【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第7回 The Ronettes「Be My Baby」①

誰も気づいてなかった「Be My Baby」の斬新さ

 

“ザ・ロネッツ(The Ronettes)”の「Be My Baby」が米国で発売されたのは1963年8月。全米2位、全英4位とあちらでは大ヒットでしたが、日本ではどうだったんでしょうか。海外と日本でのリリース時期にズレがあるのが当たり前の時代でしたが、この曲は、キング・レコードから「あたしのベビー」というなかなかイカした邦題で、その年の内には邦盤シングルが発売されています。ジャケ裏に掲載されている高崎一郎さんのライナーノーツに「9月28日付キャッシュボックス誌で---<中略>---第4位にランクされています」という記述があるので、発売は11月頃かな。

大瀧詠一さんは中2の時に、その高崎一郎さんのラジオ番組『キャンディ・ベスト・ヒットパレード』でこの曲を聴き「(番組で)7位か6位にはなった記憶がある。<ビー・マイ…>は流行ったのよ」と語っていますが[1]、それはたぶん大瀧さんのような感度の高い人の感覚で、一般的にはヒットと言えるようなものじゃなかったのでは、と推測します。
私はその時小3で、洋楽なんてまるで何も知らなかったけど、中尾ミエさんが歌っていた「可愛いベビー」(やはり「ベビー」だった)(1962年5月発売)はよく覚えています。当時洋楽と言えば、直接入ってくるものより、漣健児さん訳詞の「可愛いベビー」のような日本語版がメインでした。で、64年2月にビートルズが「I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)」で日本デビューをし、65年のザ・ベンチャーズの来日から「エレキ・ブーム」が起きたあたりから、ようやく、小学生の私でも彼らの名前を知るくらいには洋楽が日本に浸透してきた、てな具合でした。

だから、それまでの洋楽は「ポップでキャッチーな曲だから」と「米国でヒットしているから」という2点が価値判断基準のほぼすべてで、そのサウンドがどうのこうのというようなことは、さすがの大瀧さんも気にしていなかった。で、彼が「アラ?」と感じたのが、ジョージ・ハリスンの「My Sweet Lord」(1970)だそうです。アコースティックギターが何本も入っていてそれが気持ちいいなと。そして大瀧さんの意識は「Be My Baby」と「My Sweet Lord」の2曲に共通するプロデューサーにピントが合いました。そのプロデューサーがフィル・スペクター(Phil Spector)です。

「Be My Baby」はキャッチーな詞曲だったし、ロネッツのリード・ボーカリスト、ヴェロニカ・ベネット(Veronica Bennett)の歌声にはキュートな色気があって、それだけでも充分ヒットしたかもしれませんが、こういう類の曲やガールズ・グループなら既に50年代から“The Bobbettes”や“The Chantels”らがいたし、決して目新しいものではありませんでした。「Ronettes」という名前も、ヴェロニカの愛称「ロニー(Ronnie)」と「Bobbettes」を掛け合わせたんじゃないかな?
ただ、サウンドは決定的に違っていました。まだ日本では理解する人もいないくらい、米国でも新しく画期的なサウンドの試みでした。フィル・スペクター自身が「a Wagnerian approach to rock and roll」、つまり「ロックンロールへのワーグナー的アプローチ」と語り、人が「Wall of Sound」と呼んだそのサウンド技法は、まだステレオ・レコードが普及してなかった時代に、モノラルで、いかに広がりと奥行きを持つ音の楽園を構築するかという、スタジオワークにおける果敢な挑戦。この「Be My Baby」で、スペクターはついにその理想形を実現させたのです。

 

その歌の理由_01

 

フィル・スペクターのヒットへの執念 

 

1958年、大学時代に自身が作詞・作曲・プロデュースを手掛け、友人たちとつくった“The Teddy Bears”名義のシングル「To Know Him Is To Love Him(逢った途端にひとめぼれ)」が、いきなり全米1位のヒットとなるという派手な打上げ花火とともに音楽人生を歩み始めたフィル・スペクターですが、すぐに、パフォーマーであることよりプロデューサーへの道を選びます。と言ってもそれは“裏方”にまわるということではなく、音楽で大成功するためには、単なるパフォーマーではなくその音楽を支配するポジションに立ちたい、という意図によるものでした。彼は成功への願望が異常に強い男でした。
既に大学時代から、家庭用のテープレコーダーで録音に関する試行錯誤をあれこれ試していたというだけあって、彼はレコードの「音響」に強い関心を持ち、その可能性に着目し、これまでにはない画期的な音響をつくることがヒットにつながると確信します。

ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー(Leiber & Stoller)というソングライティング&プロデュース・チームに弟子入りし、ニューヨークでプロデュース業を学んだのち、1961年、ロサンゼルスでレスター・シル(Lester Sill)という業界の大先輩と、二人の名前から名付けた「フィレス(Philles)・レコード」を設立。女性ボーカルグループ“クリスタルズ(The Crystals)”と契約し「There’s No Other Like My Baby」(全米20位)と「Uptown(恋のアップタウン)」(全米13位)をヒットさせました。自分が理想とする音楽は、一人では形にできませんが、幸いにも、ジャック・ニッチェ(Jack Nitzsche)という編曲家、ラリー・レヴィン(Larry Levine)というエンジニア、そして“The Wrecking Crew”と称されたロスの優秀なセッション・ミュージシャン軍団、さらには素晴らしいエコー・ルームを備えた「Gold Star Studios」と巡り合い、彼は思い通りに動いてくれる強力な音楽制作チームを構築することができたのです。

このチームによる最初のヒットがクリスタルズの「He’s a Rebel」(1962年8月発売)でした。
フィレスを運営しつつ、リバティ(Liberty)・レコードの契約プロデューサーも務めていたスペクターは、ある日、ジーン・ピットニー(Gene Pitney)作の「He’s a Rebel」という曲のデモを耳にします。既にヴィッキ・カー(Vikki Carr)という女性シンガーのデビュー曲として決まっていたのですが「これは売れる!」と直感したスペクターは、フィレスからクリスタルズで先に発売してしまおうと、大至急自分のチームでレコーディングします。ところがクリスタルズは東海岸でツアー中で来られません。ふつうはこれで諦めるところでしょうが、彼は躊躇なく、地元のセッション・ボーカリスト、ダーレン・ラヴ(Darlene Love)とそのコーラスグループ“The Blossoms”に歌わせて、クリスタルズ名義でさっさと発売してしまいました。クリスタルズのメンバーはたまたまラジオで、DJが「クリスタルズの新曲です」と紹介しつつ知らない曲をかけたのを聴いて、開いた口がふさがらなかったそうです。ただ、スペクターの思惑通り、シングルは全米1位の大ヒットとなりました。ヴィッキ版は遅れて発売され、オーストラリアで5位となったものの、全米は115位止まりでした。

ひどい。でも、よくそこまでやる。もしも私がヴィッキのスタッフだったら怒り心頭でしょうが、自分がこれだと思った音楽をものにしようとする時の、スペクターの“なりふり構わなさ”がよく分かるエピソードですね。「アーティスト」よりも「音楽」のほうが上なんですから。

 

その歌の理由_02

 

ロネッツと出会って「Wall of Sound」が完成 

 

ロネッツに対しても、基本そこは同様でした。オーディションにおいて、ヴェロニカが“Frankie Lymon & the Teenagers”の「Why Do Fools Fall in Love(恋は曲者)」を歌うと、スペクターは「これがオレが探し求めていた声だ!」と大喜びしますが、グループであることは全く眼中になく、彼女をソロで契約しようとします。彼女の母親が「3人でなければ契約はしない」と譲らなかったので、しぶしぶグループでの契約としましたが、実は「Be My Baby」の録音にはヴェロニカ以外の二人、姉のエステル(Estelle Bennett)と従姉妹のネドラ・タリー(Nedra Talley)は呼んでいません。
その代わり(じゃないって)、のちの大歌手、シェール(Cher)がコーラスに参加しており、なんとこれが彼女にとっての初めての録音経験でした。彼女はその頃スペクターのアシスタントのひとりだったソニー・ボノ(Sonny Bono)のガールフレンドだったので、たまたまスタジオに居ただけでした。

ともかくスペクターにとっては“自分の”作品なのです。アーティストは単なる「役者」に過ぎず、場合によってはレコードの歌唱はスタジオミュージシャンに任せ、アーティストには作品をテレビやコンサートで歌って広める“役”しか振らないことすらありました。「He’s a Rebel」の時のクリスタルズのように。
ただ、ヴェロニカの歌唱は特別でした。それでも「役者」に過ぎないところは変わらないのですが、彼女の歌があれば、ついに彼が理想とする音楽が完成するとの思いから「Be My Baby」にはこれまで以上に全力で取り組みました。

1963年7月29日、スペクターはGold Star Studiosに“The Wrecking Crew”のメンバーを集めました。それもピアノなどのキーボードを4人、ギターを2人、ベースを2人、ドラムとパーカッションを各1人、ホーンセクションを4人という大人数。そこにあとからストリングスとボーカルを追加録音するのですが、そのリズムセッションで、まず録音前に4時間ものリハーサル。それからやっとレコーディングですが、なんと40テイク以上も録り直したそうです。そんなに何度も演奏したら体力も気力ももたないと思うし、聴くだけでも疲れ果てると思いますが、スペクターは人間離れした執念で、自分が気にいるテイクが録れるまで頑としてOKを出さなかったのです。
対照的なのはシングルB面。「Tedesco and Pitman」というタイトルですが、その「Tedesco」と「Pitman」はいずれもその日のギタリストの名字。ロネッツの「ロ」の字も関係なく、曲想も特にない、そこにいたミュージシャンたちによる、即興&一発録りのインスト曲です。スペクターにはB面なんて、どうでもよかったのです。
ともかく、その執念のレコーディングにより、彼が言うところの「ワーグナー的アプローチ」あるいは「2分間のシンフォニック・オペレッタ」、人呼んで「Wall of Sound」はその完璧な姿を現しました。

発売されて間もなく、8月最終週に、ビルボード・シングルチャートに90位でランクインすると、その7週間後の10月第2週に2位、その座に3週間ステイしました。
その時点ではほぼ新人だったロネッツ、そして既にいくつかのヒットを出してはいるものの、インディペント・レーベルに過ぎないフィレスにしては充分な大ヒットだったでしょうが、1位になれなかったのは、やはりまだそのサウンドの革命性がそこまでは理解されなかったということでしょうか。というのも、この曲の1位獲得を阻んだのは、“Jimmy Gilmer and the Fireballs”の「Sugar Shack」という、今や誰も振り向かない、たわいもない曲だからです。

その時点でこの作品に驚愕し、真価を理解したのは、やはり意欲ある音楽家たちでした。

…つづく

 

参考文献

[1] 『レコード・コレクターズ』1993年1月号 

株式会社ミュージック・マガジン

・『Inside classic rock tracks : songwriting and recording secrets of 100 great songs from 1960 to the present day』

Rikky Rooksby 著
Backbeat Books(2001)

・『音の壁の向こう側 フィル・スペクター読本(Little Symphonies: A Phil Spector Reader)』

Kingsley Abbott 著/島田聖子・岡村まゆみ 訳
シンコーミュージック・エンタテイメント(2010)

 

 

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