【スージー鈴木の球岩石】Vol.12:2001年のドジャー・スタジアムと鈴木茂「BAND WAGON」


スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第12回は、いよいよアメリカへ。同時多発テロが起きたあの日にアメリカで最高のベースボール・ツアーを体験するはずだったのが、なぜか最高のロックンロール・ツアー体験をしたという話です。

 
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イチローの200安打表彰シーン(1994年9月20日、グリーンスタジアム神戸)

 

1994年のイチローによる「足し算革命」

 

90年代中盤、イチローという1人の青年が球界に吹かせた新しい風について、若い方に理解してもらうのは、難しいかもしれない。その風の新しさ、猛烈さを端的にいえば――「イチローの登場によって私は、プロ野球を再度観るようになった」。

イチローが最初に脚光を浴びたのは94年に達成した記録「200安打」の達成によってだ(最終的にシーズン210安打を達成)。その後、記録は更新され、現在のところ日本プロ野球歴代最高記録は「216」。

 

・歴代順位.選手名(所属 年):安打数/試合数

1位.秋山翔吾(西武 2015年):216/143

2位.マートン(阪神 2010):214/144

3位.イチロー(オリックス 1994):210/130

4位.青木宣親(ヤクルト 2010):209/144

5位.西岡剛(ロッテ 2010):206/144

 

2010年が文字通り「当たり年」だったということが分かる。翌年から導入される、反発係数の低い「統一球」の使用前。ただ注目すべきは、試合数との関係だ。割り算(安打数÷試合数)をしてみれば、イチローの凄みに驚くだろう。

しかしイチローの凄みの本質は、割り算ではなく「足し算」だった。小川勝『イチロー革命』(毎日新聞社)から引用する。
 

――しかしイチローは、打率が下がろうと何だろうと、決して休まなかった。打率が4割に乗って、注目度が一気に爆発した九四年の六月下旬に「シーズン最後の打席、打率が.400でも、199安打なら打席に立ちます」と公言するほど、安打数に高い価値を置いていた(正確に言えば「置くように努めた」のだが)。


詳しくない方のために説明すると、シーズンの打率1位を「首位打者」として表彰するのだが、この打率というもの、一般には3割で好打者の証となる。ちなみに4割は到達不可能な数字で、日本プロ野球では過去に1人もいない。メジャーリーグでも41年のテッド・ウィリアムズを最後に約80年間、出ていない。

打率は「率」というくらいなので、割り算の指標だ(安打数÷打数)。だから当然下がることもある。だからシーズン終盤、首位打者になれる高打率に達したなら、残り試合を「休養」して、打率を維持することを、しばしば目にする。

しかしイチローは、打率より安打数という、下がることのない「足し算」を選んだのだ。そして日本プロ野球史上初の200安打を達成した。

割り算と足し算の違い。これはイチローによる新しい風の本質だったと思う。そして私は、彼の「足し算革命」に強く突き動かされた。

その頃、ヒットチャートと私の感覚がずれ始めるのに気付いた。「小室系」と「ビーイング系」がチャートを席巻し始めたのだ。イチローが200安打を達成する9月19日付オリコン週間チャートはこんな感じ。
 

・2位:恋しさと せつなさと 心強さと/篠原涼子 with t.komuro

・3位:マリア/T-BOLAN

・8位:こんなにそばに居るのに/ZARD

・11位:Boy Meets Girl/TRF
 

短冊型のシングルCDが飛ぶように売れる時代の到来。背景には、ドラマやCMとの巨大タイアップ、つまり資本の論理があった。

もう私は広告代理店に入っていた。冴えない若手社員として、悶々とした日々を送っていた。巨大タイアップに関連する「資本の論理」の末席にいたことになる。せめて趣味だけは、「資本の論理」と離れていたいと思った。

そこにイチローの風が吹いた。新しく猛烈な風に煽られて、私はまた、日本プロ野球のファンになった。YMOを聴いて、プロ野球とプロレスから決別してから、おおよそ15年が経っていた。

 

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イチローが200安打を打った瞬間(1994年9月20日、グリーンスタジアム神戸)

 

2001年9月11日、ロサンゼルスの朝

 

2001年、イチローがアメリカへ旅立った。バット1本引っ提げて、シアトル・マリナーズの一員として、メジャーリーグの大舞台に立つことになった。彼によって野球界に引き戻された者として、「これは生で観たい」と思った。

予想を超えて、初年度のイチローは打ちまくった。最多安打(242安打!)に首位打者、さらにはシーズンMVPになる。

「よし、アメリカへ行こう」――当時の(ウェブで公開していた)日記によると、我ながらほれぼれするような「西海岸ベースボール・ツアー」の行程を作っていた。

 

・9/10:ロサンゼルス着

・9/11~12:アナハイムでのエンジェルス=マリナーズを2試合観戦。

・9/14:サンディエゴに足を伸ばし、パドレス=ロッキーズ観戦。

・9/16:ロサンゼルス発

 

そして予定通り、9月10日にロサンゼルスに着いた。ロサンゼルス国際空港の駐車場で、一週間泊めてくれることになった日本人の知人に、ポルノグラフィティの最新シングル『アゲハ蝶』のCDをプレゼントした。

ここで確認のため、もう一度書いておく。これは2001年のことだった。つまり私がロサンゼルスに着いた翌日は「2001年9月11日」――。

翌朝、知人の家のテレビには、とんでもない光景が映っていた。知人家族と一緒に、あの光景が映るテレビを見たのは、生涯忘れがたい、決定的な記憶のひとつになる。

結局、旅行期間中のメジャーリーグ全試合が中止となった。

 

最高のロックンロール・ツアー体験

 

野球を、イチローを観られないのだからしょうがない。「ベースボール・ツアー」は「ロックンロール・ツアー」となった。

 

・桜田淳子『サンタモニカの風』(79年)で取り上げられたサンタモニカ・ビーチ

・イーグルス『ホテル・カリフォルニア』(76年)のジャケットで使われたビバリーヒルズ・ホテル

・ビートルズのライブで有名な野外音楽堂、ハリウッド・ボウル

 

しかし最高のロックンロール・ツアー体験は、ロサンゼルスの4日目に突然、思わぬシチュエーションでやってきた。

『GOD BLESS AMERICA』を爆音でかけるクルマが行き交う中、ロサンゼルスをさまよう日々にも正直、疲れ始めていた。そして、いつ帰れるかも分からないのだ。帰りの航空券も使える目処が立っていなかった。

そんな中、知人の買い物に付き合う形で、サンタモニカ・ビーチ沿いの道をレンタカー(白いカローラ)で走っていた。

助手席に乗っていた私は、ロサンゼルス絡みの音源ということで、深く考えずに家から持ってきた鈴木茂『BAND WAGON』(75年)のCDをかけた。車中に広がる1曲目『砂の女』のイントロ。

来た―――! 突然なんか、来た―――!

これが素晴らしかった。70年代の終わり、小6から中1の頃に、テレビや雑誌『POPEYE』で何とも見たような気のする、絵に書いたように突き抜けるような青い空、どこまでも見通せるような青い海と、鈴木茂のギターが、本当にほんとうに、ひとつに溶け合ったのだ。

最高のロックンロール・ツアー体験が、来た―――!

はっぴいえんどの中では、細野晴臣、大滝詠一、松本隆という猛者の中で、いちばん目立たない印象だった鈴木茂が、ギター1本かついで単身ロサンゼルスに乗り込み、リトル・フィートやら、タワー・オブ・パワーやら、現地の凄腕プレイヤーたちと、丁々発止わたりあったファースト・ソロ・アルバムの真価がやっと分かった。

「ギター1本かついで単身ロサンゼルスに乗り込み」は誇張ではない。鈴木茂『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード』(リットーミュージック)には、こう書かれている。
 

――企画段階ではクラウン・レコードからスタッフが付いて大勢で行くという話もあったんだけど、それは断った。もっと向こうのミュージシャンとダイレクトに交渉したかったからね。当時の日本からの海外レコーディングは大勢で行く「大名行列タイプ」か、一人で行く「特攻隊タイプ」か、なんて分類されてたけど、ぼくは間違いなく後者だった。

 

――日本から持って行った機材は、ギターがフィエスタ・レッドのストラトキャスター一本。エフェクターはMXRのダイナ・コンプくらいかな。


クルマの中では、同じくロサンゼルス関連のイーグルスやバッファロー・スプリングフィールドも(モーニング娘。も)聴いたが、『BAND WAGON』の方がより良かった。

そして思った。単にロサンゼルスで生み出された音楽をロサンゼルスで聴くからいいのではなく、この広大な西海岸にたった一人で乗り込んだ日本人の若者の音楽を、ここで聴くから胸を打つのだと。

さらに、ストラトキャスターをかついで西海岸に乗り込んだ鈴木茂青年、バットをかついで西海岸に乗り込んだ鈴木イチロー青年、この2人の鈴木くんが与えてくれる感動は、どこかでつながっていると、私、もう1人の鈴木青年は思ったのだった。

 

ドジャー・スタジアムで買ったマグカップ

 

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ドジャー・スタジアム(2022年オールスターゲーム前)

 

せっかくだからということで、ドジャー・スタジアムを見学しに行った。

厳しい検問を超えて、桁外れに広い駐車場に白いカローラを駐める。半旗を掲げている球場の中にも入ったが、広くて、見やすくて、雰囲気があると思った。が、当たり前のことだが、野球がなければつまらない。

アナハイム・エンゼルスのエジソン・フィールド、サンディエゴ・パドレスのクァルコム・スタジアムにも足を運んだが、同じような感想だった。

それぞれの球場で、ちょっとした土産を買って、帰ってきた。数日後、知人の尽力もあり、タイ航空の成田行き往復チケットが手に入って、人がごった返すロサンゼルス国際空港をくぐり抜けて日本に帰ることが出来た。

日本の食料自給率は下がる一方のようだが、日本の音楽シーンは自給自足状態になり、洋楽から距離を置いた「J-POP」というマーケットが確立した。いいことだと思う。

日本プロ野球も、忌まわしき球界再編問題を超えて、巨人一辺倒の偏りが是正され、マーケットが拡大した。すっごくいいことだと思う。

でもベースボールとロックンロールの母国、アメリカに乗り込み、猛者たちとわたり合った「日本人プレイヤー」のロマンは、今でも、多分これからも日本人ファンを魅了する。いうまでもなく、その最新版が大谷翔平だ。

そう考えたら、2001年のイチローは観ることは叶わなかったけれど、もう1人の「日本人プレイヤー」=鈴木茂の『BAND WAGON』をサンタモニカ・ビーチで聴くという、最高のロックンロール・ツアー体験が出来たのだから、それはそれで良かったのかも――。

と、自分を言い聞かせてかっこ付けても、やっぱり観たかったなぁ。2001年のイチロー……。

そんな気持ちを癒やすのは、ドジャー・スタジアムで買ったこのマグカップだ。お土産はマグカップに限る。あれからずっと使っている、今日も使っている。

 

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ドジャー・スタジアムで買ったマグカップ(現物)

 

ロサンゼルス・ドジャースのマグカップは、ベースボールとロックンロールに取り憑かれた私の、あれから22年間の人生、その毎日を全部知っている。アメリカに乗り込み、猛者たちとわたり合ったことなどない3人目の鈴木くんの人生にも、ちょっとだけロマンがあることも――。

このマグカップでコーヒーを飲むとき、遠くロサンゼルスから聴こえてくるのは、サンタモニカ・ビーチで聴いた鈴木茂『砂の女』の、あのイントロだ。

 

<今回の紹介楽曲>

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鈴木 茂『BAND WAGON』

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Text:スージー鈴木