【スージー鈴木の球岩石】Vol.7:2022年の札幌ドームと中島みゆき「ファイト!」


スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第7回は、中島みゆきの超名曲を聴きながら、昨年で本拠地としての使命を終えた札幌ドームと、ファイターズの若手選手について、思い出を綴ります。

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万波中正in札幌ドーム(2022年5月21日)

 

『わかれうた』『悪女』の歌い出しの衝撃

 

大阪に生まれた私にとって、北海道は遠い遠いところだった。遠い遠いところ過ぎて、どんなところなのか、どれくらい広いのか、どれくらい寒いのか、まったくイメージできなかった。

そんな私が、北海道と小指一本つながる日がついに来た。音楽を通して。

1977年の秋、小5の私は友だちの家で、ポータブルのレコードプレイヤーを囲んでいる。集まっているのは男子ばかり、全員で3人だったか、4人だったか。家主の友だちが「今、これが流行ってんねん」と言って、買ったばかりのドーナツ盤をプレイヤーに載せる。

流れてくるのは、これ以上物哀しいイントロはないという感じのイントロ。そして、あの独特な歌声が流れてくる。

――♪途(みち)に倒れて だれかの名を 呼び続けたことがありますか


その年の9月に発売され、売上枚数76.9万枚の大ヒットとなった中島みゆき『わかれうた』だ。小5男子が、きょとんという顔をしながら、ぐるぐると回るドーナツ盤を見つめている。

聴き終わった後、友だちが話し合う。

「分かったか?」

「分からん。けど暗いことは分かったわ」

「鈴木はどう思う?」

と聞かれて、私は思ったままに答えた。

「大人の女って『途に倒れて だれかの名を 呼び続け』るんか? すごいな」

その中島みゆきが北海道出身であるということを、後にすぐ知った。北海道から遠い遠い大阪の少年と、北海道との初接点は、それはもう強烈なものだった。

1982年春、高校生になって初めての遠足で、クラスメイトがギターで歌ったのが『悪女』だった。前年の81年秋にリリース、『わかれうた』を超える83.3万枚を売り上げたが、当時ビートルズ少年だった私には聴こえていなかった。だから、その遠足が私にとっての「悪女デビュー」。

――♪マリコの部屋へ 電話をかけて 男と遊んでる芝居 続けてきたけれど


「ひーっ!」――と心の中で驚いた。「大人の女って『電話をかけて 男と遊んでる芝居 続け』るんか? すごいな」

そして、こうも思った――「俺は一生、中島みゆきを聴かへんような気がする」。

大人の女が実際に、「途に倒れて だれかの名を 呼び続け」たり、「電話をかけて 男と遊んでる芝居 続け」たりするかどうかはともかく、こんな湿った世界観は、今必死に聴いている洋楽ロックの乾いた世界観と相容れない。だから私は、一生、中島みゆきを聴かない、というか、中島みゆきを聴く人生なんて歩みたくない――。

その後、大学生になっても、私にとって北海道=中島みゆきであり、そして、中島みゆきに代表される北海道は、遠い遠い関係性であり続けた。

 

すすきのでの『ファイト!』との出会い

 

サラリーマンは札幌が好きだ。

1990年の春、私は広告代理店に勤め始めた。数年経った頃、北海道と関係の深い取引先の担当となり、ついに札幌出張が実現した。北海道の大地との出会いだ。

おかしなことに、いつもは不機嫌そうな顔をしている上司や先輩たちも、札幌出張となると明らかに色めき立つのだった。行って分かったことだが、それは日本有数の歓楽街である「すすきの」の魅力からだった。

そして私も、中島みゆき以外の北海道と出会う。何度となく、酔っ払った身体にラーメンを詰め込んで、札幌出張となると色めき立つサラリーマンに生まれ変わった。

90年代後半、度重なる札幌出張のある夜、すすきののカラオケパブのような店で、不思議な歌を聴いた。

――♪あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのや


なんだこれは? と思って、カラオケの画面を見ると、そこには「中島みゆき『ファイト!』」と書かれている。調べたら、146.6万枚の特大ヒットとなった『空と君とのあいだに』のカップリング(厳密にはいわゆる「両A面」)の曲。店員に聞いたら、すすきのでは歌う人が多いのだという。

――♪昨日電車の駅 階段でころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い


私は10何年ぶりにまた「ひーっ!」と心の中で驚いた。すごいな、この曲。この陰惨な曲を、すすきのの酔客はどんな想いで歌っているんだろう。そう思いながら、画面の中で、これでもかこれでもかと出てくる陰惨な文字列に腰を抜かした。

そしてやっぱり、相変わらず、やっぱり「中島みゆきを聴く人生を歩みたくない」と思っていた。思っていたのだけれど――。

 

札幌ドームがファイターズの本拠地に

 

2001年、「札幌ドーム」なる建物が完成した。その頃、ある意味音楽よりも野球にハマっていた私は、これは行ってみたいと思った。出張のついでに寄ってみようと心に誓った。

翌2002年、西武ライオンズ(当時はまだ「埼玉」が付かない)が、札幌ドームで対千葉ロッテマリーンズの開幕戦を開催した。なんでも札幌をサブフランチャイズにする計画があったからだという。残念ながら、その試合には行けなかったのだが、7月14日にもライオンズ対マリーンズが札幌ドームで行われるというので、駆け付けた。

試合は10回表にサブローが満塁ホームランを打ち、マリーンズが7対3で勝利するという劇的なもので、私は勝手に、札幌ドームと自分との相性の良さを感じた。そしてすすきのに繰り出し、魚料理、確か、きんきの煮付けを食べながら呑んだ日本酒は、最高に美味かった。生涯忘れられないレベル。

その後、東京ドームを本拠地としていた日本ハムファイターズ(当然「北海道」はまだ付かない)が、札幌への本拠地移転計画を発表した。その計画はプロ野球ファンを驚かせ、賛否が分かれる空気になったのだが、そんな中、私はある人の発言を知って、完全に移転賛成派に回ることにした。

その人の名は、西武ライオンズのオーナー(当時)の堤義明。
 

「歴史的に本州、四国、九州の日本中の人が開拓してきた土地。現在も北海道と各地との交流があるし、プロ野球としてはいろんなチームが来て主催試合を持った方がいい」(日刊スポーツ/2002年3月31日)


自チームのサブフランチャイズ化の目論見が崩れるからか、ライオンズのオーナー、つまり最高責任者が、ある1つの球団の本拠地としない方がいいと言い放ったのだ。

私は、プロ野球界の要諦(ようてい。物事の肝心かなめのところ)は「フランチャイズ制」だと思っている。フランチャイズ=本拠地=「おらが町」のチームが、そこに住んで生活する人に誇りを与えることだと考える。

だから「ある1つの球団の本拠地としない」ということは、そこに輝かしい誇りが発生しないことになる。せっかくの札幌ドームが、単なる顔見世興行球場になってしまう。そんなんなら、ファイターズ1球団の本拠地になった方がいいよ。絶対に。

でもまぁ、こんな話も今となっては笑い話だろう。みなさんご存じのように、ファイターズの札幌移転は大成功して、そしてエスコンフィールドという、さらなる挑戦へと進んでいったのだから。

 

ある作文とマネジメントの素晴らしさ

 

「北海道日本ハムファイターズ」はいきなり強くなって、移転3年目の2006年に早々と日本一にのぼりつめた。

私はこの成功の基は、ひとつの文章だったと信じている。文章、それも「作文」だ。ファイターズ札幌移転にあたって佐藤光波さんという小1の女の子が書いた作文。今見てもちょっと目頭が熱くなる。少なくとも、平成に書かれた、野球に関するすべての文章の中で、もっとも豊潤なものと言えるだろう。その作文を織り込んだ新聞記事を、少々長くなるが引用する(引用にあたって改行を省略する)。
 

――<わたしは、やきゅうができないけれど、なんだかとってもうれしいな。わくわくするし。どきどきするよ。ぴょんぴょんとびはねたいよ。ファイターズがきたんだよ。はるかぜにのって->こう始まる文章がある。書いたのは札幌市の佐藤光波(みなみ)さん。北海道日本ハムファイターズは2004年に札幌に本拠地を移す際、道内の子どもたちから作文を募った。最優秀賞になったのが当時7歳の佐藤さんの作品だった。佐藤さんは、同年4月の道内初戦の始球式の大役を務める。おさげ髪の佐藤さんがマウンドに向かう際、本人が読み上げた録音が札幌ドーム内に流れた。<-ようこそ、わたしたちのすむほっかいどうへ。きてくれてどうもありがとう。うれしいな>歓迎の気持ちが約300字の中に素直に表れていた。それは多くの道民の思いも代弁していたように思う。開幕投手の金村暁さんは涙が出そうになっていたそうだ(北海道新聞/2022年10月25日)


先に書いた「本拠地=『おらが町』のチームが、そこに住んで生活する人に誇りを与えること」という、少しばかり概念的な能書きに対する、これぞ見事な翻訳。

さらにもうひとつ、ファイターズの成功要因としては、ピッチピチの高校卒の若者が、物怖じせず活躍したことにもあると思う。つまりは活躍させたマネジメントの成果だ。

2006年の日本一には、20歳のダルビッシュ有(東北高校)、25歳の森本稀哲(帝京高校)、同じく25歳の田中賢介(東福岡高校)がいた。同じく2016年の日本一には、22歳の大谷翔平(花巻東高校)、24歳の西川遥輝(智辯和歌山高校)、25歳の中島卓也(福岡工業高校)がいた。

とりわけダルビッシュ有と大谷翔平、この2人の背番号11番を丁寧に育成して、そして世界に飛躍させたことは、本人たちに加えて、ファイターズのマネジメントや育成スタッフが劇的に優秀なことの最高の証明だ。2019年以降Bクラスが続いているけれど、エスコンフィールド含め、マネジメント陣は、もっと大きな未来を見据えているように思う。

 

やっと分かった『ファイト!』の意味

 

相前後して、私も年を取って、子供も出来た。一人息子を連れて、何度となく札幌ドームに観戦旅行をした。息子は野球には詳しくはないのだが、札幌ドーム内の展望台は好きなようだった。まだ10歳過ぎだった息子が、試合中、展望台に一人で向かって撮影したこんな写真を、私は未だにスマホの壁紙にしている。

 

スージー鈴木の球岩石_02

 

そして同じく相前後して、これも年を取って、さらには子供も出来たからか、あれほど苦手だった中島みゆき『ファイト!』の歌詞が分かってきたのだ。

――♪あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのや

――♪昨日電車の駅 階段でころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い

この曲は、ここでびっくりしていたらダメ。曲の前半に出てくる、学歴や年齢、出身地などに縛られる「弱者」の心情は、単なる前提であって結果ではない。

――♪ファイト!  闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう ファイト!冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ


まずはここ。弱者が(たぶん)鮭になぞらえられ、(たぶん)北海道の川をのぼっていく。しかしここもまだ前提。じゃあ結果とは何だ。それは。

――♪ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく 諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく


ここだ。弱者の生まれ変わりである「小魚」が、自らを弱者たらしめていた「鎖」を振りほどいて、ベーリング海やアラスカ湾の方向にぐんぐん向かっていくイメージが広がる。

ここだ。ここだよ。これが『ファイト!』、これが中島みゆき、そしてこれが北海道、なんだよ!

 

そして、万波中正のこと

 

先に書いたように、ここ数年のファイターズは低迷気味だが、ピッチピチの若者が頭角を現す予感に溢れている。私の推しは万波中正(まんなみ・ちゅうせい)だ。コンゴ人の父親と日本人の母親を持つ、四字熟語のような名前を持つ23歳の若者は、何かとんでもないことをやらかしそうな雰囲気に溢れている。

横浜高校時代から観ている。2019年8月14日の一軍デビュー戦(東京ドーム)も観た。そして昨年の6月18日、もしかしたら私の札幌ドームでのラスト観戦となるかもという試合(対マリーンズ戦)にも、万波中正は7番ライトでスタメン出場した。

雰囲気を漂わせて22歳(当時)の万波中正が打席に立つ。私は心の中で歌う。

――♪ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく 諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく


万波中正が、きらきら光りながら、海の中をぐんぐん進んでいく。ファイターズの小魚たちと中島みゆき『ファイト!』に思い入れた私と北海道との関係性はもう、近くて太くなっている。

 

<今回の紹介楽曲>

スージー鈴木の球岩石_03


中島みゆきアルバム『大吟醸』より「わかれうた」「悪女」「ファイト!」

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Text:スージー鈴木