【スージー鈴木の球岩石】Vol.5:2009年の甲子園とゴダイゴ「OUR DECADE」


スージー鈴木が野球旅を綴る新連載「球岩石」(たまがんせき)。第5回はいよいよ聖地・甲子園球場へ。1979年の夏から始まり、2009年の夏にいたる、筆者の「甲子園30年物語」と、そのバックグラウンドで流れ続けていたゴダイゴの傑作アルバムとの関係を綴ったライフストーリーです。

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09年夏の甲子園、中京大中京優勝決定の瞬間

 

1979年夏、初めての夏の甲子園

 

はじめて甲子園に行ったのは、いつのことだろうと思い出すと、灼熱の炎天下で、ボーッとしながら高校野球を観た思い出が、脳内によみがえったのです。

今は亡き父親に連れられて向かった夏の甲子園。その日の記憶はほとんどありませんが、準々決勝だったことと、牛島和彦、そして、こちらも今は亡き香川「ドカベン」伸行がいた浪商高校(現:大阪体育大学浪商高校)を観たことだけは、かろうじて憶えていました。

検索をかけてみたら、1979年8月19日のことだったようです。試合結果は、「第1試合:箕島4 - 1城西、第2試合:池田5 - 1高知、第3試合:浪商10 - 0比叡山、第4試合:横浜商6 - 3大分商」。

懐かしい強豪校の名前が並ぶ中、「城西」という高校だけは、もしかしたら高校野球ファンにも馴染みが薄いかもしれません。東東京の代表で、この年のプロ野球で、「33試合連続安打」というとんでもない大活躍をしたカープ・高橋慶彦の出身校でした。

いろんなことが検索できる時代です。「goo天気」というサイトで、当日の最高気温を調べてみました。79年8月19日の神戸は34.0℃、大阪は34.8℃! やっぱり。

ちなみに、この3日前の8月16日には、あの伝説の試合が繰り広げられていたのです。こちらは、高校野球ファンならピンとくることでしょう。そうです。箕島対星稜、延長18回の死闘。この恐るべきスコアボード。

 

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結果は、スコアにあるように、箕島が4-3で星稜にサヨナラ勝ちするのですが、スコアをよく見てみてください。実は延長12回表と16回表に、星稜は2度も勝ち越しているのです(赤字部分)。

勝ち越して迎えた16回裏、2アウトランナーなしまで詰め寄った星稜。箕島のバッターは6番森川康弘。初球。星稜のピッチャー・堅田外司昭のストレートを強振した森川の打球は一塁後方に上がった。ファースト・加藤直樹が駆け足でボールを追う。ついにゲームセットか――。

――ファースト、転倒!

一塁側ファールグラウンドで転倒、ボールに触ることすらできなかった加藤。命拾いをした森川は堅田の5球目をホームラン、同点!――箕島対星稜、延長18回の死闘の裏には、こんな運命のいたずらがあったのです。

 

裏のアパートに住んでいた阪神ファンのおっちゃん

 

私の初甲子園は79年夏だったのですが、それまでも甲子園のことを思いながら生活していました。というのは、当時の私は、うっすらとタイガースファンだったからです。東大阪に住んでいましたので、それは比較的自然なことでもありました。

ABCラジオから流れるタイガース戦の中継をよく聴いたものです。野球中継のテーマ曲は、オーストリアの作曲家、ヨハン・シュランメルによる『ウィーンはいつもウィーン』という荘厳な曲(先日、同局の『ますだおかだ増田のラジオハンター』という番組に出演したとき、リクエストさせていただきました)。

実況は、その後「甲子園は清原のためにあるのか!」という名実況(85年)で知られる植草貞夫アナ。解説は根本陸夫や皆川睦雄だったかと。

タイガース戦といえば今も当時も、神戸サンテレビを中心にテレビ中継していたと思うのですが、あれほどラジオを聴いていた記憶があるということは、テレビでの放送がない日が多かったということでしょう。70年代後半の大阪で野球中継といえば、ラジオがまだまだ幅を利かせていたのです。

タイガースが勝った日は、我が家の裏にある、お世辞にもきれいとはいえない木造アパートから、声が聴こえてきます。

「おーい坊主、阪神、勝ったなぁ!」

タイガースファンのおっちゃんです。年の頃は60代ぐらいの一人暮らし。70年代後半といえば、戦後まだ30数年。おっちゃんは先の戦争でかなり苦労したという町の噂。

私とおっちゃんは、窓越しに会話します。

「おっちゃん、やっぱり、掛布が打ったら、試合は締まるわなぁ」

「今夜は、アオナ、間違えた、若菜もがんばったなぁ」

若菜(わかな)嘉晴という選手の名字を、なぜか必ず「アオナ」(青菜?)と言い間違えるおっちゃんがおかしい。

本来なら、木造アパートに住む独居老人と、10歳ちょっとの少年が話す機会などなさそうなものですが、東大阪の下町で、私とおっちゃんをつないだのがタイガースだったのです。あとは「あのおっちゃんには優しくしたらなあかん」と幼い私に思わせた「戦争」の噂――。

 

生まれて初めて自分で買ったLPはゴダイゴ

 

79年といえば、私は中1。時代は「ニューミュージック」(当時よく使われた、戦後生まれの若者による自作自演音楽の総称)。そして「1979年のニューミュージック」といえば、何といってもゴダイゴでした。

中1になって、若干だけベースアップしたお小遣いを使って買ったLP、つまり私が生まれて初めて自腹で買ったアルバムが、同年発売のゴダイゴ『OUR DECADE』だったのです。全編英語でDECADE=10年間、つまり70年代を振り返るという硬派なコンセプトアルバム。

正直、中1、つまり13歳の身にはやや硬派過ぎたのですが、どうしてどうして、聴けば聴くほど味が染み出てくる。あと、クラスのみんなに先駆けて、全編英語のアルバムを聴いている俺って、かっこええやん!

拙著『1979年の歌謡曲』(彩流社)に詳しく書いたのですが、栄華を極めた「1979年のゴダイゴ」の中心人物はミッキー吉野で、ザ・ゴールデン・カップスに始まり、バークリー音楽大学で学び、帰国後にゴダイゴを大成功させる音楽家です。

そんなミッキー吉野率いるゴダイゴが放つメッセージ――「70年代はOUR DECADE=俺たちの10年間」。

「自信を持って“俺の10年間”と言えるような誇らしい時代が、自分にも来るのだろうか? もうそこまで来ている80年代は、“俺の10年間”になるのだろうか?」――そんなことを考えながら、密閉型ヘッドフォンを着けて『OUR DECADE』を毎晩毎晩聴いたものでした。

 

そして2009年、夏の甲子園の決勝戦のこと

 

結論からいえば“俺の10年間”など来なかったのです。ほのかに憧れたミュージシャンにも、ラジオDJにも、そして音楽ライターにもなれず、つまりは音楽業界、ラジオ業界……サブカル業界から弾き飛ばされて、80年代・90年代・00年代と、DECADEが3つも、あっという間に流れていきます。

そんな00年代の最後の最後、09年の8月24日、私はまた夏の甲子園にいました。中京大中京対日本文理の決勝戦。気温は31.7℃で、30年前のあの日よりは、ちょっとだけ低い。

決勝戦の組み合わせは、エース堂林翔太(現:カープ)を擁する愛知代表の名門中の名門・中京大中京(5年ぶり25回目出場)に対して、新潟代表の日本文理(3年ぶり5回目)。下馬評でも、中京大中京の優勝を予想する声が大半だったように思います。

案の定、先攻の日本文理は6点差を付けられて、9回2アウトまで追い詰められます。「あぁ、もう決まりやな」と周囲の観客の声。堂林は打っては3安打1ホームラン、投げては5回を2失点に抑える獅子奮迅の働き。もしこのまま行けば、あと1アウト取れば、明らかに優勝の立役者です。

もしこのまま行けば、このまま行けば――。

行かなかった――。

9回2アウトから、日本文理が怒涛の反撃。1番バッター・切手孝太からフォアボール→二塁打→三塁打と畳み掛け、あっという間に2点を取る。それでも次の4番・吉田篤史は、サード方向にファウルフライを打ち上げる。試合は終わったか。私の周囲にも「あぁ……」というため息が。ついにゲームセットか――。

――サード、打球を見失う!

そうなんです。あの30年前の夏、この甲子園で起きたことの再来。そして、その吉田はデッドボールで出塁。ここで中京大中京は堂林を諦め、別の投手が登板し、堂林はライトに。しかし日本文理はさらに攻撃を重ね、何と2点差にまで詰め寄る。

ABCテレビの中継では「つないだ!つないだ!日本文理の夏はまだ終わらない!」と小縣裕介アナが叫びます。これは、先の植草貞夫「甲子園は清原のためにあるのか!」に並ぶ、「ABC夏の甲子園2大名実況」のようになっています。

そして、あっという間に、いよいよ1点差。私はバックネット裏にいたのですが、観客席は騒然、そして、中京大中京のアルプス席を除く、ほぼ全員の観客が日本文理の応援に回ったはずです。

 

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しかし、です。あと1点というところでゲームセット。中京大中京が10-9で日本文理を制し、かくして、夏の甲子園史上「いちばん幸せな敗者」を生んだ決勝戦が幕を閉じたのでした。

 

「ゆっくりと下降するなら まだチャンスがある

 

甲子園から伊丹空港へと向かうバスの中で、私は考えました。

「3つのDECADEを通り過ぎて、何も果たすことなく、43歳になってしまった。このまま、“俺の10年間”と誇れる時代が来ないまま、果ててしまうのだろうか?」

そのとき思い出したのです。ゴダイゴ『OUR DECADE』の中で、いちばんお気に入りの曲『LIGHTING MAN』を。

主人公は、かつてスポットライトを浴びたスター。しかし、少しずつ落ちぶれて、照明は自分から遠のいていき、自分のポジションも少しずつ下降していく。それでも、

――when the fall comes, oh please let it be slow

下降するにしても ゆっくりにしてほしい

――we still have a chance if we go down slow

ゆっくりと下降するなら まだチャンスがある

一発でストーンと奈落に落ちるのではなく、どうせ終わるにしろ、日本文理のように、最後まであがいてあがいてみる。ゆっくりと落ちていくなら、もしかしたらまだチャンスがあるかも。そして“俺の10年間”が来るかも――。

「甲子園はスージー鈴木のためにあるのか!」――いや、これは違うな――「つないだ!つないだ!スージー鈴木の夏はまだ終わらない!」こっちだ。

夕暮れの阪神高速道路を、バスは伊丹空港に向かっていきます。そして、空港にほど近い高速出口から、バスがゆっくりとスロープを下っていく。

――ゆっくりと下降するなら まだチャンスがある

そして、あれから1つのDECADEを超えて、今の私にどれくらいのスポットライトが集まっているのか。相変わらず、それほど明るく照らされているようには思えません。

ただひとつ確かなことがあるとすれば、入団前の期待ほど、そして79年の高橋慶彦ほどには活躍していないけれど、ベテランとなった今でも、虎視眈々とブレイクの日を追い続けている堂林翔太同様、私もまだ諦めていないということです。

「坊主、勝ったんか?」

「いやぁ、あかんわ。年も取ったしなぁ。でも、まだ諦めてへんでぇ」

 

<今回の紹介楽曲>

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GODIEGOアルバム『OUR DECADE』より「ライティング・マン」

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Text:スージー鈴木