【スージー鈴木の球岩石】Vol.10:1995年の横浜スタジアムと矢沢永吉「ルイジアンナ」


スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第10回は、横浜公園の旧・平和球場に始まって、1995年の横浜スタジアムに集約されていく矢沢永吉と、桑田佳祐、佐野元春、そして不肖・私の物語です。

 
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1987年の横浜スタジアム

 

横浜公園から始まった矢沢永吉

 

矢沢永吉の物語は横浜スタジアムから始まる――というのが言い過ぎならば、矢沢永吉の物語は、いま横浜スタジアムのある横浜公園から始まった。というのは、彼が最初のバンドを組んだ場所が、あの公園だったというのだ。

広島から上京、ならぬ横浜に「上浜」して、日々バイトに明け暮れながら、ロックスターを目指して、バンド結成を企てる。私が子供の頃に、それほど穴が開くほど、綴じ込みがほつれるほどに読んだ彼の自叙伝『矢沢永吉激論集 成りあがり』(小学館)には、その時の様子がこう書かれている。
 

――バンドの話が、ついにきた。横浜公園に集まってやろうってやつがいる。よーし、やる。行った。どういうメンバーがいたかっていうと……。


集まったメンバーはうだつが上がらなそうで、矢沢永吉は顔を見て「即、解散!」と思ったのだが、まずは「キッカケをつくろう」と思って、そのメンバーと組んだバンドの名前が「ザ・ベース」。

このとき矢沢永吉は、横浜公園にある球場を見上げて「まずこのメンバーから第一歩を踏んで、いつかロックスターになってやるぜ」と思ったのだ(実は、このシーンについては『成りあがり』には書かれていないのですが、取りあえずは、このコラムを最後まで読んでください)。

でも、横浜スタジアムの完成は、その『成りあがり』が発売された1978年。ということは「成りあが」った後ということになる。では、「ザ・ベース」のメンバーと見上げた球場は何球場?

答え――「平和球場」。

横浜スタジアムの公式サイトには、横浜公園の球場についての歴史が、細かく書かれている。

 

  • 1929年:関東大震災復興事業の一環として「横浜公園球場」が竣工。こけら落としの早慶新人戦にスタンド満員の15,000人観衆を記録
     
  • 1934年:ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック率いる米大リーグオールスター来日
     
  • 1945年:終戦で駐留軍に接収され「ゲーリック球場」と命名される。日本初の夜間照明塔が完成
     
  • 1945年:日本プロ野球初のナイトゲームが開催(巨人対中日)
     
  • 1952年:平和条約締結とともに公園内の一部を除き大部分が駐留軍の接収を球場改修にともない「ゲーリック球場」から「横浜公園平和野球場」と改名 

 

「ゲーリック球場」が日本初のナイターが行われたという話は、野球ファンの間では有名なものなのだが、しかし、私が不思議に思ったのが、1952年の「平和条約締結とともに~『横浜公園平和野球場』と改名」のところだ。

1952年(昭和27年)って「平和条約」じゃなく「サンフランシスコ講和条約」じゃないの?

調べてみて驚いた。「サンフランシスコ講和条約」の正式名称は「日本国との平和条約」というらしい。そしてこの記述を見る限り、その「平和条約」と「平和球場」というネーミングには、どうも関係がありそうだ。

矢沢永吉は「平和条約」「平和球場」の3年前、1949年生まれの広島出身。戦後生まれだが、広島の出ということもあり、戦争の傷痕を抱えている。『成りあがり』より。
 

――それが、広島のピカドンの時、前のオフクロ、義理の姉さん、兄さんと3人全部一緒に死んだ。


お父さんも小2のときに亡くなる。

 

――やっぱり、原爆の後遺症じゃないかな。肝臓なんとか、肋膜なんとか……いろいろ病気が出てきたらしいもの。


そんな矢沢永吉が、平和と名付けられた建物の近くで第一歩を踏み出したのだ。

 

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ありし日の平和球場の姿(1976年)

 

1985年のサザンオールスターズと横浜スタジアム

 

横浜スタジアムが開業した78年にデビューしたのが、ご存じサザンオールスターズである。

その衝撃的なデビュー曲の歌い出し「砂まじりの茅ヶ崎」に象徴されるように、サザンと言えば、湘南・江の島・茅ヶ崎と相場が決まっている。しかし彼らがデビューした頃は「ハマトラ」の時代。つまり横浜が今よりもおしゃれだった頃、日本でいちばんおしゃれな街だった頃だ。

そのせいか、初期のサザンにはいくつか横浜を舞台とした曲がある。「♪横浜じゃトラディショナルな彼のが」とハマトラを意識したようなフレーズのある『シャ・ラ・ラ』(80年)や、「♪Oh my baby 横浜の姐や」「♪2人立たずむスタジアム」と、横浜スタジアムそのものが出てくる『思い出のスター・ダスト』(82年)。

あ、ちなみに原由子のご実家は、横浜スタジアム近くにある天ぷらの名店「天吉」。そんな原に対して桑田佳祐は、デビューアルバム『熱い胸さわぎ』収録の『今宵あなたに』の中で、「♪あなた悲しや天ぷら屋 だけども素肌負けないで Baby」という何ともな歌詞を捧げている。

そんなサザンの横浜スタジアムでのコンサートについて、秀逸なエピソードがある。登場人物はサザンと、桑田佳祐の同学年にして盟友の明石家さんま。以下、エムカク『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ』(新潮社)に掲載されていた話。

明石家さんまは、1985年9月21日からの横浜スタジアムのコンサートを鑑賞した。さんまは、その前月に発売されたサザンのシングル『メロディ(Melody)』のCMに出演していた。曲を聴いてさんまが涙を流すCMは、私にも印象深いものだった。

その横浜スタジアムのコンサートで、サザンは新曲としての『メロディ』を演奏する。すると……以下、某ラジオ番組における明石家さんま本人の弁。

 

――「サザンの横浜スタジアムのコンサート、イントロが鳴ったらねぇ、何万人が僕の方を見たんですよ。もうねぇ、ずっとうつむいていたことを覚えてるんですよ。みんなが俺を見て、合唱してくれるわけですから。それはもう感動もんでしたけどねぇ」


あの大きなスタジアムの中で、「何万人」が本当にさんまを見たのか。今となっては、ちょっと盛られている感じもするが、それでも、この話を真に受けて、満員の観客がさんま目掛けて合唱しているさまを想像すると、とてもおかしい。

 

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1948年8月17日、ゲーリック球場で行われた日本初のナイター(巨人対中日)

 

1989年の横浜スタジアムと佐野元春

 

横浜スタジアムで私が初めてコンサートを観たのはいつ、誰だったかと思い出せば、どうも佐野元春だったようだ。

そもそも佐野元春と横浜の縁は深い。高校時代に5か月ほど、家出のような形で横浜に住んでいたそうだし、また例えば、デビューアルバム『BACK TO THE STREET』(1980年)のジャケットは、神奈川県民ホールの裏手にあったブティック「赤い靴」の前で撮影されている。

私が足を運んだのは、1989年の「ナポレオンフィッシュ・ツアー」。検索したら、同年8月の24日・25日に横浜スタジアムにて、コンサートが開催されている。さすがにどっちの日かは分からない。誰と行ったかも。

行ったことを思い出せたのは、パンフレットを買ったからだ。その中には、若き佐野元春の舌鋒鋭いページがある。そのページに関連して、拙著『EPICソニーとその時代』(集英社新書)に収録した、佐野元春へのインタビューより抜粋。インタビュアーはもちろん私自身。
 

――鈴木:そして昨日、私の部屋を探してみると、89年の横浜スタジアムのコンサートパンフレットがありまして、その中で当時の「拘禁二法案」について、佐野さんは「くそったれな法律」って書かれてます。(略)それこそ「言葉に税はかからない」っていう形で、発言がラディカルになっていくのを、とても頼もしく見てたんですけども、そのときの気分を教えてください。
佐野:当時自分は、日本語によるロックンロール表現の可能性を限りなく広げたいと思っていた。後から来る若い表現者たち、同世代の表現者たちに、ロックンロールというフォーマットを使って、もっと自由になろうぜっていうことを、僕はアジテートしたかった。


 
「もっと自由になろうぜ」――いい言葉だと思う。

佐野元春がよく引用する、元ザ・バンドのロビー・ロバートソンの言葉=「ライブ・ツアーは、自分たちの教室だった」。これになぞらえれば、30年以上前のコンサートパンフレットから「もっと自由になろうぜ」というメッセージを学ぶとは、私にとって横浜スタジアムはまさに教室だった――。

ロビー・ロバートソンは今年の8月9日、ロサンゼルスにて逝去。享年80。

 

1995年の横浜スタジアムとスージー鈴木と矢沢永吉

 

矢沢永吉、桑田佳祐、佐野元春――ロックのビートに日本語をどう乗せるか、その方法論を確立させていく過程のキーパーソンである3人のボーカリスト。そして、彼らと歩調を合わせ、さらに飛躍するきっかけを与えた場としての横浜スタジアム。

ここで、ちょっとだけ個人的な話をはさむ。1995年、私は会社員でありながら、FMヨコハマのレギュラー出演することとなった。5分ほどの短いコーナーだったが、子供の頃からラジオ好きで、DJを夢見ていた身としては、胸が躍った。

FMヨコハマは、横浜スタジアムにほど近い、当時出来立ての横浜ランドマークタワーにあった。小さな一歩だが、29歳、もう若者とは言えない年齢になっていた私には、大きな一歩のように思えた。そして、子供の頃に読んだ『成りあがり』を、少しだけ思い出したりもした。

9月のある土曜日、収録が終わって、ランドマークタワーのある桜木町から関内の方に歩いていくと、横浜スタジアムに向かう人波に出くわした。矢沢永吉のコンサートが開催されるらしい。当然チケットなんて持っていないので、人波を避けるように歩いていった。また『成りあがり』を思い出しながら。

1995年9月9日、ソロデビュー30周年、46歳になる寸前の矢沢永吉による横浜スタジアムのコンサートは大成功だったという。矢沢永吉ファンのFMヨコハマの社員が教えてくれた。

「アンコールのMCが凄かったのよ。ステージから、スタンド越しの街を左右指差して、こう言ったの――『20歳ぐらいのとき、21・2・3ぐらいのとき、この街の、あの、この裏の方とかさ、こっちの方で、ずーっと腹減らして、絶対やったろうと、今まで見てたんですけど、今日横浜最高だよ。もう一発行こう、よろしく』。つって、キャロル時代の『ルイジアンナ』だよ、最高でしょ?」

それを聞いて私の頭の中は、もう『成りあがり』だらけになった。その頃はもう野球の歴史にハマっていたので、「絶対やったろう」と見つめた風景が、横浜スタジアムではなく平和球場だということも心得ていた。

「ザ・ベース」→「イーセット」→「ヤマト」、そして「キャロル」。これが『成りあがり』に記された若き矢沢永吉のバンド変遷。そしてキャロルはデビュー曲『ルイジアンナ』(72年)で大ブレイク、矢沢永吉は「BIG」への地歩を固める。

横浜スタジアムから見た横浜の夜景は、矢沢永吉にとって感慨深いものだったはずだ。そして横浜スタジアム、平和球場、そして横浜公園は、彼にとっての教室だったろう。

 

そして1998年の横浜スタジアムと……

 

最後に。その3年後、1998年の話。

佐野元春はその前年の12月にアルバム『THE BARN』を発表する。レコーディングは、ザ・バンドが一時期住んでいたウッドストックで行われ、そのザ・バンドのガース・ハドソンが参加と、ロビー・ロバートソンにも関係の近い作品だった。

賑やかなのは、この年デビュー20周年のサザンオールスターズ。マリンルージュ→大黒埠頭→シーガーディアンと巡っていく『LOVE AFFAIR〜秘密のデート』を発表。この曲はその後、横浜の代名詞のようになった。

逆にこの年、大変だったのは矢沢永吉で、彼が購入したオーストラリア・ゴールドコーストの土地に絡んだ、35億円以上もの巨額詐欺事件に巻き込まれる。しかしそんな巨額の借金を返し終え、令和の今でも、元気にロックンロールしているのは、ご存知の通り。

最後に。この年の横浜スタジアムは、横浜ベイスターズの実に38年ぶりの日本一で湧きに湧く。そして、無敵の守護神・佐々木主浩をスタンドで見つめていたのが、ラジオ出演は続いているけれど、ブレイクの気配などまったくなく、「成りあがり」への道は険しく長いと沈んでいる私だった。

 

<今回の紹介楽曲>

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矢沢永吉「ルイジアンナ」

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Text:スージー鈴木