【スージー鈴木の球岩石】Vol.15:1988年の川崎球場と山下達郎「僕の中の少年」


スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第15回は昨年、最後まで残った照明塔3基も撤去され、いよいよ人々の記憶に残るのみとなった川崎球場と、その場所がもっとも耳目を集めた「10.19」、そして同日に発売されたあのアルバムについて語ります。

 
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これでも公式戦なのです。1988年10月3日の川崎球場、ロッテ対阪急戦

 

閑散としていた1988年の川崎球場

 

手元に一冊の本があります――『1988年のパ・リーグ』山室寛之(新潮社)。中身ではなく、その帯を読むだけで、この年のパ・リーグが激動だったことが分かるのです。
 

――南海・阪急の衝撃的な身売り、そして伝説のロッテvs近鉄「10.19」――球史に残る、昭和最終年のシーズン舞台裏!!


伝統ある「南海ホークス」「阪急ブレーブス」が無くなった。そして「10.19」=(じゅってんいちきゅう)とは何か。それは1988年10月19日の水曜日に、川崎球場で起きたこと。35年後=2023年10月19日の「web Sportiva」の記事から。
 

――長いプロ野球史において、今もなお伝説として語り継がれている激闘のひとつが、1988年10月19日に川崎球場で行なわれた近鉄vsロッテのダブルヘッダー「10.19決戦」。近鉄がダブルヘッダーを連勝すればパ・リーグの優勝が決定。1回でも敗れるか引き分けると西武が優勝するという状況で、近鉄は第1試合を勝利(4-3)したものの第2試合が引き分け(4-4)となり、西武がリーグ優勝となった。


この日に起きた豊潤なドラマは、とても限られたスペースに書き表すことなど出来ません。特に若い方はぜひ検索をしてほしいのですが。

さて、その1988年の春に、大学3年生の私は、当時ロッテオリオンズの本拠地だった川崎球場を訪れたのです。隣には当時の彼女がいました。

この連載で何度も書いていますが、この時期の私は、プロ野球に興味などありませんでした。興味のないプロ野球の試合に足を運んだのは、近所の郵便局のキャッシュディスペンサーに、大量のタダ券が積まれていたからにすぎません。

あともうひとつ理由があるとしたら「『男女7人秋物語』でも取り上げられていた、ちょっとオヤジ臭くてダサい場所を覗き見しに行こう」的な気分にもなったから。

前年87年の秋に放送され、大人気となったTBSのドラマ『男女7人秋物語』は川崎が舞台で、その第1話に、良介(明石家さんま)、貞九郎(片岡鶴太郎)、俊行(山下真司)が、美樹(岩崎宏美)、一枝(手塚理美)、ひかる(岡安由美子)の3人と待ち合わせをするシーンがありました。

ドラマの中の川崎球場は閑散としていました。実際にも閑古鳥が鳴いていて、その閑散ぶりは「プロ野球珍プレー好プレー」の類の番組でよくネタにされていたものでした。

観戦した試合がいつか、相手チームがどこかすら憶えていません。記憶にあるのは、とてもいい天気だった週末のデーゲームということと、川崎球場の割には、比較的賑わっていたこと。

あの賑わいは、いわゆる「戻り開幕」=別球場でのビジター開幕試合から戻ってきたロッテが、そのシーズン初めて本拠地・川崎球場で戦う試合だったのではないか。

調べてみたら1988年4月16日(土)か17日(日)の阪急戦だった可能性が高そうです。気象庁のデータベースで調べると、川崎に近い横浜地区は、両方晴れ。それぞれ20.2℃、18.9℃という陽気。

それにしても「戻り開幕」なのにタダ券を配るものでしょうか、逆に「戻り開幕」だからこそ人を集めたかったのか――。

 

人生唯一の空白期間が骨格になる


当時私は、川崎市高津区の溝ノ口というところに住んでいました(だから近所の郵便局にタダ券があった)。溝ノ口は亡き父親の実家がある場所で、親戚の近所に住んで、晩ごはんを食べさせてもらうことも多かった。

本当に恵まれていたと思います。

一説には戦前に建てられたという木造の下宿にごろんと横になって過ごす、あの無駄に時間ばかりが余っていた、人生の中の唯一の空白期間。

時間を持て余したあげくに、いろんな音楽を聴き、本を読む、映画に触れる。山下達郎や桑田佳祐の音楽を聴き、本多勝一や渋谷陽一の本を読んで、山田太一のドラマをひたすら観る。

今考えたら、あの頃に接したカルチャーが、自分の血肉、いや骨格になっています。

大学生諸君に言いたいことは、空白期間に、時間を持て余してしょうがなく、あれこれやることが人生を決定付けるということ。だから持て余した時間を埋め合わせるように、あれこれいろいろと手を出してほしいということ。

昨今、大学生の貧困が問題となっていますが、出来ることなら、決してバイト、バイトと汲々としてほしくない。仕事に追われることなんて、大人になってから十分に出来るのだから。というか、大人になったらそればっかりなのだから。

 

デビュー原稿は山下達郎と桑田佳祐の対談リポート

 

1988年、私は暇に任せて、ラジオ番組のスタッフになりました。FM東京(現:Tokyo FM)の『東京ラジカル・ミステリー・ナイト』という深夜26時からの帯番組。当時、時代の寵児で、私も死ぬほど憧れた、いとうせいこうとその一群が出演していました。

その番組には『ラヂカル文庫』なる、フリーペーパーというかタダで配られる番宣冊子がありました。1988年夏に発刊された創刊号が手元に残されています。なぜなら私の書いた記事が載っているから(今持っているのは、私くらいではないかな)。

 

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FM東京『ラヂカル文庫』創刊号(1988年7月)

 

その番組内で、何と山下達郎と桑田佳祐の対談番組が放送されることとなり(1988年7月5日~7日)、『ラヂカル文庫』用に収録のリポート記事を書くという仕事に私は立候補したのでした。時期的には、同月9日リリース、桑田佳祐のソロアルバム『Keisuke Kuwata』のプロモーション関連だったのでしょう。以下、記念すべき「デビュー原稿」より引用。
 

――山下達郎「僕たちは流行音楽だから、新機軸を求められるわけ。でも、新しい音でも嫌いなものがあるんだよね。どう? そのへん」
桑田佳祐「いま演りたいものは聴きたいものと考えているんです。もう何が新しいかってわからないでしょ。(中略)時代のスタイルをはき違えると、あとで後悔するの」


という、番組内で交わされた言葉をピックアップしつつ、

 

――(註:デジタルサウンドを試みた)『KAMAKURA』や『POCKET MUSIC』で、彼等のベクトルは何ら変わっていない。彼等のラジカリズムは、もっと地に足のついたものである。


生硬な文章に笑いつつ、個人的なお宝として書き起こしてみました。当時21歳。もちろん原稿用紙に手書きしたものです。

 

そしてあの日――「10.19」がやってきた

 

そしてあの日を迎えます。そう「10.19」。ダブルヘッダーの1試合目に勝った近鉄が優勝に王手をかけるのですが、しかし2試合目が大変なことになりました。先の『1988年のパ・リーグ』から引用。
 

――午後10時ジャスト。Nステ(註:ニュースステーション)のオープニング映像が流れ、川崎球場へ変わった。マウンドに投球練習する関(註:ロッテの関清和)がいた。画面左下の小さな枠から、視界の久米宏がいつもの早口で語りかけた。
「水曜日夜10時を回りました。お伝えするニュースが山ほどありますが、パ・リーグの優勝がかかった試合がヤマ場、9回表ツーアウトまで進んでいまして、ここで中継を止めるわけにはいきません」


テレビ朝日が急遽、川崎球場からの生中継継続を決断。9回表ツーアウト時点で4-4の同点。近鉄、最終回の攻撃。ランナーは二塁に俊足の大石大二郎(当時:第二朗)、バッターは新井宏昌。もちろんここでタイムリーが出たら、近鉄は勝ち越し、優勝に限りなく近付く。

新井宏昌は三塁線に流し打ち、痛烈な打球を放つ。決勝点だ、優勝だ! しかし――ロッテのサード・水上善雄が超ファインプレーでゴロを掴んで一塁へ送球、アウト!

実況していたABCテレビの安部憲幸アナウンサーが叫ぶ――「ジス・イズ・プロ野球!」(「This」ではなく「ジス」と発音)。それを受けて、スタジオの久米宏が「ジス・イズ・ニュースステーションでございます」。

「10.19」は大騒ぎとなり、いつもは閑散としている川崎球場には人が溢れ、球場に入れなくなった観客が、周囲のマンションから観戦しました。

 

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「10.19」を川崎球場近くのマンションから観る人だかり

 

かえすがえすも残念なのは、私自身にその日の記憶がないことです。何をしていたのだろう。野球に関心がなかったからしょうがないのですが、それでも川崎球場に行っておけばよかったと思います。下宿から近いのですから。武蔵溝ノ口駅から川崎駅まで、南武線で1本なのですから。

「10.19」の代わりに私が注目していたのは、この日発売の山下達郎のアルバム『僕の中の少年』。CDで買っています。そういえば『Keisuke Kuwata』もCD。1988年の秋、CD化の波が、すでにレコードだらけだった溝ノ口の下宿にも押し寄せていました。

「ゲット・バック・イン・ラブ」「踊ろよ、フィッシュ」「蒼氓」など有名曲が収録されていますが、しかし、今となってもっとも印象深いのは、タイトルチューンの「僕の中の少年」です。

――♪人知れず想い出の中に住む少年よ さようなら もう二度と振り返る事はない

――♪ひとときの夢の中駆け抜けた少年は 今はもうあの人の眼の中で笑ってる

歌詞の内容は哲学的。テーマは「少年性」(Juvenile)。ちなみに「少年性」は、山下達郎の音楽全体のテーマだとも思います。

 

「少年性」に突き動かされる人生を

 

私はこの曲を「父親が自分の子どもに自らの『少年性』を託す」という話だと解釈しているのです。そう解釈できるようになったのは、1988年「10.19」の発売から時を経て、自分が一人息子の親になってからなのですが。

今、息子とその世代に伝えたいのは、こういう「少年性」です。

「大学生になって、時間を持て余してほしい。そして持て余した時間を埋め合わせるように、あれこれと好きなことに手を出してほしい」
「また可能な限り、行っておくべき場所に足を運んでほしい(私にとっての川崎球場『10.19』のように)」
「そして出来れば、年を取っても、学生時代に手を出したあれこれの中で、少しばかりの手応えがあるものについては、ギリギリまで粘って続けてほしい」

これこそが「少年性」だと思うのです。そう、あの頃、生硬な文章を書いた私が、未だに音楽や野球についての雑文を書いていることも「少年性」の仕業。

長く粘れば粘るほど分かってくることがあります。粘らなければ分からないこと、それは――。

小中学生の頃、王貞治や掛布雅之、落合博満になることを早々とあきらめたように、自分が一生かけても、山下達郎にも桑田佳祐にも、本多勝一にも渋谷陽一にも山田太一にも、そして、いとうせいこうにも絶対になれないということ。

それを知った瞬間、元・少年は、すがすがしい気持ちで「少年性」を誰かに託すことが出来る。

では、なぜ「少年性」にピリオドを打たねばならないのか。いうまでもありません。人生は有限だから。

1988年の秋に身売りを発表した「南海ホークス」のように。1988年のまさに「10.19」の日に身売りを発表した「阪急ブレーブス」のように。そして、この時期、体温や脈拍が頻繁に報道されていた昭和天皇のように――。

どうせ「少年性」に、そして人生にピリオドを打つのなら、すがすがしいほうがいいに決まっている。

川崎球場は、2000年3月に閉場、スタンドが解体されました。そして2023年、川崎球場時代から残されてきた最後の照明塔3基も、ついに撤去されました。

それでも、1988年10月19日の川崎球場を見つめた、いや、1988年10月19日を生きるすべての少年が抱きしめた「少年性」は、次の世代へと託されていくのです。

――♪ひとときの夢の中駆け抜けた少年は 今はもうあの人の眼の中で笑ってる

 

<今回の紹介楽曲>


山下達郎「僕の中の少年」

 

 

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Text:スージー鈴木