【スージー鈴木の球岩石】Vol.17:2012年の札幌ドームと憂歌団「おそうじオバチャン」


スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第17回は取り上げるのが2回目となる札幌ドーム。エスコンフィールドに移転するまで、ファイターズの本拠地だったあの要塞のような空間の中でダルビッシュが放った言葉が、ブルース、いや「憂歌」のビートに乗って、シカゴへと旅立っていく物語です。

 
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日本最終年(2011年)、札幌ドームでのダルビッシュ

 

ダルビッシュが放つ言葉がもつ驚くほどの豊潤さ

 

それにしても昨年末からのオフシーズン、とくに今年に入ってからの大谷翔平報道は加熱していました。ペットだ、結婚だ、など、野球とは無縁の枝葉末節にまで加熱し過ぎていて、私は少々呆れていました。
 

――「はいここからは、お待ちかね、今日の大谷翔平です! なんとあのペットに関する新しい情報が入ってきました!」


それほどまでに大谷翔平の選手を取り上げるのなら、ダルビッシュ有をもっと取り上げてほしいと思ったのです。私はダルビッシュのファンなのです。それも彼の言葉の――。

2012年の1月24日、その年のシーズンから、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズに移籍することになった北海道日本ハムファイターズのダルビッシュが、本拠地の札幌ドームで渡米記者会見を行いました。

いわく「メジャーに行くくらいなら野球をやめる」と思っていたけれど「僕はすごく、勝負がしたい。(日本では)それが成り立たなくなり、モチベーションを保つのが難しくなった」。なぜなら「試合前に対戦相手から『投げないで』とか『打てない』とか聞いていると、フェアではないのでは、と引っかかっていた」

面白いことを言う人だと思い、そして興味をもって彼の言葉を追ってみたのです。すると翌日1月25日、ブログでの言葉に打ちのめされました。

 

――あなた達が選手を愛すようにファイターズの選手もあなた達を愛しています。あなた達が想像する何十倍もです。どんなことがあっても支えてあげてください。打てなくても、抑えられなくても、いつもの温かい言葉と拍手を送ってあげてください(改行省略、以下同)


こんな言葉を選手からかけられるファンはたいそう幸せだ、うらやましいと思ったものです。

忙しいことに5日さかのぼった1月20日、ダルビッシュは、テキサス州アーリントンにあるレンジャーズの本拠地球場、レンジャーズ・ボールパークで入団記者会見をしていたのですが、このときのある一言は、大阪人としてたまらなかった。
 

――「大阪の羽曳野市で生まれ育った野球好きの子どもというのは変わらない。注目されることには今でも戸惑っている」


羽曳野(はびきの)!

前回取り上げた藤井寺のすぐそば。私の生まれ故郷である東大阪市と同じ河内(かわち)地区。私はこの「羽曳野」発言を聞いて、彼へのシンパシーが一気に深まったのでした。

そのとき以降、私の収集した「ダルビッシュ名言コレクション」の中でも最高なのが『ダルビッシュ有の変化球バイブル』(ベースボール・マガジン社)の中にあった、この一文。
 

――「野球は考えれば考えるほど、楽しく簡単になる」。


これはもう森羅万象の本質でしょう。床の間に飾りたいとまで思ってしまいます(我が家に床の間などありませんが)。

もしかしたら、これらの異常に知的で素敵な言葉は、複雑な生い立ちと関係があるのかもしれまん。日本とイランのハーフ(ミックス)、スポーツ万能、身長も高く(中3ですでに190cm!)、ハンサムな少年が、羽曳野というところで、単なるチヤホヤではない取り扱われ方をしたことは、東大阪市出身としてなんとなく分かります。

『Number Web』(2022年8月16日)には、2002年、ダルビッシュが東北高校に入学することが決まったときのエピソードが、このように書かれていました。
 

――若生(註:正廣監督)は彼が来る前、寮の玄関に全員を集めた。大阪の羽曳野から140kmを投げる投手が入ってくること。日本とイランのハーフであること。そのことで大阪では辛い経験もしてきたことを説明した。「名前にカタカナが入っているだけで、外国人だとか、差別のようなことは絶対に許さない。みんなと同じなんだ」と若生は言った。「少しでも早く馴染めるようにダルビッシュではなく、有と呼んでやってくれ」


抜群の才能をもった少年が、複雑な経験を経て、さらに鍛えた身体と知性をバネにして、羽曳野から東北高校のある宮城県、そして札幌、そしてアメリカへと旅立っていったのです。素敵な言葉を抱えながら――。

 

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2004年の夏の甲子園、東北高校時代のダルビッシュ

 

憂歌団の木村充揮と生野区という街

 

河内に近い、東大阪市の西側に接した生野(いくの)区で生まれたのが、憂歌団のボーカリスト=木村充揮。

私は彼を、大阪を代表する音楽家だと思っているのですが、そんな彼が『木村充揮自伝 ~憂歌団のぼく、いまのぼく』(K&Bパブリッシャーズ)に、自らが生まれた生野区と、自らの出自についてさらっと書いています。
 

――詳しい数字は知らないが、住民のうち、4人に1人、あるいは5人に1人が韓国籍の人、北朝鮮籍の人、そのいずれかから日本に帰化した人だ。そういえば、憂歌団にもそんな割合があてはまる。(註:憂歌団メンバーの)内田、島田、花岡は日本国籍、そしてぼくは韓国籍だ。


たとえ在日コリアンの多い生野区であっても、彼がそれなりに複雑な経験をして育ったことは、生野区の隣の東大阪市出身として、手に取るように分かります。

そんな憂歌団最高の演奏といえば、私の知る限り「冬眠宣言」(活動休止)の銘打たれた九段会館公演(1998年12月19日)における『おそうじオバチャン』です。このときの演奏は、かっこよく、独創的で、かつ大阪人が好んで使う表現を使えば「えげつない」(無論、褒め言葉として使っています、それも最上級の)。

憂歌団の演奏を見ていて、いつも思うのは、アメリカ人に見せてやりたいということです。

洋楽の物まね・猿まねを超えて「Blues」(ブルーズ)をしっかり飲み込んで、自分たちのものに消化・昇華している。だからアメリカ人に見せても恥ずかしくない。「ブルーズ」でも「ブルース」でもない、生野区から生まれたえげつない「憂歌」がそこにあるのですから。

 

複雑な背景をもつ2人の大阪人、シカゴに向かう

 

ダルビッシュ有、木村充揮、この羽曳野と生野区が輩出した才能の共通点。それは2人ともシカゴに行ったことです。

しかしシカゴに行っても、彼には面倒くさい差別がついて回ります。まずはダルビッシュ。日刊スポーツ(2019年2月18日)の記事より。
 

――ダルビッシュは16日、ツイッターを更新。イラン人の父と日本人の母を両親にもつハーフである自身のことを「日本人じゃない」などと発言したツイッターユーザーに「俺日本人だし笑」と反論し「ずっと日本で育ってきてるから、冗談でも日本人じゃない的な言い方をされるとうれしくはないよなぁ。そもそも完全な純血ってどれぐらいいるんだろうか」とつづった。

 

――またダルビッシュは18日更新のツイッターで「日本は何言われても黙って我慢みたいなのがいいみたいに思う人が多い気がします。ただ自分は納得いかないことには反論したいです。自分に素直に生きたいですから」との思いをつづった。


ダルビッシュは、マウンドでの立ち居振る舞い同様、正々堂々としたフォームから放たれる言葉で、差別を弾き返します。

そして2020年、ナ・リーグ単独トップの8勝を挙げて、日本人初の最多勝のタイトルを獲得するのです――羽曳野っ子、アメリカ・シカゴの世にはばかる!

 

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2019年、シカコ・カブス時代のダルビッシュ。

 

片や、憂歌団もシカゴに向かいます。1988年『シカゴ・ブルース・フェスティバル』に参加したのです。

ただ、先の『木村充揮自伝』には、シカゴから日本に帰る飛行機の中で、差別を受けたことについての描写があります。
 

――ところがそれ(註:帰りの飛行機)が最悪だった。白人のスチュワードが完全に有色人種をバカにしていて、何を言ってもぼくらの要求にまったく耳を貸さなかった。「くそう、このボケ」「白人でもこんなアホがいてるんやなあ……」「やっぱり最低やのう、白人は」


しかし、シカゴは、そんな経験を埋め合わせるには余りある素敵な経験を木村充揮に与えます。マクスウェル・ストリートというところで、憂歌団として軽い気持ちで演奏してみると「黒人のおっちゃん」に話しかけられる。それを知り合いが訳してくれると、
 

――「さっきやってたやつらより、おまえらのほうがブルースや、と言うてるねん」「黒人の歌も、スラングとか方言で、何を歌っているのか、ようわからんことが多いねん。そやから言葉は問題やないねん。要はそこから伝わってくる『気持』やねん」


そして『シカゴ・ブルース・フェスティバル』で、念願の演奏を披露。すると、
 

――次の日、憂歌団はフェスティバルのステージに出た。日本語で『おそうじオバチャン』をやった。ぼくらは目一杯がんばって歌い、演奏した。すると、いっぱいの拍手と歓声が返ってきた。当たり前のことかもしれないが、出した分は返してくれた。そして、アンコールまでしてくれた。


生野っ子、アメリカ・シカゴの世にはばかる!

複雑な経験をしているからこそ、格別な体験を得られる。羽曳野っ子と生野っ子に、格別な体験を与えてくれる街、それがシカゴなのでした。

 

札幌ドームの命名権について思うこと

 

3月の半ばに、札幌に行く用事があり、帰り道、市内から新千歳空港に向かうバスに乗りました。その路線は、札幌ドームの近くに停留所があり、だから、これまで試合を見て直帰するときに、何度か乗ったことのある路線でした。

晴れた午後、車窓から札幌ドームが見えます。かつてダルビッシュが意気揚々と渡米会見をした札幌ドームは、ファイターズ本拠地の座をエスコンフィールドに明け渡したからか、少しばかり寂しげに映りました。

私が最近こんな記事も目にしていたからかもしれません(東洋経済オンライン/2024年3月17日)。

 

――札幌ドームは苦境を伝える報道が相次いでいる。(中略)ファイターズ人気でついていたスポンサー看板はすべて撤去された。当然ながら、稼働日数は激減した。(中略)さらに、こうした苦境を脱するために札幌ドーム側は「ネーミングライツ」を募集した。年間2.5億円で複数年という条件だったが、問い合わせた企業はあったもののこれまで応募はなし。2月29日を締め切りとしていたが、ドーム側は「応募があるまで受け付ける」とした。


どうせネーミングライツの引き受け手が付かないのなら、ダルビッシュの貢献、活躍に敬意を評して「ダルビッシュ・ドーム」にすればどうでしょう。いや、ちょっと長いけれど「野球は考えれば考えるほど、楽しく簡単になるドーム」は?

こう名付ければ、2.5億円を大きく上回る効果を、日本の野球界に還元できると思うのです。

 

<今回の紹介楽曲>

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憂歌団「おそうじオバチャン」

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Text:スージー鈴木