【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第11回 James Brown「Cold Sweat」①

ジェームズ・ブラウン(James Brown 以下“JB”とします)は異名の多い人です。“ソウルのゴッドファーザー(Godfather of Soul)”、“ソウル・ブラザー・ナンバーワン(Soul Brother No.1)”、“ミスター・ダイナマイト(Mr. Dynamite)”など。“ショービジネス界で最も忙しい男(the Hardest-Working Man in Show Business)”なんてのもあります。まあ、それだけ彼が多くの人々から敬愛されていたことの証でしょうが、呼び名はどうあれ、紛れもなくJB最大の功績は「ファンク・ミュージック(funk music)」という音楽スタイルを生み出したことです。

1964年にリリースされた「Out of Sight」という曲がその元祖で、翌65年の「Papa’s Got a Brand New Bag」で確立したと言われますが、私としては、ここはまだ発展途上で、1967年の「Cold Sweat」こそが「ファンク」の概念を打ち立てた、という説に与したいと思います。その根拠と「Cold Sweat」が生まれた「理由」について考えてみました。

 

ファンクへの道

 

「ファンク」は、音楽のジャンルというより、リズムの様相を表す名前です。言葉で説明するのは難しいですが、小節の頭(ダウンビート)に力点を置くのが特徴で、音の強弱の波がはっきりしている。4拍子の4つの4分音符をほぼ均等の強さで演奏するディスコやテクノとは、真逆のリズムです。ディスコやテクノが“機械っぽい”としたら、ファンクは極めて人間っぽい。さもありなん「funk」とは元々「人の体臭」というような意味なんです。

その後、ファンクはブラック・ミュージックのひとつの重要なファクターになっていきます。“Sly & the Family Stone”、“Earth, Wind & Fire”、“Parliament”、“Funkadelic”、Michael Jackson、Princeらの音楽のベースはファンクですし“Tower of Power”、“Average White Band”、“Talking Heads”、“Red Hot Chili Peppers”など、黒人以外のアーティストたちも大きな影響を受けています。

もちろん、JBがそれを始めた60年代後半には「ファンク」なんていう呼び方はありませんでした。「ファンキー」は既に50年代のジャズで使われていたそうですが「ファンク」という名称が広まるのは、ジョージ・クリントン(George Clinton)の「P-Funk」(Parliament-Funkadelic)が活躍する70年代以降のようです。

日本ではもっと遅かったようで、たとえば、私が持っている“Sly & the Family Stone”『Stand!』(1969)のLPは1972年に再発された国内盤なんですが、ライナーノーツに「ファンク」という言葉はまったく登場しません。このライナーノーツはなぜかスペシャルで、越谷正義氏、八木誠氏、今野雄二氏ほか6人もの人たちが、それぞれ1ページずつ記事を寄せています。合わせるとかなりの分量ですが、誰も「ファンク」という言葉を使っていません。それどころか「ファンキー」や「グルーヴ」といった言葉さえひとつもないのです。スライの音楽を「ファンキー」も「グルーヴ」も使わずによく説明できるな、と妙なところに感心してしまいますが「独自のリズム・パターン」とか「ポリフォニックなリズム」などという表現で乗り切っています。またジャンル的な切り口としては「ブラック・ロック」という言葉を2人が使っています。
ともかく、今なら「ファンク」と言えばだいたいイメージできる音楽が、その名称がまだなかったために、なんとか伝えようと苦心している様子が想像できるし、それでも、その新しさの最大の要因はリズムにある、ということはよく伝わってきます。

JBもとにかく、それまでの様々な音楽のリズムに飽き足らなかったのでしょう。もっと激しい、身体も心も踊り出すようなリズムを求めて、試行錯誤したんだと思います。

 

その歌の理由_01

 

数々のハードルを乗り越えて

 

JBは1933年5月3日、米国サウスカロライナ州で生まれました。当時の大部分のアフリカ系アメリカ人と同様、貧乏でした。父親は働き者だったようですが、安い給料でこき使われるような仕事しかなかったのです。またありがちなことに、両親は離婚して母親は出ていき、伯母とともにジョージア州オーガスタの売春宿に移り住む。子どもながら、生活のために売春宿のポン引き、もぐりの靴磨きで小銭を稼ぎ、それでも足らずに盗みに手を染める。「服装が不適切」という理由で学校から家に帰されたそうです。服が買えなくてズタボロな格好をしていたんですね。その時のみじめな思いを想像すると涙が出てきます。

車上強盗を重ねているうちにとうとう逮捕され、1949年、16歳で少年矯正所に収監されました。8年以上の刑でしたが、そこで、後に“The Famous Flames”というバンドを組むことになるジョニー・テリー(‎Johnny Terry)や、生涯の相棒となるボビー・バード(Bobby Byrd)(彼は囚人ではなく、囚人対外部の野球ゲームで知り合う)と出会い、音楽に目覚め、模範囚となり、1952年には条件付きながら退所できました。

米国で黒人に生まれついて、成功しようと思ったらスポーツかエンタテインメントしかないという時代、だけどもちろん努力だけでなんとかなる世界ではありません。JBは当然、音楽教育などまったく受けておらず、5歳の頃に父親に買ってもらったハーモニカと、住んでいた売春宿の娼婦とつきあっていたタンパ・レッド(Tampa Red)というブルースマンから教わったギター、音楽経験と言えばその程度でしたが、天から授かった特別な「声」と、恵まれた身体能力による鮮やかな「ダンス・ステップ」が、彼の人生を泥沼からすくい上げました。

退所後、バードのバンドに加わり、それが“The Flames”から“The Famous Flames”と名を換えるうち、JBのパフォーマンスは人気を高めていきます。初めてのオリジナル・ソングは“オリオールズ(The Orioles)”の「Baby Please Don't Go」から発想し、テリーといっしょにつくった「Please, Please, Please」でした。しかし、そのデモテープをレコード各社に送っても、軒並み無反応。唯一気に入ってくれたのが「King Records」のラルフ・バス(Ralph Bass)で、彼のプロデュースの下、1956年2月にレコーディングしました。しかし、Kingの社長、シド・ネイサン(Syd Nathan)は「なんだこれは!“please”ばかりじゃないか。こんなクズ曲が売れるわけない!」と、ラルフを馘首にしてしまいます。しかし、シングルは3月に発売、多少時間はかかるものの、秋にはR&Bチャート6位にまで上りミリオンセールスを達成、ラルフも無事に復職できました。

ただ、喜びも束の間、その後2年間はまったく鳴かず飛ばずで、ネイサンは「もう二度とレコーディングはさせない!」と怒ります。

1945年にKing Recordsを設立したシド・ネイサンはユダヤ系白人。「Chess Records」のレナード・チェス(Leonard Chess)などもそうですが、ユダヤ系がビジネスを回して黒人音楽で商売する、という座組が米国ではとても多いですね。

その後もネイサンは、JBのやろうとすることに、一々反対します。JBが初めてR&Bチャートの1位をゲットしたのは「Try Me」(1958年10月発売)という曲ですが、これもネイサンは気に入らなくて“レコーディング禁止令”を解こうとはせず、しょうがないのでJBが自費でプロモーション盤をつくり、DJに配りラジオでかけてもらうと、注文が殺到して、やっと発売に至りました。

JBの存在を全国的にしたのは、リズム&ブルースの聖地「アポロ劇場」でのライブのアルバム化『Live at the Apollo』(1963年5月発売)ですが、この提案をした際もネイサンは大反対。当時はシングル中心市場、特にライブ・アルバムは少なかったので分からないでもないですが、結局JBが5,700ドルの経費を自身で負担して制作。発売すると、見事全米ポップチャート2位の大ヒット。

こういう状況にはむしろ周りの人間が反応しまして、63年末に雇い入れた弁護士はKingとの契約を破棄し、Mercury Recordsと契約を交わしますが、ネイサンはまたまた激怒して訴訟という手段に出ます。

 

その歌の理由_02

 

元祖ファンクはどれだ?

 

この間に、Mercury RecordsのSmashレーベルからリリースされたのが「Out of Sight」でした。

冒頭で触れたように、この「Out of Sight」が「元祖ファンク」とされていて、JB自身も『自叙伝』の中で「変化の始まり」と語っています。変化とはつまり、新しいリズムです。自分にとって最も重要なものはリズムであり、リズムが自分の強みでもある、とJBは感じていました。そして、ドラム、ベースはもちろん、ギター、ホーン、ボーカルなどすべての楽器を、新しいリズムの生成のために再構成しようと考えたのです。ダウンビート(小節の頭)に強いインパクトを持つ、まだ名も無いリズムでした。

1964年10月、裁判所は「Mercuryはこれ以上、JBのボーカル・レコードを発売することを禁ずる」という、ネイサンに有利な命令を下しました。Mercuryはさらに争う姿勢でしたが、JBは次の自信作「Papa’s Got a Brand New Bag」を録音すると、そのテープをこっそりネイサンに送りました。

JBとネイサンの関係性はなかなか面白くて、水と油のように見えて、実はJBはネイサンのことを個人的には憎んでいませんでした。そのうち、ネイサンが反対するのを内心面白がりながら、言い争ってる、というような関係になっていきます。人に対して、白人であっても、JBにはそういう懐の深いところがありました。

結局、65年6月発売の「Papa’s ~」からJBはKingに戻るのですが、ネイサンはこの曲も嫌ったそうです(笑)。しかし「Papa’s 〜」は初めてポップチャートのベスト10に入り(8位)、国際的なヒットにもなりました。さらに続いて、10月にリリースした「I Got You(I Feel Good)」もポップチャート3位、R&B1位のヒット。この2曲は「Out of Sight」で始まった「変化」を強化発展させたものでした。強化の大きな要因になったのは、新たにバンドに加わったギタリスト、ジミー・ノーレン(Jimmy Nolen)の、鑿で木を穿つようなプレイでした。

さて、本人も「Papa’s 〜」で「完成した」と言い、その後67年7月にリリースした「Cold Sweat」については、なぜか多くを語っていないので「Papa’s 〜」が最初のファンク・ミュージック作品としてもなんら支障はないのですが、実は「Cold Sweat」にはもう一段階、決定的に進化しているところがあるのです。

…つづく

 

参考文献

・『俺がJBだ! ジェームズ・ブラウン自叙伝』

James Brown/Bruce Tucker 著
山形浩生/渡辺佐智江/クイッグリー裕子 訳
文春文庫(2003年9月発行)

※オリジナルは『James Brown: The Godfather of Soul』
James Brown/Bruce Tucker 著
マクミラン出版社(1986)

 

 

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