【スージー鈴木の球岩石】Vol.6:1997年の平和台球場とCHAGE&ASKA「NとLの野球帽」


スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第6回は、かつて「野武士集団」といわれた伝説の強豪チーム、西鉄ライオンズと、その本拠地であった今はなき福岡の平和台球場の思い出を語ります。

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左から豊田泰光、中西太、稲尾和久。かぶっているのがNとLの野球帽

 

ヒットチャートよりも西鉄ライオンズ!

 

――「ビーイング・ドリカム・ミスチル・小室系……ビーイングドリカムミスチルコムロケイ……」

不出来な川柳のような文字列を心の中で繰り返しているのは、1995年の私。音楽番組で紹介されたヒットチャートを見ながら――。

年齢のせいもあったでしょう。阪神淡路がグラッと揺れて、地下鉄サリンに怯えたこの年は、私にとって20代最後の年。青春が遠くなっていくとともに、あれほど愛していたヒットチャートと、自分の気持ちとの噛み合わせが悪くなってきた。

そこにさっそうと表れたのが、まずは野茂英雄。この年、野茂は近鉄バファローズを離れ、単身でアメリカに向かい、ロサンジェルス・ドジャースで大活躍。野茂自身が作詞した、とんねるず『nothing around』(95年)は、1人キャンプに訪れたときの寂寥感を歌っています。

――♪何もないところ 夕方に来て施設を見た 本当に野球しかないとこと感じた


そしてイチロー。前年94年に、前人未到の210安打を達成。そして、この95年は、所属するオリックス・ブルーウェーブを牽引して「がんばろう神戸」でリーグ優勝。

「ロックよりも野球のほうが、ロックンロールじゃないか」

と思い始めたのです。噛み合わせが悪くなったヒットチャートを一旦脇において、野球本をむさぼるように読みまくる日々。そして、やたらと魅力的でロックンロールな、歴史上のとある球団に出会います。

西鉄ライオンズ。「西鉄」(西日本鉄道)というからには福岡がホームタウンで、別名「野武士集団」と言われた伝説の強豪チーム。あまりにも好きになり過ぎて、復刻されていた西鉄の帽子まで買ってしまったほど。

もう、たまらんのです。多少は盛られているだろうことも分かりつつ、出てくるエピソードが、そりゃあもうロックンロール。主な登場人物は、中西太、豊田泰光、大下弘、稲尾和久。でも一番ロックなのは、そんな荒くれた「野武士」を率いる監督・三原脩。知性とアイデアと、ちょっとだけ謀略の人。

有名なエピソードは、58年の日本シリーズ。西鉄は、巨人を相手に3連敗してしまいます。頼みのエース、稲尾和久は1試合目と3試合目に先発して負け投手。それ以前に、中2日で先発している時点ですごい。もちろん疲労困憊。

しかし監督・三原脩に神風が吹きます。っていうか、神風の首根っこをつかんで、自分の側に引き寄せる。もうやけっぱちだったのかもしれません。3連敗後の三原は、自宅で徹夜マージャンを始めるのですが……。以下、近藤唯之『プロ野球日本シリーズ名勝負物語』(PHP文庫)より。

――三原のマージャンは勝っている場合、終始無言で押しに押しまくる。(中略)この夜の三原はツキまくった。相手3人を無言のまま斬りまくり斬りまくった。(中略)ところで午前5時前の話である。冴えわたる三原の耳に、ほんの一瞬だが異様な音が聞こえた。隣の家の屋根を打つ雨音である。並の男には聞こえない、ささやかな雨音なのだ。


この瞬間、三原脩にあるアイデアがひらめく。

――「雨だ――雨なら第4戦は中止できる――稲尾の方を休ませることができる」


三原脩は即座に、その日の試合の中止を決定。しかし午前中で雨は止み、福岡の空は快晴に。中止の判断が早過ぎるじゃないかと、巨人側は憤る。でも、我関せずと、稲尾和久は眠りに眠ったといいます。

そこから何が起こったか。稲尾和久が残り4戦4勝、それどころか第5戦では、自らサヨナラホームランを打つという、まさに「獅子」奮迅の働きで、西鉄が3連敗から4連勝の大逆転日本一に。これぞ、ロックンロール!

しかし、そんな強豪チームが、なぜ「伝説」となってしまったのか。それは、プロ野球史上最大の汚点といっていい、ある醜悪な事件のせいなのです。

――黒い霧事件――プロ野球関係者が八百長に関与したとされる事件。1969年10月、西鉄ライオンズの投手が暴力団から金銭を受け取り、わざと負けるよう試合を進めていたことが発覚。これに端を発し、当時西鉄のエースだった池永正明投手にも八百長の疑いが持ち上がり、球界を揺るがす不祥事となった(時事ドッドコム/2022年9月26日)

多くの球団に広がった事件だったのですが、エース・池永正明が「永久追放」になるなど(35年後=05年に処分解除)、もっとも大きな打撃を被ったのが西鉄でした。そして、伝説の強豪チームが、1969年5位、そして70年からは3年連続最下位となり、ついに身売り。西鉄ライオンズは本当に伝説になってしまうのです(いうまでもなく西鉄の後継の後継……が、埼玉西武ライオンズです)。

 

平和台球場さよならイベントの思い出

 

「平和台球場に行かねば」

と思ったのは、97年のこと。平和台球場とは、福岡市中央区の舞鶴公園にあった球場で、西鉄ライオンズの本拠地だったところ。そこから何と、古代の迎賓館「鴻臚館」(こうろかん)の遺跡が発見され、本格的に発掘されることとなり、球場の解体が決まったのです。

同年の11月3日に平和台球場で行われた、さよならイベントに足を運びました。稲尾和久や豊田泰光など、伝説の「野武士」が平和台球場に集まり、あの頃とは違う、かなり貫禄の付いた身体で、それでも楽しそうなプレーを見せ、オールドファンをたいそう和ませました。

ライオンズに代わって福岡にやってきた福岡ダイエーホークスのOBである香川「ドカベン」伸行も参加。ピッチャー・稲尾和久、キャッチャー・香川となったとき、オールドファンから「香川ぁ、拝んで受けろぉ!」という野次が飛んだのが良かった。

しかし、この日いちばんの注目を集めたのがプロゴルファーのジャンボ尾崎=尾崎将司でした。実は尾崎、元々は西鉄の選手だったのです(先の池永正明と同期入団)。しかしそこからゴルフに転じて大成功したという変わった経歴の持ち主。

尾崎将司が大きなファウルを打つ。ここぞとばかりにオールドファンは、もちろんこう野次ったのです――「ファーーーー!」

翌日(97年11月4日)のスポーツニッポンから、豊田泰光の言葉。名文家としても知られる彼の言葉は、さすがに味わい深いものがあります。

――この球場ではスタンドとグラウンドが打てば響く関係だった。時には厳しく、そして何より温かい会話があった。私たち選手とファンは一緒に泣き、一緒に笑い、人生を共有した。濃密な付き合いがあった。そうやってファンが私たちを育て、鍛えてくれたから、地方球団だった西鉄がアッと言う間に強くなれたの。平和台はどこよりも人間くさい球場だったのだ。

 

屋根が開いた福岡ドームと無くなってしまった平和台球場

 

翌98年、私はまた福岡に行きます。今度は福岡ドーム(現:PayPayドーム)で、普通に観戦するために。8月4日の福岡ダイエー対日本ハム戦。6対5でダイエーの勝ち。当時書いていた個人サイトに、私はこう書きました。

――試合の方は、ロペス(H)のホームラン含む3安打。城島(H)のソロHR。そして 柳田(H)のファール粘りまくりという、ま、何というかホークスの役者が それぞれ自分の仕事を完遂したという試合で、ホークス辛勝。でもそんなことよりも 一番感激したこと。そう。あの屋根が開いたのである。


一応言っておけば「柳田」はもちろん、柳田悠岐ではなく「柳田聖人」選手のことです。屋根が開いた瞬間の写真も残っていました。画像が荒くてすいません。当時まだスマホはなく、カメラ屋さんでプリントした写真をスキャンしたものですから(補足すれば、令和の現在に至るまで、あの屋根が開くことは極めて稀なのです)。

 

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さて、帰りに思い立って、平和台球場に向かってみました。解体工事はどのくらい進んでいるだろう、もしかしたら、まだあの威容は残っているのかもと。すると……

――平和台球場を見に行く。昨年の文化の日に、「さよなら平和台球場」というイベントに、わざわざ足を運んでいるのだが、もう一度、確かめておきたかったのである。壊される前の伝説の球場を。が、しかし! 既にキレイサッパリ、無くなっていたのである。

 

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写真では分かりづらいかもですが、とにかくきれいさっぱりと無くなっていた。気持ちいいくらいに。そしてこの瞬間、私の中で、西鉄ライオンズは、本当に終わったのです。きれいさっぱりと――。

 

『NとLの野球帽』と「黒い霧事件」

 

その年の秋、ある新しい野球雑誌が創刊されることとなり、なぜか私が創刊号のライター陣に加わることになりました。

会社員になり、音楽評論家になることなど諦めかけていて、かつ興味関心も、音楽よりも野球の方に向きかけていたのですが、それでも野球評論家になれる器でもない。しかし話の流れで「だったら野球に関する音楽のことを書けばいい」とそそのかされたのです。

「野球音楽徹底バイヤーズガイド」という8ページの企画を任せてもらいました。そして、「野球音楽」のレコードを1枚1枚選んでは、音楽雑誌のパロディのように批評していくのですが。

あと1枚が見つからない。最後のページで取り上げる、最後のあと1枚が。というところで、ライター仲間の1人が、私を指さしたのです。厳密には、私の頭の方を。

「それ、その曲あるよ、知ってる?」

と言って、彼がカバンの中から取り出したのが、2年前の96年に発売されたCHAGE&ASKA(チャゲ&飛鳥)のアルバム『CODE NAME.2 SISTER MOON』のCD。で、パッケージを開けて、歌詞カードを見せてくれました。そこにはこう書いてある――『NとLの野球帽』。

N=NISHITETSU、L=LIONS。「NとLの野球帽」とは西鉄ライオンズの帽子のこと。そして私はその日、何と「NとLの野球帽」をかぶっていたのでした。

その場にあったCDラジカセで早速聴いてみる。描かれているのは、60年代、まだ強豪球団・西鉄の余韻が残っている頃。その日の私と同じく、西鉄の帽子をかぶった福岡の子供たちの姿です。

――♪もくもくと煙を吐き出す 工場の敷地の裏にある 砂利の山を駈け登り そして滑り落ちる… でこぼこだらけの空き地で 仲間を待ったんだ


作詞・作曲は北九州市出身のチャゲ。高度経済成長に湧く北九州の工場街で草野球をしていた、彼の思い出の風景が綴られる。

――♪いつも兄貴のお下がりの ぶかぶかの服でバットを振る 空に突き刺さるあの鉄塔に狙いを定め… 夢はいつでも どでかいホームラン


お下がりということは、決して裕福ではない仲間たちだったのでしょう。打席に立ったとき、頭の中に描いた姿は、中西太か豊田泰光か。

ほのぼのと思い出をたどるような歌詞は、しかし意味深な爪痕を残して終わります。

――♪1969 光の中生きていた 1969 愛するものが近くにあった


1969年「黒い霧事件」の年。伝説の西鉄をこっぱみじんに叩き潰したあの事件の年! 

「あっ、そういう歌だったのか」と感じ入った私は、コラムをこのように締めました。

――69年。西鉄は5位。そしてあの「黒い霧事件」が始まる……。


と書いた瞬間、私は思ったのです――「あ、音楽評論家にも野球評論家にも書けない、自分ならではの文章が書けたかも」。

 

令和のナカニシ・トヨダ・オーシタ・イナオ・ミハラオサム……

 

あれから25年、四半世紀が経ちました。その間、パ・リーグの盟主の座にずっと座っていたのはホークス(ダイエー~ソフトバンク)でした。西鉄ライオンズ以来、福岡のチームがパ・リーグを制し続けたのです。

それでも、福岡ドーム改めPayPayドームで躍動する若鷹を眺めながら、心の中で「ナカニシ・トヨダ・オーシタ・イナオ・ミハラオサム……」という不出来な川柳のような文字列を心の中で繰り返している人々が、福岡の地にはたくさんいるはずなのです。

――♪NとLのくたびれた野球帽 失くしたものは景色だけさ


ちなみにチャゲが生まれたのは58年。そう、西鉄が3連敗から4連勝で巨人を下して、奇跡の逆転日本一を勝ち取った年でした。

 

<今回の紹介楽曲>

スージー鈴木の球岩石_04


CHAGE&ASKAアルバム『CODE NAME.2 SISTER MOON』より「NとLの野球帽」

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Text:スージー鈴木