【スージー鈴木の球岩石】Vol.8:1986年の大阪球場と尾崎豊「卒業」

スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第8回は、スージー氏が生まれて初めてプロ野球を観た、生まれ故郷のあの球場と、様々な音楽家とが交錯して紡いできた歴史の断片を一つひとつつないでく物語です。

大阪難波のど真ん中にそびえ立つ大阪球場(1990年)

初のプロ野球観戦は1975年の大阪球場
6月8日(木)の夜にNHK大阪で放送された『シリーズ 御堂筋線モダン建築でたどる大阪100年』という番組を、NHKプラスで見た。私は関東に住んでいるのだが、地方局の番組がネットで見られるなんて、いい時代になったもんだ。
お目当ては、1959年の日本シリーズ、4連勝で巨人をなぎ倒して日本一に輝いた南海ホークスの「御堂筋パレード」の映像である。監督・鶴岡一人に加えて、4連投4連勝したエースの杉浦忠、そして若き野村克也もいる。「南海ホークス史」、絶頂の瞬間――。
その映像の冒頭に映るのが、1950年、完成直後の大阪球場(大阪スタヂアム)の威容だ。大阪の中心地である難波(なんば)のど真ん中にそびえ立つ、南海ホークスの本拠地。
モノクロームの映像を見ながら思い出したのは、私が初めてプロ野球の試合を観たときのこと、初めて大阪球場に足を運んだときのことだ。
小3だった1975年の南海ホークス対近鉄バファローズ戦。ちなみに近鉄の本拠地は日生球場と藤井寺球場で、大阪球場にほど近い。森ノ宮にあった日生球場なんて、がんばれば大阪球場から歩いて行ける。今風に言えば「大阪ダービー」だ。
細かいことはすべて忘れたが、酒と煙草の臭いが強烈だったことは憶えている。また、試合の途中で、南海ホークスの阪田隆(さかた・たかし)という選手が代走で出てきたときに、「さかた」という名字から、当時大人気の漫才コンビ、坂田(さかた)利夫と前田五郎の「コメディNo.1」を思い出した酔客が「サカタぁ、お前、野村(克也)と組んで、コメディNo.2作れぇ!」という野次が飛び、それがドッと受けたという、極めてどうでもいいことだけは、充分リアルに記憶している。
大阪球場と言えば、南海ホークスと西城秀樹だった
音楽の話もしなければ。その頃、大阪球場は、野球だけでなく「音楽の殿堂」にもなりつつあったのだ。大阪球場に音楽を持ち込んだのは――西城秀樹。
1974年から10年間、西城秀樹は大阪球場での野外コンサートを続けた。2018年5月に彼が亡くなったとき、私は『週刊ベースボール』誌に、その偉業を記した。
――5月16日に亡くなった歌手・西城秀樹。告別式の祭壇は、今はなき大阪球場を再現したものであった。若い方には説明が要るのだろう。西城秀樹と言えば大阪球場なのである。西城秀樹は、日本人のソロ歌手として初めて、球場コンサートを開催した人で(1974年)、その球場こそが、大阪球場だったのだ。
その流れで記事の中で紹介したのは、彼の「ブルースカイブルー」(78年)という曲だ。
――西城秀樹「ブルースカイブルー」は告別式の出棺で流れた名曲。特に野球に関係する曲ではないが、式に訪れたファンが「今日はいい天気で『ブルースカイブルー』を思い出しました」という格別なコメントをニュースで聞いたので、ここで取り上げておく。
「ブルースカイブルー」は、1978年の歌謡曲の中ではいちばん好きだ。(おそらく)年上の既婚女性と別れる歌なのだが、「歌謡曲」という枠を超えた壮大なエンディングが素晴らしい。
――♪青空よ 心を伝えてよ 悲しみは余りにも大きい 青空よ 遠い人に伝えて さよならと
別れの曲なのだが、ジメジメした読後感を残さず、新しい人生に向かっていく主人公への希望がにじみ出る。
大阪球場でポール・サイモンが被った野球帽のこと
小学生から中学生になり、野球から音楽へと、だんだんと興味がシフトしていったのだが、1979年暮れからのYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)ブームは決定的なものだった。いよいよ音楽にはまり、野球やプロレスなんてダサいとまで思い始めた。理由は――「YMOの3人が野球やプロレスを観ているなんて思えなかったから」。
1977年のシーズン終了後に野村克也が監督の座を追われてから、南海ホークスはガクッと弱くなってしまった。ずっとBクラスが続いていた。それでもYMOに感化され、「野球なんてダサい、大阪なんてダサい。これからは東京の音楽や」とまで思い始めていた私は、南海の凋落など知らなかった。
とは言え、YMOも突如、アルバム『BGM』(81年)から難しい方向に行き出して、結局、私は周囲の音楽好きと同じく、「今の東京の音楽」ではなく「昔のイギリスの音楽」のビートルズを聴くことになる。
問題はビートルズの次だ。私はレッド・ツェッペリンとサイモン&ガーファンクルに向かった。「昔のイギリスの音楽」のレッド・ツェッペリンはともかく、サイモン&ガーファンクルに向かったことについては、今となっては少々唐突に思われるかもしれない。
いやいや、私が中3だった1981年9月19日に、サイモン&ガーファンクルはニューヨークのセントラルパークで、突如再結成コンサートを行い、大いに盛りあがったのだ。それが日本でもテレビ中継されて、ちょっとしたリバイバルブームが起きた。
お気に入りの曲は「アメリカ」(68年)。恋人2人が家出をする歌。ラストシーンは何度聴いても泣ける。最後のコーラスは特にいい。
――♪All come to look for America~みんな、アメリカを探しに旅に出たんだ
さらには翌1982年の5月、ニューヨークでの盛り上がりの余勢をかって、来日公演が決まったのだ。それも大阪球場で。
まだ高1だった私は行けなかったのだが、それでも「サカタぁ、お前、野村と組んで、コメディNo.2作れぇ!」の場所で、サイモン&ガーファンクルが歌うことに興奮し、コンサート関連の報道を追った。
後にそのときの写真を見て驚いたのだ。サービス精神だろう、ポール・サイモンはコンサートで日本の野球帽を被ったのだが、その帽子は南海ホークスではなく、阪神タイガースのものだったのだ。大阪球場にもかかわらず――。そりゃないだろう。
尾崎豊「卒業」を聴きながら、浪人を決めたあの日
1985年春は高校卒業を間近に控えた春。ある日、神戸のサンテレビでネットされていたテレビ神奈川制作『ミュージックトマトJAPAN』という番組で流れた「卒業」という歌のPVに衝撃を受けた。歌うは尾崎豊というシンガーソングライター。
その春は「卒業」という歌が多数リリースされ、一種の「卒業戦争」とでもいうべき様相を呈していた。斉藤由貴、菊池桃子、倉沢淳美、尾崎豊。それぞれの作詞家は、松本隆、秋元康、売野雅勇……そして尾崎豊。
アイドルと比べてもしょうがないが、尾崎の言葉は、やはり別格だった。特に、エンディングで炸裂する「♪あと何度 自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう」は、コード進行の変化も相まって、胸に突き刺さった。
私自身、高校を「卒業」するのが怖かった。高校時代の仲間と離れるのが嫌だったし、万が一大阪から離れるのなんて耐えられなかった。また、それ以上に「本当の自分」にたどりつくのが怖いという、一種のモラトリアム状態にもなっていた。
あと、そもそも一浪は許されるだろうということで、某公立大学に受かったにもかかわらず入学辞退して、難関の京都大学を目指すことにした。より高みへという気持ちと、「卒業」を先延ばしたいというモラトリアムな気持ちが相まった結果として。勝手を許してくれた親には感謝しかない。
大阪球場からの卒業、大阪からの卒業
予備校に行くことにした。校舎は大阪球場の近くだ。しかし、そこがプロ野球の本拠地だと分からないほど、日々閑散としていた。私自身も勉強と音楽でそれどころでない。南海ホークスが何位かなど知る由もない。それに1985年と言えば、阪神タイガースが大躍進の年だ。ポール・サイモンのご利益もあったのか。
浪人生活で悶々としていた8月の日曜日。模擬試験で予備校に向かった。試験を終えて帰宅するときにたいそう驚いたのだ。大阪球場に若者が大挙して集まっているではないか。私と同じ年頃の若者が、私とはまるで違うイキイキとした目で大阪球場に向かっている。
尾崎豊のコンサートだった。
「『卒業』のあいつかぁ……」と思いながら、私は場違いな空気を感じて、通り過ぎた。入試まであと7ヶ月。あとたった7ヶ月で「卒業」できるのかと思うと、私は強烈な不安感に襲われた。その秋、阪神タイガースは日本一に輝いた。対して南海ホークスは8年連続のBクラスに沈んだ。
翌1986年の3月、私は京都大学に落ちた。何度かの模擬試験で難しいという予感はあったのだが、やはりショックはショックだ。それでも、予備校には報告しに行かねばならない。
落ちたこと、唯一受かった東京の大学へ行くこと、だから大阪を離れることになるということを、淡々とチューターに報告した。チューターは淡々と受け止め、事務室前の壁にあった東京の大学の合格欄に私の名前を貼り出した。そして私は、自分の名前が貼り出されるのを確かめて、そそくさと自宅への帰り道を進んだ。
難波の地下道に降りる前、私は大阪球場を見上げた。
――♪あと何度 自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう
尾崎豊のあのフレーズが浮かんだ――「さぁ卒業だ。本当の自分にたどりつかなければ」。
思えば西城秀樹の「ブルースカイブルー」もサイモン&ガーファンクル「アメリカ」も旅立ちの歌だ。年上の女性との許されない愛からの旅立ち、恋人とアメリカを探しに行く旅立ち。
そして尾崎豊「卒業」は、私にとって、東京への旅立ちに向け、大阪を「卒業」する歌となった。校舎のガラスなんて割ったことなどなかった私の「卒業」――。
そして南海ホークスも……
それから2年後の88年シーズン終了後、南海ホークスは、スーパーマーケットのダイエーに身売りして、福岡に本拠地を移転することが決定した。結局、野村克也が去ってからの南海は、ずっとずっとBクラスのままだった。
あの日本シリーズで4連投・4連勝したエース、杉浦忠は、シリーズからまるまる30年が経とうとしている南海ホークスの監督だった。そして大阪球場で行われた最終戦セレモニーでこう言い放った。
「南海ホークスは不滅です。行って参ります」
しかし、あれから35年経ったにもかかわらず、ホークスは大阪に帰ってこない。それどころか、びっくりするくらいに強い常勝球団「福岡ソフトバンクホークス」となって、福岡の街にしっかりと根差している。そして私も、あれからずっと関東に居着いてしまった。そして、あの大阪球場もとうの昔に取り壊された――。
ホークスも私も、どうやら大阪を「卒業」したようだ。どうやら「本当の自分」とやらにたどり着いてしまったようだ。
尾崎豊「卒業」
西城秀樹「ブルースカイ ブルー」
サイモン&ガーファンクル「アメリカ」
Text:スージー鈴木