~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【はじめに】


日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く新連載。執筆は、プロデューサーとして、そしてノンフィクション作家として活躍中の佐藤剛氏。日本の音楽文化史を新たな視点で伝えます。毎週木曜日にアップロード(予定)。初回はイントロダクション。「はじめに」からスタートします。

はじめに

 

訳詞から出発した岩谷時子の勇気ある発言

 

1964年の第6回日本レコード大賞・作詞賞に選ばれた岩谷時子は、宝塚出身のスターだった越路吹雪のマネージャーが本業だった。しかし舞台出演のためにシャンソンの訳詞を手がけるようになり、日本レコード大賞では女性として初めて作詞賞に選ばれている。
 

 岩谷は日比谷公会堂で行われた授賞式のあとで、新聞社のインタビューに応えて心境をこのように語った。

 

「これからは女性がレコード界で活躍するようになるでしょう。女性でなければ書けないことばというのがたしかにある。作曲家も作詞家も歌手もひとつのレコード会社に所属せず、フリーの立場でひとつの曲を何人もが歌えるような自由な時代になることを望んでいます」

(村岡恵理『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』光文社 2019)

 

 日本ではいい歌や音楽が誕生したとしても、それを自由にカヴァーすることができない時代があった。というのはまず、歌手の側に作家の先生に書いていただいた自分の持ち歌を、大切にしたいという気持ちが強かった。

 また旧著作権法(明治32年)では歌唱も著作物のひとつとされて、作詞・作曲の権利とともにレコード会社がまとめて管理していた。そのために他社の歌手や演奏家が楽曲をカヴァーすることに、制限が加えられたのだ。

 岩谷時子はひとつの楽曲をさまざまな歌手が歌える可能性について、自分の考え方を公の場で明らかにした。海外と同じように自由にカヴァーができて、そこからスタンダード曲が生まれる時代への希望を語った言葉は、音楽シーンの革新に一石を投じることになった。

 

歌謡曲とポピュラーソングの先駆者たち

 

 古賀政男は昭和の初めからギターやマンドリンといった西洋の楽器と、日本調のメロディーを組み合わせる手法で、大衆の琴線に触れる<流行歌>のヒット曲を誕生させた。そして1938(昭和13)年から翌年にかけて、外務省の音楽親善使節としてアメリカとアルゼンチンを長期的に訪問している。3大ネットワークのNBC放送では、「丘を越えて」や「酒は涙か溜息か」など5曲の代表曲が全米に放送された。

 服部良一はクラシックとジャズを土台にしながら、まだあまり知られていなかったアメリカのジャズコーラスやブルース、ブギウギを取り入れることで、戦前から戦後の復興期にかけて、洋風で新しいスタイルの<歌謡曲>をつくりあげた。

 この二人に代表される先駆者たちの仕事を受け継いで、世界に通用する日本の<ポピュラーソング>を目ざしたのが、ジャズピアニストだった中村八大である。1959年に制定された第1回日本レコード大賞では、ロッカバラードの「黒い花びら」(歌:水原弘)が最初のグランプリに選ばれた。

 永六輔によるわかりやすい口語体の歌詞と、演奏とヴォーカルが一体になったサウンドには、新しい音楽が誕生したと思わせるもの、があった。それを高く評価したのが日本作曲家協会を設立した古賀政男と、服部良一の二人だったというところに、音楽文化の継承がうかがえる。

 そうした期待に応えて生まれた「上を向いて歩こう」(歌:坂本九)は1961年から翌年にかけて、国内でヒットしただけでなく、1963年6月15日から3週にわたって「SUKIYAKI」のタイトルで、全米チャート1位になった。
 その後もアレンジが異なる英語詞のカヴァーがヒットしたことによって、世界のスタンダード曲へと成長していったのである。

 

アマチュアの歌づくりと自己表現

 

 1960年代の後半から1970年代の前半にかけて、歌謡曲はカラーテレビの普及に合わせて、スター歌手を魅力的に見せる方法へ進んだ。さらにはテレビドラマとの連携などによって、ヒット曲をタイアップで生み出す仕組みが、芸能界を中心に形作られていく。

 しかしラジオでは自作自演のフォーク歌手やグループによる歌と音楽が、中学生や高校生たちを中心にしたリスナーから支持を得るようになった。アマチュアから “自分たちの歌と音楽”を聴いてもらおうという動きが、自然発生的に起こったのである。

 そのころに開拓されたラジオの深夜放送からはリスナーのはがきを紹介することで、人気を集めるディスクジョッキーが次々誕生した。彼らの多くは話の合間に気に入った音楽をかけていたので、そこから洋楽・邦楽を問わずにヒット曲が生まれてきた。

 自分で音楽を主体的に選ぶリスナーが育ってきたのは、流行させることを目的にしてつくられる商品としての音楽に、どこか抵抗と反発を感じる少年少女たちが増えていたからだろう。

 そして北山修や吉田拓郎に代表される<シンガー・ソングライター>たちが、深夜放送に起用されて好評だったことから、ハガキを媒介にしてリスナーと向き合って、思っていることを語り合う場にもなっていく。

 シンガー・ソングライターやフォークグループには、たとえヒット曲が生まれても、それまでの芸能界とは距離を置いて活動するものも現れてきた。彼らが流行をつくる装置としてのテレビを積極的に利用しなかったのは、当初は相手にしてもらえなかったからだ。

 それともう一つ、芸能界のシステムに取り込まれないようにと、どこかに警戒心を持ち続けていたからでもある。
 北山修が自作自演から出発した歌い手について、”本来は素人であるべきだ”と宣言したのは1970年頃のことだ。

 

 我々のような自作自演の歌い手たちは一体何を期待すべきなのだろう。

「歌をきいてもらって、心の安らぎを得てもらいたい」
 などと言うのは不遜であろう。
 そんなのは本当のプロフェッショナルの発言であって、自作自演は作品も演奏も素人の域を脱していないからこそ可能なのだ。
(北山修『戦争を知らない子供たち』ブロンズ社 1971・角川文庫)

 

 彼らはステージに立ってもスター=芸能人ぶることはなく、歌によって共有できる仲間を増やそうという姿勢で、ライブを中心に活動していった。そんな彼らの歌や音楽が好意的に受け入れられたのは、身近な問題を取り上げて素直に歌っていたからだろう。

 

 

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Text:佐藤剛
Edit:菅義夫