【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第14回 Queen「Bohemian Rhapsody」②

どこが変なのか?(続)

 

“Queen”の「Bohemian Rhapsody」は、めちゃくちゃ特異な曲なのに、あれだけの大ヒットになったことの“理由”を考えています。

前回列挙した特異ポイント

①シングルにしては相当長い

曲の構成がふつうじゃない

音楽性がロックの文脈からかなり遠い

訳が分からない歌詞

ストリングスもホーンセクションもシンセも使ってない

コーラスがすごすぎる

……の④、歌詞の話の続きです。起伏に富んだ物語のような詞なんだけど、全体の意味がどうもよく分からないということで、様々な解釈が飛び交いました。「フレディ・マーキュリー自身の、バイセクシャルであることへの心の葛藤を表している」などという穿ったものから「単にランダムな韻を踏んだ無意味なもの」だとするものまで。一方、フレディ本人は歌詞について、何も語ろうとはしませんでした。
「詩」というものは、言葉の直接の意味だけではなく、作者が属する国や民族や集団の、様々な文化・伝統・環境・習慣などに、多かれ少なかれ繋がっているはずなので、日本語以外の歌詞をちゃんと理解することは私には難しい。それを前提にしつつですが、私はこの歌詞を、フレディの心の葛藤だとも、だけど単なる言葉遊びに過ぎないとも思いません。
フレディは空想物語が好きなんです。Queen初期の彼の作品はほとんどが、ドラゴンや妖精が飛び交う神話・ファンタジーの世界です。ただ、たとえば“Earth, Wind & Fire”みたいな、分かりやすいものではなく、皮肉や諧謔に満ち溢れた(それこそが神話の特性だと思いますが)イマジネーションの表出なので、ともすれば彼の個人的な思いに結びつけられがちなのでしょう。
「The Fairy Feller's Master-Stroke(フェアリー・フェラーの神技)」(1974)という曲など、リチャード・ダッド(Richard Dadd)という英国の画家が描いた病的な絵画からフレディが発想した「妖精フェラーがクルミを割るのを見物しようと、女王やら政治家、教育者、好色家たちが集まってくる」という妙ちきりんな物語ですが「Bohemian〜」の詞の世界も、この延長線上にあると思っています。
オペラ好きのフレディにとって、歌詞に物語を持ち込むことはごく自然なことだったでしょう。創作時の精神状態は関係ないとは言いませんが「Bohemian〜」はあくまで空想世界に遊びつつ、言葉の意味よりリズムや響きに重きを置き、エンタテインメントに徹した歌詞だと、私は思います。
ただそれまで、ロックと言えば「単純で分かりやすいリズム重視な歌詞」か「歌い手の体験と気持ちをもとにした叙情的な歌詞」のいずれかと、ほぼ決まっていたので“保守的”なリスナーたちは「Bohemian〜」の歌詞をどう受け取っていいのか、分からなかったのでしょう。

⑤ストリングスもホーンセクションもシンセも使ってない & ⑥コーラスがすごすぎる

Queenの音楽はそのサウンドづくりの緻密さも、大きな魅力の一つです。初期のマネージメント会社『トライデント』はそもそもレコーディング・スタジオの会社だったので、彼らの1stアルバムは、そのスタジオの空き時間を利用してつくられましたが、それでもまったく妥協することなく、1972年夏から始めて、一応終わったのが11月末、しかし納得がいかず、さらに手直しを加えて翌73年1月にやっと完成、という完璧主義ぶりでした。最初からそんな調子ですから、軌道に乗ってきたこの頃には、もうスタジオ時間など気にする必要もなく、徹底的につくりこんだのでしょう。「Bohemian〜」の収録アルバム『A Night at the Opera(オペラ座の夜)』は当時、最も制作費がかかったアルバムだったそうです。
そもそも3つの曲を合体させ、5つのパートを持つ曲ですから、起伏に富んだ展開であることは当然ですが、この曲のサウンドはよくできた遊園地のアトラクションのように、それらを目まぐるしく、だけど滑らかに、驚きと涙と笑いを誘い、感動をもたらしながら一気に駆け抜けます。
それを、ふつうならディズニー映画のサウンドトラックのように、ストリングスやホーンセクションなどを駆使するであろうところ、ドラムス、ベース、ギター、ピアノというロックの基本構成楽器、いわゆる「4リズム」と肉声のみで、シンセサイザーはおろかオルガンすら一切使わずに、構築しきっているところがすごい。「音楽性がロックの文脈からかなり遠い」ことをポイント③に挙げましたが、演奏形態は逆に、まったく「ロックの文脈」そのものなんです。一筋縄ではいかないバンドです。
よく知られたことですが、Queenの初期のアルバムには「No synthesizers!」と記載されていました。彼らが初めてシンセを使ったのが、1980年5月30日にリリースした16thシングル「Play the Game」です。この曲が収録された8thアルバム『The Game』からはシンセやドラムマシーンを頻繁に使うようになり、昔からのファンが憤慨するほど、ドラスティックに音づくりの方向性が変わってゆくのですが、ともかくそれまではかたくなに、4リズムのみ、演奏もメンバーの4人だけ、ということにこだわり抜きました。
それをやると、並のバンドなら、ともすれば物足りなさが出てしまったりするものですが、彼らの場合、ベースのジョン・ディーコンを除く3人の極上のコーラスワークとブライアン・メイの多重録音によるギター・アンサンブルがそれを払拭しました。それらの華麗なハーモニー感は、ストリングスやホーンやシンセをまったく不要にするほどでしたから。

ハードロックからオペラまで、4人だけでこれほど多彩なサウンドを構築できたのは、それぞれの演奏力・歌唱力の高さはもちろんですが、誤解を恐れずに言うと、彼らが高学歴者であったこともその要因のひとつなのではないか、と私は考えています。フレディはアート系の大学ですが、ブライアン・メイは大学院まで進んで宇宙工学を学び、音楽活動で中断したあとも天体物理学の研究で博士号を取得したほどの勉強家だし、ドラムスのロジャー・テイラーは歯科を学んだ後に生物学で学士号、ジョン・ディーコンはロンドン大学のチェルシー・カレッジ電子工学科を首席で卒業しています。
「高学歴者」は「頭が良い人」とイコールではありませんが「勉強が好きな人」であることはたしかでしょう。勉強が好きな人は、じっくり考えたり、マメにコツコツやることが得意です。スタジオ作業を好み、アレンジに凝り、完璧なサウンドを追求しつつ、しかも4人だけ&4リズムだけであることや、コーラスやギター・アンサンブルという特技を自分たちの“売り”として打ち出す……いかにも勉強好きな人がとりそうな行動ではありませんか。たとえばボブ・ディランはとても「頭が良い人」だと思いますが、レコーディングではほとんど“一発録り”、時間をかけるのが好きじゃなかったそうです。彼はミネソタ大学に入学したものの、半年くらいで行かなくなり、中退しています。勉強はあまり好きじゃなかったと思います。

 

その歌の理由_01

 

エンタテインメント重視の姿勢

 

こうして観察してみると「Bohemian Rhapsody」の特異さは、何も特異なものをつくろうとしたわけではなく、彼ら(特にフレディ)がバンド結成当初から目指していたものを追求して辿り着いたひとつの完成形が、ポップミュージックの歴史の中では、特異に見えただけだという気がしてきます。
じゃあそのQueenが目指していたものとは何か、なんですが、単純に「音楽で人を喜ばせること」だったんじゃないかと私は思うのです。

意味の幅があるので「人を喜ばせること」を「エンタテインメント」とし「優れた作品を生み出すこと」を「アート」とします。“The Beatles”はアートの中にたっぷりのエンタテインメントも含んでいたので、多くの傑作を残しつつ、大きな商業的成功も収めました。だけど、エンタテインメントを目的とはしなかったので、途中からライブは放棄したし、唯一エンタテインメント志向のポール・マッカートニーとそれ以外のメンバーは決裂してしまいました。
Queenはアートの絶対値はビートルズに及ばなかったかもしれませんが、なぜかエンタテインメントへの熱量は非常に大きかった。7作目までは毎年、それ以降もほぼ2年に1枚のアルバムを出し、それも作品のよさだけに頼らず、サウンドを、時間をかけて徹底的につくり込んだし、リリースの合間には必ず、英国内、米国、欧州、日本へと、まめにライブ・ツアーを繰り返しました。フレディの病気(エイズ)が悪化した1990年頃より以前は、ほとんど休みなく活動し続けていたような印象です。

「Bohemian〜」では曲に合わせたイメージ・ビデオも制作しました。ツアー中でもテレビでオンエアしてもらえるようにとの考えからですが、これがいわゆる「PV=Promotion Video」の第1号とされています。以降、英国アーティストは次々とこれを見習い、なので1981年に『MTV』がスタートした時は英国アーティストのビデオばかりだった、ということにつながっていきます。
実はビートルズは「Bohemian〜」の10年前、1965年からPV的なものをつくっていました。ただこれは、彼らの動く映像を少しでもほしいという各国の放送局からの要請に応えた、単に4人が映って適当に口パクしているだけのもの。「Bohemian〜」は、ツアーが忙しくてテレビ出演ができない代わりのプロモーション手段として、4,500ポンド(現在のお金で1260万円)もかけて制作した、映像だけでも楽しめるもので、ここにも両者のエンタテインメント性の違いが現れています。

レコーディングとライブの繰り返しは、体力的にも精神的にも相当たいへんだったと思いますが、Queenはまったく手を抜きませんでした。何も特別にサービス精神が旺盛だったとか、利他の心に溢れていたというわけではないでしょう。ロック史における最高のライブ・パフォーマンスのひとつとも言われる「ライブエイド」の映像などを観ていると、歌、演奏、動き、しゃべり、そのいちいちに歓喜する何万人もの観客の様子は、まるで海が沸騰しているかのようですが、その中心にいるアーティストは、想像もつきませんが、ものすごい昂揚感に包まれていたことでしょう。これを体験したことが、Queenのエンタテインメント性重視の姿勢につながっていると思います。

フレディは「僕がつくる曲は消耗品だと思っているよ」とか「僕らの音楽は紛れもない現実逃避だと思っている」という言葉を残しています。自己韜晦の弁かもしれませんが、同じ時を生きる人々、目の前の人々を必ず喜ばせてみせる、という自信の現れにも聞こえます。

 

その歌の理由_02

 

エンタテインメントのお手本

 

オペラを導入した、意味ありげな歌詞の、5分55秒もの大作。一見アート志向かと思ってしまう「Bohemian Rhapsody」は、実は極上のエンタテインメント作品でした。だからこそ、彼らはこれをシングルで、しかも編集なしでリリースすることを強く主張し、周囲の頭の固い音楽業界人たちが軒並み、反対や否定的意見を唱えたにも関わらず、素直な大衆はこの曲の面白さを即座に理解し、急いでレコードを買いに走ったのでした。
業界人の忠告のひとつが「こんなに長い曲はラジオでかからないか、カットされるに決まってる」というものだったのですが、これもまったく的外れで、どのラジオ局もノーカットでかけまくりました。そもそもラジオ放送は、リスナーを片時も飽きさせないことを目指しています。同じような展開が何度か繰り返されるような(それがふつうですが)楽曲は、長くて3分までにしたいと考えるかもしれませんが、たとえその倍あろうとも、最後までワクワクドキドキするような作品なら、カットする理由がないのです。ラジオ局としょっちゅうつきあっているはずの業界人が、いかに見識が浅かったかをよく現す話ですね。

ポップミュージック史上稀に見る特異な曲である「Bohemian Rhapsody」は、実は「エンタテインメントとは何か」ということが解る、お手本のような音楽作品だったのです。

 

参考文献

・『クイーン 誇り高き闘い(原題:Queen As It Began)』

Jacky Smith and Jim Jenkins 著/田村亜紀 訳
シンコーミュージック・エンタテイメント(2022年2月20日発行)
※オリジナルは『Queen As It Began』by Jacky Smith and Jim Jenkins 1992

・『フレディ・マーキュリー解体新書』

米原範彦 著
平凡社新書(2023年6月15日発行)

 

 

←前の話へ          次の話へ→