~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第16章①②】

①不思議な音楽談義になった『月光仮面』主題歌 「月光仮面は誰でしょう」
②ヤマハが主催した『作曲コンクール』に参加 「雨」「何処へ」
③ホリプロ三羽烏でまわったツアー 「帰れない二人」
④広島フォーク村出身の吉田拓郎 「たどりついたらいつも雨ふり」
⑤鈴木ヒロミツはロック歌手だった 「孤独の叫び」
日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。
今回は第16章『最後まで持ち続けたロックへのこだわり』より、①子ども向けTV番組を即興でパロディ化、②ヤマハが主催した『作曲コンクール』、をお届けします。
1969年に始まったグループサウンズ・ブームの終演を乗り切ったモップスは、転機ともいえる1971年を迎えます。それは、「月光仮面」の思わぬヒット。さらに、同年に参画したヤマハが主催する『作曲コンクール』での活躍も見逃せません。試行錯誤を繰り返しながら新しい音楽へ挑戦する果敢な姿を追います。
第一部 第16章 最後まで持ち続けたロックへのこだわり
①不思議な音楽談義になった『月光仮面』主題歌
「月光仮面は誰でしょう」
モップスの会心作だと思った「御意見無用 Iijanaika」は、残念ながら期待したほどには売れなかった。当時は映画マニアのごく一部にしか知られず、一般の音楽ファンにまで届かないままに終わったのだ。
そのためなのか、終末期のGSによる単発企画のように扱われた気がした。だから映画を観終えてからもしばらく、「惜しいなぁ」という気持ちを引きずったままでいた。
しかも『野良猫ロックシリーズ』は観客動員が下降する一方になり、ホリプロは日活から製作上の提携を打ち切られてしまった。映画を通して新しい歌や音楽を発表できる場が、そのために失われてしまったのである。
ところがモップスが毎日のように出演していたジャズ喫茶で、ときおり披露していた音楽談義の「月光仮面」が評判になって、それを録音したレコード出したところ、「朝まで待てない」以来のヒットになった。
どうして力を抜いた箸休め的なトーク・タイムの歌と演奏が、シングル盤になって発売されたのかについては、マネージャーとして行動を共にしていた川瀬泰雄が、コラムを執筆していたので紹介したい。
当時のジャズ喫茶は昼の部、夜の部に分かれていて多い時など例えば、昼は銀座のジャズ喫茶5回、夜は池袋のジャズ喫茶5回のようなスケジュールで1ステージ30~40分演奏するのである。
女性客が少なくなったとはいえ、毎回きてくれるファンもいる。常連客7~8人が昼の部から夜の部までずっと見ていることもある。
そうなると、昼夜10回のステージを全部違う曲でこなしてゆくのがキツイ。そこで鈴木ヒロミツのトーク・タイムが始まる。巧みなトークで客を引き付け、演奏が1ステージ2~3曲ということもよくあった。
そんな中でヒロミツの音楽の講義が始まった。ロックはこういうリズム、ブルースはこういうリズム、タンゴはこういうリズムという違いを同じ曲で演奏する。その例として取り上げたのが、当時は誰もがみんな知っている「月光仮面は誰でしょう」だった。
(「1971年3月25日はモップスの『月光仮面』が発売された日である」大人のミュージックカレンダー 2016年3月25日)
http://music-calendar.jp/2016032501
テレビ映画『月光仮面』(監督:船床定男)は1958年の2月24日から放映を開始したが、子どもたちの間で圧倒的な人気番組になった。これを開発したのは広告代理店の宣弘社で、そのプロダクション部門が制作を行っていた。
銀座のネオン広告を一手に扱っていた宣弘社は、1960年代にテレビが急速に普及するタイミングで、低予算の『月光仮面』を制作したことで、子どもたちの間で大評判になった。
ちょうどその頃に明治大学を卒業した阿久悠が、偶然に入社したことから数年間におよぶ雌伏の期間を過ごしている。
月光仮面は誰でしょう
作詞:川内康範 作曲:小川寛興
どこの誰かは 知らないけれど
誰もがみんな 知っている
月光仮面の おじさんは
正義の味方よ 善い人よ
疾風のように 現れて
疾風のように 去って行く
月光仮面は誰でしょう
月光仮面は誰でしょう
当時なら誰もが知っている国民的人気番組だった主題歌を、モップスがステージで面白おかしく取り上げたのは、退屈そうにしている観客の笑いをとるためだったらしい。
その音楽講義が予想以上に受けたことから、ごく自然に笑いを増やしてブラッシュアップしていった。会場にいる客を飽きさせないためトークを工夫し、笑いを取るのはエンターテインメントの基本だった。
ジャズ喫茶での活動がメインだったモップスには、それが当初から肌身についていた。やがて星勝(ほし かつ)のトークによるアドリブがさく裂して、「月光仮面は誰でしょう」の歌詞はトーキング・ブルースのように変化した。
そこに鈴木ヒロミツが即興で司会者風のトークをはさんできたことから、自然発生的に笑いが生まれてきたのである。
あの有名な「月光仮面は誰でしょう」の歌詞が星勝のブルース風の歌で始まる。
途中タンゴのリズムになり「バギューン、弾丸よりも早く……アッ空を見ろ!~」と、「スーパーマン」のオープニングのセリフになってしまう。
もともと大瀬康一扮する探偵、祝十郎が変身して月光仮面になるという設定の筈が、何故か宇宙人という設定になってしまうというハチャメチャな始まり。
途中通訳の鈴木ヒロミツが、宇宙語をしゃべる星勝の月光仮面にインタビューするのだが、この宇宙語と通訳が、ライブになると毎回演奏するたびに違ってくるという面白さだった。
(前出:大人のミュージックカレンダー)
モップスの制作担当だった東芝の平形忠司がそれを聴いて、面白いからレコーディングしようと提案してきた。もともとステージの時間つぶしで始めた “音楽ネタ” だから、ライブでなく録音した場合でも本当に面白いのかが、バンドとしては半信半疑だった。
しかし平形が主張する「面白ければいいじゃないか」という意見に、リーダーの鈴木ヒロミツが同意する形になった。そのためにレコーディングが行われたが、ジャズ喫茶という気さくな雰囲気の現場で、観客の反応に合わせて生まれる音楽ネタの面白さを、無機的なスタジオで再現するのは、かなり難しかったという。
いくつかテイクを録ってみていい感じだと思っても、いざテープをプレイバックしてみると、シラケることが多かったのだ。だから最後まで完成させてはみたものの、自信は持てなかった
しかも内容がエスカレーションして支離滅裂になったことで、権利者から発売に関して、許諾が出るかどうかさえわからなくなった。そこで面白いと思えるものに仕上げて、作詞も手がけた原作者の川内康範に、とにかく聴いてもらうことにした。
さっそく平形とスタッフが挨拶に出向いて、おそるおそる持参したテープを聴かせたところ、その場で「面白い!」と言われたのである。しかも間奏のパートに台詞を書き加えたいと、川内康範がアイディアを出してきた。
そうした経緯で最初からもう一度、レコーディングを行うことになったが、鈴木ヒロミツがその時の様子をこんな文章にして残してくれた。
レコーディング当日は、スタジオに川内先生もいらした。先生は、月光仮面の大好物はレバニラ炒めと餃子というフレーズでいこう、とおっしゃった。僕たちは心配だったんですけれども、それが受けちゃった。TBSラジオの番組でガンガンかけてくれたおかげでね。
(鈴木ヒロミツ『余命三ヵ月のラブレター』幻冬舎 2007)
そこからTBSラジオの公開番組に出演して披露したところ、リスナーの間で面白いと評判になった。それが同じTBSラジオの深夜放送にも飛び火し、『パック・イン・ミュージック』の月曜を担当していた音楽評論家の福田一郎が、公開番組のテープを何度かオンエアしてくれた。
そんなふうにして音楽ファンの間で、“変な歌” の噂が広がっていった。だから1971年3月25日にシングルが発売された時には、話題になると踏んだテレビ局からも出演の依頼が入ってきた。
そこでモップスは久しぶりにテレビとラジオに出演して、「朝まで待てない」から3年のブランクを経てヒット曲が生まれたのである。しかしGS(グループ・サウンズ)時代からの生き残りとして健在ぶりを示したところまでは良かったが、やはりどこか痛し痒しで不本意な思いが残ったという。
なぜならば、過去の実績を知らない人に、コミックバンドと誤解されたからだった。低迷期間を脱出することはできても、偏見や誤解を払拭する必要が出てきた。そのためにはロックバンドらしいヒット曲を出すしかない。
マネージャーを兼任していた川瀬は、日本語のオリジナル曲に挑む方向で、2枚のアルバムを発売する計画に取りかかった。
月光仮面 / モップス (EP盤 1971)
②ヤマハが主催した『作曲コンクール』に参加
「雨」「何処へ」
どこのロックバンドも経済的に苦しい状況にあった1970年から1971年にかけて、モップスはジャズ喫茶で常連の観客を相手に、ブリティッシュ・ロックの新しい楽曲などをカヴァーしながら、バンドとしての方向を模索する時期が続いた。
それでもなんとか新曲を発売しながら前に進むことができたのは、元スパイダースのリーダーだった田邊昭知から叱咤激励されて、プレッシャーを与えられたことが大きかったという。
「月光仮面」がヒットした時期のホリプロには、会社としてモップスを支援する動きがあったと、川瀬がその事情を述べていた。
当時、2年間だけ、元スパイダースのリーダーで現在、田辺エージェンシーの社長の田邊昭知氏が、東京音楽出版(ホリプロの音楽制作部門)の社長を務めたことがある。田邊社長の自宅にモップスのメンバーとぼくが呼ばれた。
理由はモップスが切り開いたこのジャンルを絶対に死守しろという命令に近いものだった。ヒロミツの説得力をはるかに凌駕する田邊社長の説得力はハンパなものでは無かった。コミックバンド扱いされたくないモップスとぼくは毎日のようにアイディアを出し合った。ヒロミツが考え抜いた結果、ちょっと下火になっている浪曲をロックにしてみようというアイディアで「森の石松(’71年9月25日)」や河内音頭を取り入れた「なむまいだあ—河内音頭より—(’72年2月5日)」など試行錯誤は続いた。
(「1971年3月25日はモップスの『月光仮面』が発売された日である」大人のミュージックカレンダー 2016年3月25日)
http://music-calendar.jp/2016032501
モップスはその2年間で、なんと8枚ものシングルをリリースしている。新曲を早いペースで出し続けたのは、創作に向かう情熱を十分に持っていたからだろう。しかもホリプロが会社として、しっかりバックアップしてくれたのだ。
「御意見無用/アローン」(1971年1月25日)
「月光仮面/アジャ」(1971年3月25日)
「森の石松/まるで女の様に」(1971年9月25日)
「なむまいだあ—河内音頭より—/サンド・バッグの木」(1972年2月5日)
「雨/迷子列車」(1972年5月5日)
「たどりついたらいつも雨ふり/くるまとんぼ・アンドロメダ」(1972年7月5日)
「フーズ・フー・イン・マイ・ライフタイム~人生の香り/(同英語版)」(1972年11月20日)
「御用牙/御用牙(牙のテーマ)」(1972年12月20日)
ヤマハ音楽振興会で働いていた川瀬の友人から、「フルバンドのオーケストラとモップスで、共演することが出来ないか」という問い合わせがあったのは1971年のことだった。
日本フィルハーモニー交響楽団と共演した「オーケストラル・スペース」への出演は1968年だから、そのときからすでに3年もの歳月が過ぎていた。しかしそこで行われた歌と演奏の実績が、このような形になって実を結んできたともいえる。
リーダーの鈴木ヒロミツは星勝の編曲とプロデュースの才能を認めていたので、この話を積極的に引き受けることにしたという。そこでヤマハが主催する『作曲コンクール ’71』に応募してきたアマチュアの優秀な作品を、オーケストラと一緒に唄って演奏することが決まった。
このときに3年目を迎えていたヤマハの『作曲コンクール ’71』は、翌年から『ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)』という名称に変わっている。そうした改良がおこなわれたことで、一般の音楽ファンにも「ポプコン」の名前で知られるようになっていく。
三重県の英虞湾(あごわん)に面した一帯にリゾート地の「合歓の郷(ねむのさと)」を開発した日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)は、音楽スタジオや野外ホールなどを用意して、プロのミュージシャンや歌手に限らず、音楽が好きな若者たちを対象にして、合宿などに利用できる最新設備のスタジオや宿泊施設を運営していた。
モップスはそのイベントに出演して唄って演奏するだけでなく、自分たちでオーケストラのアレンジまで引き受けた。こうしてロックバンドという枠組みから飛び出して、彼らは新しい音楽に取り組んでいくのである。
星勝はこのときにGS時代の先輩にあたる、ハプニングス・フォーのクニ河内を訪ねている。それは早い時期からオーケストラ・アレンジを行っていたクニ河内に、適切なアドバイスをもらうためであった。
当時ジャズ喫茶で、同じグループ・サウンズのハプニングス・フォーと対バンでよく一緒になったんですが、キーボードのクニ河内さんが、噂に聞くところによると、弦のアレンジも全部自分でやって、スタジオに行くと指揮もしているらしいって。それでクニさんに相談しに行ったら、譜面読めないのか、じゃぁ、無料で教えてあげるからって、朝10時から眠い目をこすって四谷三丁目のマンションに毎日通ったんです。
(「【特集】井上陽水『氷の世界』」レコード・コレクターズ 2014年7月号)
ところがあるとき、譜面が読めるようになるにはどのくらい時間がかかるのかを訊いたら、「短くて一年、普通で二年」といわれた。それではとても間に合わないと思ったので、あらためて「どうやってアレンジしてるんですか」と訊きなおした。
そこですべての楽器が持っている特性と音域を知らないと、オーケストラの編曲は不可能だということがわかったという。
教則本はあったんでしょうけど、そこには考えが回らなくて。クニさんに聞いたら、“自分で各パートの人に取材して、楽器の音域とくせを表にしたのがあるんだよ” と、大事そうに引き出しから出してきた。“これ写さしてもらっていいですか” “いいよ”と写さしてもらって、それからは実践しかないと思って行かなくなった(笑)。
(「【特集】井上陽水『氷の世界』」レコード・コレクターズ 2014年7月号)
その音域表を唯一の参考資料にして、星勝は初めてフルバンドのアレンジに取り組んだ。そしてブラスから弦までを自力で編曲して、ようやく書きあげた譜面を持ってモップスとともに合歓の郷に向かった。
3000人の観客が入る野外ホールのステージで、オーケストラとの音合わせが行われたのは本番の前日だった。リハーサルが行われた10月8日は、川瀬もバンドと行動をともにしていた。ところがオーケストラの音が出た途端に、ミュージシャンたちの何人かが星勝にブーイングを浴びせたのだ。
その場面を振りかえって、川瀬はこのような文章を残している。
何事かと聞きに行った。原因はクニさんの音域表は、ほぼ楽器の限界音を書いてあったのである。星はその限界音まで使ってアレンジしていたのである。譜面を引き上げ、もう一度音合わせしてもらうことを約束し、その間に、星が直すことにした。
(川瀬泰雄+吉田格+梶田昌史+田渕浩久『ニッポンの編曲家』DU BOOKS 2016)
あまり時間はなかったが、音域的に余裕のある譜面に書き換えることが出来た。こうして星勝とモップスは、応募曲の「雨」を書いた若いソングライター(作詞:森田純一 作曲:菅節和)たちに、グランプリをもたらすことになったのである。
原曲はミディアム・バラードのいい曲でしたが、そのままではグランプリ獲れないだろうから、インパクトを出すために、別の曲をくっつけて、イントロは3分、本編3分くらいの長い曲にしたら、狙いが的中してグランプリが取れたんです。
(「【特集】井上陽水『氷の世界』」レコード・コレクターズ 2014年7月号)
初めてフル・オーケストラをアレンジした「雨」が狙い通りにグランプリに選ばれたことから、星勝はヤマハの「ポプコン」が音楽家としての分岐点になったと振り返っている。
そこで翌年の大会には自分でオリジナルをつくって、モップスとして参加することによって、さらなるステップアップを図ったのである。
ポプコンは翌年にも出してもらえたんですが、そこでは自分たちのオリジナルで出演したいってことで、小谷夏っていうペンネームで作詞家でもあった久世(光彦)さんに詞を書いてもらってできたのが「何処へ」っていう曲。この曲もまたフルオケで、これもグランプリを獲れた。そのふたつの体験が自分を編曲家に近づけたと思いますね。
(川瀬泰雄+吉田格+梶田昌史+田渕浩久『ニッポンの編曲家』DU BOOKS 2016)
イントロだけで1分以上ある「何処へ」も、前年の「雨」以上にオーケストラのスケール感を活かした大作になった。星勝はここでも作曲と編曲のほかに、ヴォーカルを担当して2年連続のグランプリを獲得した。
さらに日本武道館で11月に開催された『第3回世界歌謡祭』にも出演し、グランプリは逃したものの、入賞作品に選ばれたのである。
この時にお目付け役で立ち会っていた4人のプロデューサーは、年齢順に服部克久、佐藤允彦、三保敬太郎、そして最年少が村井邦彦だった。
この時点で才能を一挙に開花させたことから、星勝は井上陽水のファースト・アルバム『断絶』の編曲を手がけることが決まった
雨 / モップス (EP盤 1972)
※ 次回の更新は4月8日予定! 第16章 『最後まで持ち続けたロックへのこだわり』より後編、③ホリプロ三羽烏でまわったツアー ④広島フォーク村出身の吉田拓郎、をお届けします。お楽しみに!
Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之