第二十五回 ショパンとズブロッカ【名曲と美味しいお酒のマリアージュ】

「ピアノの詩人」ショパンというと、肖像画を見てもたいへんエレガントな人物で、パリのサロンで活躍した音楽家というイメージが強いでしょう。

実際、ショパンは20歳で故郷ポーランドを後にしてから、39歳にしてパリで亡くなるまで、そのほとんどをパリで過ごしました。そこではショパンの人生に多大なる影響を与えたジョルジュ・サンドとの出会いもあり、数多くの名作が生み出されましたが「パリ以前」の作品にも目を瞠るものがあります。

フレデリック・フランチシェク・ショパンは、1810年3月1日にポーランドはワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれました。父ミコワイはフランス生まれ。ポーランドでフランス語の教師をしており、母ユスティナは彼が家庭教師をしている貴族の館で働いていました。

フレデリックは三人姉妹に囲まれて育ち、幼い頃から母や姉たちとピアノを弾いて楽しんでいたようですが、才能は明らかで、すぐにジヴニーという先生についてレッスンを受け始めました。初めて作った曲は《ポロネーズ》ト短調。わずか7歳の時でした。この作品は自費出版されて現在も残っています。それから12歳になるまでに4曲のポロネーズを作曲しています。ショパンの音楽人生はポロネーズと共に始まったのでした。

この4曲はとても小さな子どもが書いたとは思えない内容で、とりわけ10代になってからの変イ長調、嬰ト短調の2曲の充実ぶりは、後のショパンを予感させる響きに満ちています。

ポロネーズというのは貴族の踊りに起源を持つともされるポーランドの民族舞踊で、ゆったりとした3/4拍子のリズムが特色です。ショパンは、作品名の一部にポロネーズと付く作品も含めると10数曲のポロネーズを生涯に亘って作曲していますが、より自由な発想で、ポロネーズの世界を深めていきました。

さて、10代半ばのショパンは、1824年8月から9月頭までシャファルニャというワルシャワ北西の村で、学友のドミニク・ジェヴァノフスキとジェヴァノフスキ家が所有する館で過ごしました。この旅の様子は『シャファルニャ通信』と題された家族への7通の手紙で、ユーモアたっぷりに描かれています。自然の中を伸び伸びと過ごす少年のあどけなさが伝わってくると同時に、村の祭りの音楽やユダヤ人音楽師が婚礼で演奏する音楽に興味を示すなど、後の音楽人生にも影響を与えた旅となりました。

 

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(1)

 

ここで、10代のショパンの作品を他にも見ていきましょう。

14歳あるいは16歳の時の作品とされる《ドイツ民謡による序奏と変奏曲》ホ長調や《3つ のエコセーズ》といった民謡を主題にした作品のほか、オペラ に目覚めた若き日のショパンは《ポロネーズ》変ロ短調でロッシーニのオペラ《泥棒かささぎ》の旋律を引用しています。
さらに 17歳でピアノとオーケストラのためのモーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の二重唱〈ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ〉による変奏曲 作品2を作曲。この作品はシューマンに絶賛されるなどたいへん評判となりショパンの名をポーランド内外に広めたのでした。

その後、立て続けにピアノとオーケストラの作品を書きます。
18歳 で《ポーランド民謡による大幻想曲》イ長調・作品13と《ロンド ・ア・ラ・クラコヴィアク》ヘ長調・作品14
19歳 でピアノ協奏曲第2番ヘ短調・作品21
20歳 でピアノ協奏曲第1番ホ短調・作品11
という 具合です。《ポーランド民謡》はもちろんですが《クラコヴィアク》というのもポーランドのクラクフ地方の民族舞踊に基づいており、ショパンがいかにポーランドの民族音楽に愛着をもっていたかがうかがえます。

ちなみに最後のオーケストラ付き作品となる《アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ》作品22が完成されたのが1835年。すでにパリ時代となっていますが《華麗なる大ポロネーズ》の部分は1830年に構想され、Tranquillo=「静謐に」で始まるピアノ独奏の《アンダンテ・スピアナート》は後から付け加えられたものです。

協奏曲を除くこれらの作品は現在ではピアノだけで演奏されることが多いですが、ぜひオーケストラ付きの演奏も聴いてみてください。

そして、あまり知られていませんが、ショパンは歌曲も作曲しています。1829年から1847年にかけて作曲され、死後にまとめられて17曲出版されており、その中に《Hulanka(酒宴)》(1830年)という陽気な酔っ払いの歌があります。優美なショパン像とは趣を異にする一曲で『シャファルニャ通信』のショパンを彷彿とさせる遊び心に溢れているといえるでしょう。また、普段なかなか耳にする機会のないポーランド語の響きも堪能したいものです。

1830年11月、ショパンはポーランドを発ち、まず向かったのはパリではなくウィーンでした。ウィーンはその前年1829年の夏に学友たちと卒業旅行で訪れており、演奏会も大成功を収めた思い入れのある地でした。ところが、今回事態はうまく運ばず、演奏会も開けない日々が続きます。

この背景には歴史的な事情もありました。ショパンが故国を去ってすぐに11月ワルシャワ蜂起が起こり、ポーランドとロシアは戦争状態となります。この時代、ポーランドはポーランド立憲王国として大幅な自治は認められていたものの、ロシアの間接的な支配下にありました。しかし、徐々に自治権は侵されるようになり、これに反発して起きたのがワルシャワ蜂起です。事は2国間の争いに留まらず、各国を巻き込み、思惑が入り乱れて複雑化していきます。パリやアメリカで支持をする集会や義援金が集められたりする一方で、各国政府はヨーロッパの秩序を維持したいがためにロシアとの交戦は望みませんでした。オーストリアもロシア寄りの中立の立場でした。

愛国心あふれるショパンはもどかしい思いをしたことでしょう。1831年にはウィーンを後にし、パリへと向かいます。経由地のシュトゥットガルトでワルシャワ陥落のニュースを知り作られたのが、有名な練習曲第12番《革命》ハ短調・作品10-12です。楽譜にはAllegro con fuocoと記されています。fuocoは「火」「炎」の意。聴いていただくとわかりますが、まさしく「烈火のごとく」とか「燃えるように激しく」という曲想で、ショパンのやるせない怒り・祖国への想いが込められた象徴的な作品となっています。

 

 

~今月の一本~

 

ズブロッカ バイソングラス

名曲と美味しいお酒のマリアージュ(2)

ショパンの故郷ポーランドのウォッカ

 

ズブロッカの歴史は古く、14世紀まで遡ります。中世に活躍した錬金術師によってポーランドでもウォッカの蒸留に成功すると、飲みやすくするために薬草酒も造られるようになりました。当時は蒸留技術も高くなかった故に、雑味があったからと言われています。

​​​​​​​その際に用いられたのが「バイソングラス」と呼ばれる植物です。バイソン(ポーランド語では「ジュブル」。「ズブロッカ」の名前の起源)の好物で、太古の森の姿を残すと言われる世界遺産の森「ビャウォヴィエジャ」に自生しています。イネ科の植物で色は淡い緑色。ズブロッカのボトルにはバイソンと背景にビャウォヴィエジャの森が描かれ、中に一本植物の茎が入っており、これがバイソングラスです。香りは不思議なことに、どことなく桜の匂いが感じられ、これからのお花見の季節に飲むのも風情がありますね。

ただ、ウォッカですので、度数は37.5度あります。ストレートで飲んで、ショパンの焼けるようなポーランドへの熱い想いに意を馳せるも良し、強いのが苦手な方はリンゴジュースやサイダーとの相性も良いですので、割って飲むのもおすすめです。

 

 

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Text&Photo(お酒):野津如弘