【スージー鈴木の球岩石】Vol.14:1978年の西宮球場とアリス「ジョニーの子守唄」


スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第14回は懐かし球場シリーズ。1978年に最強だったあのチームとあの音楽ユニットに思いを馳せながら、行くことが叶わなかった懐かしの西宮球場を夢に見るという話です。

 
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1985年の西宮球場(阪急対近鉄)

 

土曜午後のテレビで見ていた西宮球場

 

この連載で初めて、行ったことのない球場を取り上げます。その名は西宮球場。正式名称は、昭和の頃「阪急西宮球場」、その後、野球ではなくアメフトと競輪が中心となって「阪急西宮スタジアム」。

西宮球場時代は、パ・リーグ、阪急ブレーブスの本拠地でした。私が物心ついた頃のブレーブスは最強時代。上田利治監督の下でパ・リーグ4連覇(75~78年)を成し遂げます。

その最終年が1978年。当時のパ・リーグは前後期制だったのですが、ブレーブスはそのどちらも首位。結果、前期と後期の覇者が対決するプレーオフがなくなってしまうという強さを誇ります(76年も)。

子供が強いものに惹かれるのは当たり前。東大阪の小6として、めっぽう強い関西球団に惹かれ始めたのも無理はありません。当時私は、うっすらとタイガース・ファンだったのですが、この年のタイガースが球団史上初の最下位になったことも影響していたように思います。

それでも、西宮球場に実際に行ったことはなかったのです。東大阪市と兵庫県西宮市、心理的距離がめちゃくちゃ遠かった。今なら近鉄と阪神が接続していて、西宮に一本で行けるのですが。

だからブレーブスとの唯一の接点は、関西テレビ(8チャンネル)で土曜の午後に放送される、西宮球場からのデーゲーム中継でした。

半ドンの学校から帰ってきて、午後はまず、朝日放送や毎日放送の吉本新喜劇を見て、夕方から関西テレビのブレーブスの試合を見る。そして18時、『ザ・タカラヅカ』という宝塚歌劇団の番組になると、また、別チャンネルの吉本の番組に変える。

でも実は、1978年、小6の私は、野球自体に冷め始めてもいたのです。だって、東大阪の小6の耳にも飛び込んできたのですから――「ニューミュージック」が。

ニューミュージック。今や死語でしょう。「ビートルズやサイモン&ガーファンクルなどの洋楽に影響を受け、吉田拓郎や井上陽水を皮切りとする戦後生まれの若者による自作自演音楽」ぐらいの意味です。

「俺ら小6、もうすぐ中学生やねんから、これからは野球ちゃうで、ニューミュージックやで」。

1978年のヒットチャートは、まさに「ピンク・レディー全盛時代」。ただ、少しずつ勢いが落ち始めていた状態でした。そして、ピンク・レディーに沢田研二、山口百恵という歌謡曲勢を、矢沢永吉、中島みゆき、世良公則&ツイスト、松山千春らのニューミュージック勢がうっちゃり始めている。

そんなニューミュージック勢の代表がアリスでした。この年の夏に3日間の日本武道館コンサートを開催。まさに無敵の状態。

当時の印象をたどってみると、アリスはニューミュージックやフォークというより、まさに「ロック」でした。谷村新司と堀内孝雄が、アコースティックギターをガシガシとコードストロークする痛快な音。例えば『今はもうだれも』や『冬の稲妻』、これぞ生理的快感。めちゃくちゃ気持ちよかった。

そして私は、生まれて初めてギターを手に取って、『冬の稲妻』をコピーしたのでした。谷村新司は、このように語っています。
 

――「冬の稲妻」(1977年)は、完全にヒット曲を作ろうと意識して詩を書きました。シンプルな詩で、堀内(孝雄さん)もシンプルに曲を作ったのが見事にはまった。アリスってギターの初心者でも弾けて、しかも「せーの」でやると格好いい、というのを一つのテーマにして歌を作ってたので、出来上がった時はどんぴしゃだなって、みんなで手応えを感じてました(朝日新聞/2014年5月12日)


ここで語られる谷村新司の戦略に、まんまと乗せられたのが小6の私でした。世をはかなんだような、小難しい、湿った、でもその実は何も考えていないような他のフォークとはぜんぜん違ったアリス。あの頃のアリスがロックじゃなくって、何がロックなんだろう。

1978年は、私の心の中で、野球とニューミュージックが競り合った1年でした。無敵のブレーブスと無敵のアリスの頂上決戦――。

 

そしてあの1978年10月がやってきた

 

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1978年日本シリーズ最終戦、上田利治監督の抗議シーン

 

1978年の10月22日は日曜日、後楽園球場で行われたブレーブス対スワローズの日本シリーズ第7戦は、ある大事件によって、長く記憶されることとなります。

3勝3敗で迎えた第7戦の6回、ブレーブス・足立光宏の変化球をすくい上げたスワローズ・大杉勝男の打球はレフトポール方向へ。富澤宏哉線審は右手を大きく回して本塁打の判定。しかしレフト・簑田浩二が「ファウルだ」と抗議。上田利治監督も審判団に食ってかかり、全選手をベンチに引き上げさせ、1時間19分にわたる猛抗議を続ける――。

私は近所の公園で草野球をしていました。そこに、日本シリーズの中継を家で見ていた友だちが、息せき切ってやってくる――「日本シリーズが凄いことになってるんや!」。そして、その友だちの家で、まなじりを決してブラウン管を凝視した1時間19分。

結局、判定は覆らず、大杉勝男はその後、8回にもブレーブス・山田久志からもう1本、ダメ押しの本塁打を放ち、日本シリーズはスワローズが制することとなりました。そして、この1時間19分を境として、ブレーブスの最強時代が終わっていくのです。

そして、私の中でも、野球が、野球的な何かがが終わった感じがしたのでした――「野球なんかより、大人のかっこいい音楽、ニューミュージックを聴かなあかん」。

翌日、10月23日のオリコンチャートは、アリスの堀内孝雄のソロ『君のひとみは10000ボルト』が1位。そしてアリス『ジョニーの子守唄』が11位。ちなみに3位は、サザンオールスターズというぽっと出の新人バンドの『勝手にシンドバッド』です。
 

――♪子供が出来た今でさえ あの頃は忘れない


『ジョニーの子守唄』のこんな歌詞を、まだまだ子供の私が歌っていた頃。

音楽に傾いていく私の心を見透かしたかのように、日本シリーズの5日後、1978年10月27日の金曜日に、アリスが我が東大阪の市民会館に来るのです。小6の私が、この日の市民会館に忍び込んだときの顛末は、拙著『恋するラジオ』(ブックマン社)に書きました。
 

――噓のような本当の話、今度は本物の谷村新司が、そこにいたのだ。並んでいるファンにサインをしているところだった。
 驚いたのは、その太い腕。ライブの回数を誇っていたアリスである。例えば《今はもうだれも》などで聴ける、アコースティックギターの力強いコードストロークが売りのアリスである。知らず知らずのうちに、腕も鍛えられていったのだろう。
 市民会館のロビーのようなところ。サインを待つ行列は、1人また1人と増えていき、終わる様子はない。そこで意を決したラジヲは、谷村新司に話しかけた。
「チンペイ! ヤンタン聴いてるで!」
 そのとき、谷村新司がぐっと振り返り、ラジヲの方を見た。とても驚いたような顔つきでラジヲを睨んだ。


「ラジヲ」とはもちろん私のこと。そして「ヤンタン」とは、大阪で当時人気の深夜ラジオ番組『MBSヤングタウン』の愛称。谷村新司はその「ヤンタン」、金曜日のレギュラーでした。金曜日ということは、コンサート後に生放送のオンエアがあるということです。
 

――「いやぁ、今日は東大阪でコンサートやったんですけどね。ほんまにびっくりしましたよ」
谷村新司がいきなり語りだす。ばんばひろふみが突っ込む。
「なににびっくりしたん?」
「いやね、こーんなちっちゃい小学生に『チンペイ! ヤンタン聴いてるで!』って言われてねぇ。人気があるんはありがたいことやけど、あんなちっちゃい子供が聴いてるんやったら、どぎつい下ネタは、ちょっと控えた方がええかと思ってね(爆笑)」


「♪子供が出来た今でさえ あの頃は忘れない」なんて歌って、ぎりぎりの背伸びしていた東大阪の小6も、谷村新司から見たら、単なる「ちっちゃい小学生」だったのでした。

 

西宮球場とブレーブスと谷村新司の終焉

 

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競輪場としても使われていた西宮球場(1979年)

 

中学生になった私は、だんだん野球を見なくなり、いよいよ音楽に傾倒していくのですが、ただ、アリス自身も少しずつ勢いを落としていき、私は、ブレーブスともアリスとも無縁な80年代に向かっていきます。

そしてアリスは81年に解散。阪急ブレーブスも88年にオリエントリース(のちのオリックス)に身売り。

その後、西宮球場はどうなったのか。阪急ブレーブスの後継=オリックス・ブルーウェーブは91年からグリーンスタジアム神戸に本拠地を移転、西宮球場から離れます。そして西宮球場自体も、2002年の年末に、ひっそりと幕を下ろすのです。

西宮球場の終焉を伝える新聞記事(毎日新聞/2002年12月1日)の中で、スタジアムのセールス・マネジャーとして39年間支えてきた山田志郎さんはこう語っていました
 

――「本拠地が同じ西宮市にある阪神タイガースとブレーブスの日本シリーズが見たかった」


この記事では、ブレーブス最強時代を支えたピッチャー、山口高志のコメントがまた読ませます

 

――「入団1年目、ここで胴上げ投手になった。夕方になると、一塁側から照明塔の影が打席とマウンドの間に落ちてきて、球が速く見えるんだ」


そして2023年。10月28日から始まったオリックス・バファローズ対阪神タイガースの日本シリーズ、通称「関西ダービー」。山田志郎さんの言う「阪神タイガースとブレーブスの日本シリーズ」がちょっと歪んだ形で実現しました。

その「関西ダービー」の直前に聞こえてきた谷村新司の訃報でした。10月8日没、享年74。追悼のラジオ番組で『昴』と『サライ』ばかり流れるのに、私は強い違和感を抱いたのです。

「違うんだよ、私にとって谷村新司は、アコースティックギターを太い腕でガシガシ弾く、かっこよくて、ロックな――『アリスのチンペイ』なんだよ」

1978年のアリスを知っている、いや感化された、いや1978年10月27日の東大阪市民会館に忍び込んだ小学生として、求められるがままに、追悼として、「ロックとしてのアリス」をいくつかのメディアで主張させていただきました。

だって――「♪子供が出来た今でさえ あの頃は忘れない」のですから。

 

日本シリーズを見ながら、1978年にタイムリープ

 

「関西ダービー」の中継をぼーっと見ていました。しかし頭の中は、つい先ほど、某新聞に向けて電話インタビューで話した、谷村新司のことが浮かんでいました。

すると、頭の中が、突然1978年にタイムリープ!

気が付いたらそこは、1978年の西宮球場だったのです。「1978年の日本シリーズ」が行われるのです。無敵だった1978年のブレーブスと、同じく無敵だった1978年のアリスの「関西ダービー」が。

球場の一塁側スタンドには、ブレーブスファンの野球通オヤジたち。対する三塁側スタンドには、チンペイ、べーヤン(堀内孝雄)、キンちゃん(矢沢透)の一挙手一投足にキャーキャーと騒ぐアリスファンの女の子たちと、まるで対照的な雰囲気。さぁ、1978年の「チャンピオン」となるのは、ブレーブスかアリスか、どっちだ?

そして、1978年の生き証人である私は主審です。もし打球が、レフトポールの真上に飛んだとしても、ファウルかホームランか、絶対に見極めてやるぞ。

さぁ、試合開始の合図として、アリス『ジョニーの子守唄』が流れてきました。いよいよプレイボール!
 

――♪子供が出来た今でさえ あの頃は忘れない

 

<今回の紹介楽曲>

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アリス「ジョニーの子守唄」

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Text:スージー鈴木