[1]『Mr. Soul サム・クック』

Daniel Wolff/S.R.Crain/Clifton White/G.David Tenenbaum 著
石田泰子/加藤千明 訳 
ブルース・インターアクションズ(2002)

 

 

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