【まつりの作り方】「なぜ人は祭りを必要とするのか?」44年つづく芸能山城組ケチャまつり(東京都新宿区)


高層ビルが立ち並ぶ東京都新宿区西新宿地区。
この一角で1976年から開催され、新宿の夏の風物詩として広く親しまれてきたのが「芸能山城組ケチャまつり」です。

この祭りにはユニークな点が2つあります。
ひとつめは、メインとなる演目がインドネシア・バリ島の共同体芸能、ケチャであるという点。上半身裸の男たちが輪になり、チャチャチャチャ!という叫び声の合唱を奏でる中、ヒンドゥー教の叙事詩「ラーマーヤナ」の物語を踊り演じるその光景をご存知の方も多いことでしょう。このケチャのほか、ケチャまつりでは同じくインドネシアの伝統芸能であるガムランやジェゴグ(竹ガムラン)、ブルガリアやジョージア(旧グルジア)の合唱、さらには東北の鹿踊りやじゃんがら念仏踊りといった日本各地の芸能などが上演されます。

ふたつめは、祭りを主催しているのが自治会や商工会、イベント制作会社などではなく、1974年創設のアーティスト集団、芸能山城組だという点。芸能山城組は日本を含む世界各地の民族芸能に取り組んできましたが、もっとも知られているのは、大友克洋監督作品アニメ映画「AKIRA」(1988年)の劇中音楽を手掛けたことでしょう。こうしたアーティスト集団が有料公演を行うことは何ら珍しいことではありませんが、ケチャまつりは浄財(寄付)と協賛金で成り立っている無料公演。基本的には伝統的な村の祭りや盆踊りと同じスタイルで行われています。

そのように極めてユニークな都市の祝祭であるケチャまつりは、芸能山城組のどのような発想のもと運営されているのでしょうか? ケチャまつり実行委員会の一員であり、30年以上に渡って芸能山城組の活動を続けてこられた仁科エミさんと本田学さんにお話を伺いました。

「あなたの求めているものはバリ島にあるはずだ」

「あなたの求めているものはバリ島にあるはずだ!」(1)

 

まず、芸能山城組の成り立ちを駆け足で振り返ってみましょう。
母体となったのは、東京教育大(現・筑波大学)とお茶の水女子大の学生たちが結成した合唱サークル「ハトの会」。1950年代から60年代にかけて、日本各地の大学や職場では労働歌やロシア民謡を仲間たちと合唱する一種の社会運動「うたごえ運動」が巻き起こっていた時代背景のなかで、ハトの会の活動は始まりました。

1966年、現在の芸能山城組の組頭である山城祥二さんがこのハトの会の常任指揮者に就任すると、大きな変化が起こり始めました。山城さんの頭のなかにあったのは、ベルカント発声による西欧式合唱の限界を超えること。1968年にブルガリアのポリフォニーをレパートリーに取り入れると、1969年にグルジア(現在のジョージア)男声合唱を、1974年には先述したバリ島の共同体芸能、ケチャの完全上演に成功。当時、バリ島人以外による完全上演は世界初の快挙だったそうです。それを機にハトの会は「芸能山城組」という名のもとに再スタートを切ることになりました。この名前には、単なる合唱団ではなく、合唱や音楽・芸能を手がかりに人類本来の「群れ」をつくろうという想いがこめられています。

こうして誕生した芸能山城組にとって、ケチャはその原点となるものでした。また、山城さんは中村とうよう氏(音楽評論家)や小泉文夫氏(民族音楽学者)といった民族音楽のオーソリティーとも交流が深く、ケチャの存在を知ったのも小泉氏のこんな言葉がきっかけだったといいます。

仁科さん:山城は微生物生態学者として大学に勤めていて、かつてのハトの会では指揮者としても活動していたわけですが、研究者として生きるか、音楽家として生きるか、周囲から常に問われてきたそうなんです。でも、小泉先生によると、バリ島ではお百姓さんがすごい音楽家のこともある、芸術の専門家はいない、と。山城は小泉先生から「あなたの求めているものはバリ島にあるはずだ」と強く勧められてバリ島を訪れることになったんです。

バリ島でケチャやガムランに衝撃を受けた山城さんは、日本での上演を決意します。そもそもケチャは屋外で演じられるもの。「バリ島と同じように屋外でケチャを演じたい」という素朴な動機が湧き上がるのも自然なことだったのでしょう。そして、この動機は次第に「東京で新しい祭りを作ろう」という壮大なビジョンへと結びついていくこととなります。

 

「あなたの求めているものはバリ島にあるはずだ!」(2)

芸能山城組の作品の一部。左から『恐山/銅之剣舞』(1976年)、『地の響~東ヨーロッパを歌う』(1976年)、『翠星交響楽』(1990年)、『Symphonic Suite AKIRA 2016 ハイパーハイレゾエディション』(2016年)

 

「ケチャをバリ島から持ってくること自体が目的ではない」

「ケチャをバリ島から持ってくること自体が目的ではない」(1)

 

ケチャまつりは1976年の第1回目から変わらず、新宿三井ビルディングの下に広がる「55HIROBA」で開催されてきました。新宿副都心計画のもと、この一帯に高層ビルが建設され始めたのは70年代初頭。新宿三井ビルディングの竣工は1974年9月のことでしたが、ケチャまつりはビル誕生直後からスタートしたことになります。ただし、この場所を見つけるまでは長い道のりだったといいます。

仁科さん:70年代は今以上にケチャのことは知られていませんから、神社の境内や公共スペースでの開催を働きかけても「なんだこの怪しい連中は」と断られ続けたそうなんです。当時は「祭り」というだけでイメージが悪かったんでしょうね。70年代の東京は伝統の日本よりもアメリカなど海外を向いてる時代ですから、会場探しはそうとう苦労したようです。

本田さん:むしろ土着的なコミュニティーや祭りなどは「克服すべき悪しき慣習」と捉えられていたんじゃないでしょうか。70年代はそういうムードがあったと思いますね。

 

「ケチャをバリ島から持ってくること自体が目的ではない」(2)

 

祭りや盆踊りを支えてきた地域共同体が各地で壊れはじめていた70年代。先述したようにケチャまつりは「バリ島と同じように屋外でケチャを演じたい」という比較的素朴な動機から始まったわけですが、時代が移り変わりゆくなか、山城組のメンバーも「なぜ人は祭りを必要とするのか」という根源的な問いに向かい合うことになります。

本田さん:山城は「新宿副都心という祭りや共同体から最もかけ離れた空間のなかで、一度壊れてしまったものを再生しよう」と考えました。しかも、今まだ実現していない理想を言挙げし革命を夢見て旗を振るんじゃなくて、芸術表現という現実の行動を通して現実の空間を変えていく。そういうことを構想していたんです。

 

「ケチャをバリ島から持ってくること自体が目的ではない」(3)

 

芸能山城組の機関誌「地球」に掲載された1978年のケチャまつりのエリアマップを見ると、この段階で縁日や大道芸の要素が盛り込まれ、日本の祭り空間を思わせるものになっていることがわかります。そこからはバリで行われているものをそのまま再現するのではなく、独自の祝祭空間を創造しようという意識がはっきりとうかがえます。

仁科さん:ケチャがこの祭りを始めるきっかけになったのは間違いありませんが、ケチャをバリ島から持ってくること自体が目的ではないんですよ。また、西洋中心的な思考法ではなく、さまざまな文化や思考法を等しく扱う立場からすると、ケチャと最先端の新宿と日本の祭りの習俗が共存するあり方はおもしろいんじゃないかという考えもあったのではないかと思います。

ちなみに、そうした視点は80年代以降に現れるワールドミュージックの思想を先駆けるものでもありました(その意味でも、70年代の段階から中村とうよう氏が芸能山城組の活動を支援していたことは示唆的です)。その一方で、異世界の芸能を見世物小屋感覚で楽しむのではなく、それを日本の若者が自ら習得し演じることによって、自分の足元と繋がる「日常の延長としての非日常」として捉え直すという今日的視点があったことも特筆すべきことでしょう。

 

共同体を再構築するためのレッスンとしての祭り

共同体を再構築するためのレッスンとしての祭り(1)

 

ケチャまつりは今年で44回目を迎えました。これまで同様、主催・運営・出演はすべて芸能山城組のメンバーです。​​​​​​​​​​​​​​

本田さん:ケチャまつりは運営スタッフと出演者が分かれていないんですね。運営スタッフが出演し、演者が造形物を運んでいるんです。お手本にしているバリ島や日本の祭りと一緒なんです。イベント化した祭りとはそういう点でもちょっと違うと思いますね。

仁科さん:ふだんの山城組の活動には参加できないけれど、ケチャまつりにだけ参加する「祭り仲間」という人たちもいるんですよ。転勤して地方に住んでいるけれど、祭りのときだけ東京に帰ってくるという方もいれば、仕事の都合がつかなかったから、片付けにだけ来るという方もいます。

芸能山城組のメンバーの年齢層は、下は小学生から上は70代までとさまざま。ただし、アマチュアリズムへのこだわりは結成以来変わらず。仁科さんは「芸能山城組は常に新しいメンバーを募集しているんですけど、音楽や演劇など芸術のプロの方だけはご遠慮いただいているんです(笑)」といいます。

 

共同体を再構築するためのレッスンとしての祭り(2)

 

ところで、ケチャはオーケストラのように指揮者が存在しない集団芸能でもあります。バリ島でこうしたコミュニティー型の芸能が発達した背景について仁科さんは、「傾斜地で水田農耕を営むバリ島は農業用水を巡る争いがシビアです。水の利害が対立する人たちが一緒にお祭りをすることによって、そうした対立を解決してきた伝統の知恵があるんです」と説明します。ケチャはそうした対立を解きほぐし、ブツかり合いを解決するためのひとつの手段でもあったわけですが、ここには現代においてケチャをやる意義のひとつがあります。

 

共同体を再構築するためのレッスンとしての祭り(3)

 

仁科さん:スマホやSNSで、一見人と人は繋がっているように思われがちですが、その関係は非常に脆弱なものですよね。絆といっても実体がわからない。でも、ケチャという芸能はその絆を見えるものにし、聴こえるものにすることができるんですね。

芸能山城組は、このケチャを「共同体を再構築するためのレッスン」として捉えているともいえます。なぜ現代において祭りが必要なのか? ケチャまつりはそうした問いに答えるものでもあるのでしょう。

仁科さん:山城はあるシンポジウムで「人はなぜ歌うんでしょうか」という質問を受けて、「歌わなかった民族は淘汰され滅亡したと考えられます」と答えたことがあるんです。いまの地球上でなんらかの祭りの文化を持たない民族は、ほとんどないと思うんですね。祭りを持たない社会集団は淘汰されてしまったのではないかと。私たちが祭りを失いつつあるのだとすれば、絶滅へのカウントダウンが始まっているのかもしれません。現代において祭りをやる意義はそこにもあると思います。

芸能山城組ケチャまつりは毎年8月、5日間に渡って開催。高層ビル街に鳴り響くケチャやガムランに引き寄せられるように、仕事帰りのサラリーマンや外国人観光客も集まります。その非日常空間をぜひ一度ご体験ください。

 


第44回芸能山城組ケチャまつり

”AKIRA Year”に贈る
ワールド・パフォーマンスで創る陶酔の祝祭空間
2019年7月31日(水・宵宮)~8月4日(日)開催
新宿三井ビルディング55HIROBA

https://www.yamashirogumi.jp/event/cakfestival/

 


 

Text:大石始
Photo:ケイコ・K・オオイシ