【スージー鈴木の球岩石】Vol.13:2011年のクリネックススタジアム宮城と桑田佳祐「明日へのマーチ」
スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)は2年目に突入。第13回は、千葉ロッテマリーンズを追いかけて仙台へと向かいながら、旧・県営宮城球場と東北楽天イーグルスと東日本大震災、そして桑田佳祐についてのあれこれを思い出す話です。
2023年10月10日、千葉ロッテを追って仙台へ
私・スージー鈴木は、千葉のFM局・bayfmでレギュラー番組を持っています。「9の音粋」という生番組の月曜日レギュラーを務めているのです(21時から。ぜひ聞いてみてください)。
野球ファン、かつ地元千葉ロッテのファンという私がDJの番組だけあって、ときおり野球に関する特集をオンエアします。さる10月9日(体育の日)の回はストレートに「千葉ロッテマリーンズ特集」。
特集テーマは、少し前に決めたものでした。千葉ロッテがAクラスに残り、CS(クライマックスシリーズ)に出場することを見越して、マリーンズ関連の音楽をかけて応援しようと決めたのですが、番宣を取り終えてから、チームの調子が悪くなり、Bクラスになる可能性も出てきました。
そして何と、「千葉ロッテマリーンズ特集」放送当日が、順位が決定する試合の日と重なってしまったのです。仙台で東北楽天と戦うデーゲームに勝ったら2位&CS出場、それもファーストステージはホーム開催。負けたら4位、CSに出ることすら許されない大一番。
というか、そもそも負けたら「マリーンズ特集」は成立するのか。構成を全部考え直さなければいけないと思いながらヤキモキしていたのですが、結果はまさかの――雨天中止、翌日に順延!
そして私は思ったのです。「明日、仙台か……行けるじゃないか!」
というわけで、「明日絶対がんばれ!」的なトーンで生放送を無事終えた翌日の10月10日、私はいそいそと仙台に向かいました。そして久々の東北新幹線に乗りながら私は、野球にまつわる仙台や東北のあれこれを思い出していたのです。
仮住まいのロッテオリオンズ、そして東北楽天球団の誕生
現在の「楽天モバイルパーク」、私がプロ野球を見始めた1975年には「県営宮城球場」と呼ばれていました。千葉ロッテの前身=ロッテオリオンズが「本拠地」としていたのです――と「本拠地」をカギカッコで閉じたのは、ホームゲームを仙台以外、特に東京の後楽園球場でも多数開催して、つまりロッテにとって県営宮城球場は仮住まいのようなものでした。
実は前年、ロッテは日本一になっているのですが、このときの日本シリーズ(対中日)もホームゲームは後楽園球場で行われたのです。何ということでしょう。
フランチャイズ(本拠地)制はプロ野球ビジネスの核心だと思っています。球団が本拠地のある地域に密着して、地域住民の誇りとなること。
プロ野球(特にパ・リーグ)ファンが今より少なかったことや、まだ東北新幹線がなく、関東や関西から遠かったという交通事情などもありましょうが、それでもフランチャイズ制への意識が、まだまだ低かったと言わざるを得ません。
県営宮城球場、90年代後半から00年代前半にかけて私は何度か行きました。70年代後半に仙台を離れて、川崎、そして千葉へと本拠地を移した千葉ロッテによる仙台開催ゲームを追っかけたのです。スコアボードがやたらと古めかしかったのを憶えています。
そして2004年、あの球界再編問題が起こるのです。私はオリックスと大阪近鉄との合併に反対していました。結果論ですが、新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスが出来たのですから、合併などせず、「大阪近鉄バファローズ」がそのまま「東北楽天バファローズ」でよかったのです。仙台といえば牛タンが名物だし。
フランチャイズ制に加えて、チームヒストリーもプロ野球の核心だと思っています。プロ野球創成期ならともかく、今となっては合併なんてしてはいけない。チームヒストリーが1本に伸びて「●年ぶりの優勝」「●年ぶりの日本一」と数えることが出来ないとダメなんじゃないか。
東北楽天としての初戦を私は観ています。2005年3月26日(土)のマリンスタジアム。「千葉ロッテ1-3東北楽天」と新球団が勝利。
勝ち投手は岩隈久志。「2日間、時間をいただき、寝る間を惜しむくらい真剣に考えました。やっぱりオリックスでプレーできません」「6カ月間、合併問題の中で野球をやってきて、とてもつらかった。オリックスでプレーすると、その気持ちを引きずったままになると思いました。新しい気持ちでやりたい」と発言して、東北楽天に加入した岩隈が勝利投手になったのです。
千葉ロッテファンとしても、不思議とうれしかったのを憶えています。ただ翌日は「千葉ロッテ26-0東北楽天」の大勝利。こちらは別の意味でうれしかった。
県営宮城球場あらため「フルキャストスタジアム宮城」に初めて行ったのは、同年の9月23日(金)に行われた、こちらも東北楽天対千葉ロッテ。前日に引退セレモニーをした千葉ロッテ・初芝清が、なぜかスタメン出場してファインプレーを決めた試合でした。
オールスター戦の前日に訪れた郡山で見た中村剛也
そして、東日本大震災のことを書かざるを得ません。
大震災から4か月経った2011年7月9日(土)。宮城県の利府球場というところで、東北楽天と千葉ロッテによる、今度は二軍戦を観ています。
球場には、近くの駅からタクシーで向かいました。途中「セキスイハイムスーパーアリーナ」の近くを通ったのですが、タクシーの運転手さんが「ここは大震災の遺体安置所だったんですよ」と教えてくれました。
その年の7月24日(日)に仙台で行われたオールスターゲーム(第3戦)も観に行きました。球場名は「クリネックススタジアム宮城」に変わっていました。東北楽天・嶋基宏のスピーチが記憶される、あの試合です。
――「スタンドの高いところにいらっしゃる方、バックスクリーン後方、海の方をご覧ください。ここからわずか数キロしか離れていない沿岸部では、まだまだ助けを必要としている方々が多くいます」
ですが、印象に残ったのは、前日にマリンスタジアムで行われた第2戦なのです。どういうことか。
一緒にオールスターゲームを観に行ったメンバーの1人が、福島県郡山で震災直後にボランティアをした関係で、観戦メンバー全員で、郡山市の大規模避難所「ビッグパレット」を訪れたのです。
避難所のそこかしこに放射線測定器が置かれていて。
そして、ビッグパレットの横にあった「川内村災害対策本部」のプレハブの中にテレビがあって、そこにオールスターゲーム第2戦が映っていたのです。
打席には、この年48本のホームランを叩き出す埼玉西武の中村剛也。通称「おかわりくん」。初回に東京ヤクルト・館山昌平からホームランを打った後の第2打席。客席からは「おかわり・おかわり・もういっぱい!」
カキーン! 中日・吉見一起から、バックスクリーンに特大の一発!
バットの上にボールを乗せるような、独特のスイングでホームランを量産した中村剛也ですが、このときはマリンスタジアムの観客だけでなく、遠く離れた福島県郡山にいた野球ファンの夢までもバットに乗せて「おかわり」したのでした。
桑田佳祐が『明日へのマーチ』に込めた想い
東日本大震災後、様々な音楽家がチャリティ活動を始めましたが、印象的なのは、桑田佳祐の活発な動き方でした。
2011年8月17日にチャリティシングル「明日へのマーチ」発売(収益の一部を震災復興支援として、日本赤十字社および地方公共団体に対して寄付)。そして、翌9月の10~11日には、チャリティライブ『宮城ライブ ~明日へのマーチ!!~』を開催。会場は何と、遺体安置所だった、あのセキスイハイムスーパーアリーナ。
「明日へのマーチ」の歌詞に注目すべき部分がありました。拙著『桑田佳祐論』(新潮新書)に私はこう記しました。
――注目するべきはサビの「♪願うは遠くで 生きる人の幸せ」というフレーズだ。桑田佳祐の発音を聴けば、この「遠く」(とおく)に意図的に「東北」(とうほく)を込めているように思われる。ただし歌詞カードには「遠く」にとしか書かれていない。つまり、さりげなく、そっと忍ばせているのだ。「東北」のことを。
2013年、東北楽天が、星野仙一監督の下でついに日本一に輝きました。嶋基宏による「スタンドの高いところにいらっしゃる方、バックスクリーン後方、海の方をご覧ください。ここからわずか数キロしか離れていない沿岸部では、まだまだ助けを必要としている方々が多くいます」のたった2年後。
それからも、本拠地球場の名前はころころ変わっているものの、東北楽天が地域にしっかり根付いているのを確認します。
フランチャイズ制とチームヒストリーがプロ野球の根幹だと書きました。この話、東北の話に置き換えれば、東北楽天が「東北で生きる人の幸せ」を本気で願っているチームだと、東北の人々に永く認めら続けることに他なりません――。
話は2023年10月10日、そんなことをいろいろ考えながら私は、「楽天モバイルパーク宮城」に着きました。
千葉ロッテは勝利して、2位とCS出場、それもファーストステージはホーム開催が決定。我が千葉ロッテも仙台の地から「遠くの千葉で生きる人の幸せ」のために戦ってくれました。
少しだけ浮足立ちながら、仙台駅まで歩いて帰りました。そして、かつて球界再編問題や東日本大震災に揺れた仙台の夜景に向けて、「明日へのマーチ」を心の中で歌ったのです――「良い事も辛い事も それなりにあったけど 野も山も越えて行こう 明日へのフレー!!フレー!!」
桑田佳祐「明日へのマーチ」
Text:スージー鈴木