【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第18回 The Buggles「Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)」②

アイランド・レコードとの契約が決まるまで

 

自分たちの音楽をなんとかして世に出したい、という一心でつくった曲「Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)」とそのデモテープ。“The Buggles”の二人、トレヴァー・ホーン(Trevor Horn)とジェフ・ダウンズ(Geoff Downes)にとってそれは会心の作でしたが、1970年代末という時代ですから、レコード化するだけならインディーズや自主制作でもできるものの、ヒットを目指すには、大手レコード会社との契約が不可欠でした。

いちばん最初に興味を示してくれたのは「SARM」というレコーディングスタジオが運営するレーベルで、その経営者のジル・シンクレア(Jill Sinclair)は、1980年にトレヴァーと結婚することになる女性でした。しかし、このレーベルはインディーズなので、やはりトレヴァーたちは大手レコード会社巡りに励みます。ところがどこへ行っても冷たい反応ばかり。トレヴァーは自伝『Adventures in Modern Recording From ABC to ZTT』の中で「レコード・レーベルというものはひどく熱心か、ひどく冷淡のどちらかだ」と述べています。何らかの理由でそのアーティストを獲得したいときは「求愛のよう」だけど、そうでないときは「靴についた犬のウンコの如く扱う」。しかも、同じアーティストに対し後者から前者に変わることもあり、その場合は「過去に後者だったことを全く覚えていないかのように振る舞う」と。訪れたレーベルのすべてで、彼らは後者の扱いを受けました。

可能性はSARMだけでした。既にトレヴァーは、女性として魅力的かつ、ビジネスウーマンとして非常に頭が切れるジルにすっかり恋心を抱いていたので、一緒に仕事をすることには惹かれるものの、レーベルとしてはアドヴァンス金も最低限で、宣伝力もありません。とても満足できる場所ではないのですが、他に選択肢がなければ、いたし方ありません。

ところが、SARMと契約する前提で本盤のレコーディングに入るというその前日、ジェフにアイランド・レコードから電話がありました。もちろんここもほかのレーベルと同様“けんもホロロ”に却下されたところです。今ごろ何だろう?と思ったら「君たちと契約したい」。え!? うれしいというより驚きましたが、ライオネル・コンウェイ(Lionel Conway)という、以前エルトン・ジョンのマネージャーで、当時アイランドの重役だった人が、彼らのデモをあとで聴いてとても気に入り、アイランドのテイストではないものの、ぜひ契約したいと言っているとのことでした。2度目の訪問をすると、まさに先ほどの話で、手のひらを返したように、その前者、つまりVIPのごとく丁重に迎えられました。契約するだけでなく、二人に15,000ポンドずつの契約金を支払うと言われ、前年の総収入が2,500ポンドだったトレヴァーにとっては、夢を見ているようでした。

しかし、SARMのほうを断らねばなりません。トレヴァーはジルに何度も電話し、夜中の2時にようやくつかまえました。ジルはがっかりしていましたが、予定通り明日はレコーディングに入ってほしいと言いました。契約は逃しましたが、スタジオ代はアイランドからきっちり払ってもらえますからね。

 

その歌の理由_01

 

レコーディングでの「マジック」

 

ということで、翌日から本盤の制作が始まりました。「本盤」というのは別に正式な用語じゃないんですが、レコードとして発売するための音源という意味で使っています。

デモと本盤はどう違うの?と疑問に思われるかもしれません。デモは「こんなことがやりたい、と示すもの」で、本盤は「商品として販売するもの」です。デモは、どんな曲、どんなアレンジ、あるいはシンガーやミュージシャンの力量、などなどを分かってもらうためにつくり、バグルズのようにレコード会社などにアピールしたい場合は、しっかりとつくり込んだほうがいいだろうし、そうでなければずっとラフなこともありますが、とにかく販売前提じゃないので、安いスタジオや自宅で、できるだけコストをかけないのがふつうです。対して本盤は売ることが前提ですから、それなりの予算は立てますし、より売れそうな要素、たとえば有力なプロデューサーをつける、というようなことにはさらにコストをかけることも可能です。また逆に、売れると判断すれば、デモをそのまま本盤にしてしまうこともあり得ます。

トレヴァーたちはデモのできには自信がありましたが、やはり安いスタジオでつくったので、音質面で本盤のクオリティには値しないと感じていました。逆に言うと不満は音質だけだったので「問題ない。SARMスタジオでもう一度、同じようにレコーディングすればいいだけだ」と考えていたのですが……2週間のスタジオ作業を経ても、どうも何かしっくりと来ません。トレヴァーとジェフは顔を見合わせて

「なんだかね…」

「違うよね」

「…もう一回やり直すか!」

と、それまでの録音物をすべて反故にしていまいました。

デモがすごくいい感じだと、却って本盤がうまくいかないという経験は、音楽制作を仕事にしていた頃の私にもあります。同じことをやっても、同じようにならない。どうやら、レコーディングにはその時だけの「マジック」があって、それは音楽の神様のせいかもしれないし、人の気持のありようみたいなものかもしれないのですが、その作用で、なんとなく音のまとまりがよくなったり、どことなく音がキラキラしていたりする。そしてたぶん、同じことをなぞるだけのような、クリエイティヴィティの欠如したセッションには、マジックが訪れることはないのです。

バグルズの場合もこのマジックの有無の違いでしょう。だけどこのレコーディングでも、途中からハンス・ジマー(Hans Zimmer)というキーボード奏者が参加したことで、ようやくマジックが起こり始めました。ハンス・ジマーはその後、映画音楽の巨匠となっていく人ですが、当時は弱冠23歳の若きセッション・ミュージシャンで、トレヴァーたちともすぐに意気投合し、まるでバグルズの3人目のメンバーになったようでした。彼が持ち込んだ、その頃発売されたばかりのシンセサイザーの銘機とされる「Prophet 5」が、彼らが求めるサウンドになくてはならないものとなりました。

デモの時にも“打ち込み”(プログラミング)は使わず、すべて“手弾き”で録音した、と前回述べましたが、本盤でもそれは同様で、さらに「マルチトラック・テープの編集機能もまったく使っていない」そうです。どういうことかというと、たとえばピアノ、ドラム、ベースを“セーノ”で録音して、ピアノだけが一箇所間違えたとします。マルチトラックは複数のトラック(チャンネル)を別個に録音できますから、ドラムとベースはそのままで、ピアノだけを再録音、しかも間違えた部分だけをピンポイントで再録することもできるのですが、彼らはその機能を知ってはいたものの、臆病で(?!)、また経験もないので、全員が間違えないことはもちろん、最高のプレイを4分間持続できるまで、何度も繰り返し演奏したそうです。それはとてもハードでしたが、トレヴァーに言わせれば、せっかくの機能を使わないムダな行為などでは全くなく、それこそがまさに正しいレコーディングで、バンドとしてのタイトなサウンドを得るためには最上のやり方なんだそうです。

「ラジオスターの悲劇」はエレクトリックなテイストをもったサウンドと言ってよいと思いますが、実は非常にアナログな手法でつくられていたんですね。たぶんそういうところにも、音楽の神様は気前よくマジックをふりまいてくれたんじゃないかなと思います。

 

その歌の理由_02

 

プロデュース力による成功

 

こんな調子で、この曲のレコーディングが完了するまでには何カ月もかかってしまい、アイランドのスタッフはしだいにイライラして「君たちは既に予算をほとんど使い切っているが、まだできないのか」と警告してきました。
トレヴァーは堂々と「できてるよ、一応。ただそれだとやっと30位ってところ。僕たちは1位をとりたいんで、やり直しているんだ」と応えました。認めたのか、呆れたのか、彼らはそれ以上は何も言ってこなくなったそうです。

レコーディング中のある日、バグルズを去っていたブルース・ウーリィ(Bruce Woolley)が『Covent Garden』でライブをやるというので観に行きました。そしたらなんと「ラジオスターの悲劇」を歌ったのです。驚きましたが、バグルズのバージョンにはない歌詞があり、その「Put the blame on VCR」というフレーズをトレヴァーは気に入ったので、さっそく翌日それを録音します。そうする権利は当然あるだろうと判断したのです。

ところがもっと驚いたことに、ブルースは“Bruce Woolley and the Camera Club”というバンド名義で、バグルズより先に「ラジオスターの悲劇」をシングルにしてリリースしたのです。1979年6月17日発売。しかも、バグルズもシングルをリリースしようとすると、ブルースのレコード会社であるCBSは、ブルースがこの曲の著作者であることを根拠に、バグルズ版のリリースを阻止しようと画策してきました。例の新しい歌詞のことがあったのでしょう。それで1週間ほどはゴタついたのですが、とはいえ著作者であることはこちらも対等、約3カ月後の79年9月7日に、バグルズ版「ラジオスターの悲劇」も無事にリリースされました。

いやはや、発売の直前まで、こんなデコボコ道があったとは。しかしながら、世に出ると、勝負は圧倒的でした。前回の冒頭で述べたように、バグルズ版「ラジオスターの悲劇」は世界的な大ヒットとなりました。ただ、多くの評論家たちはブルース版のほうを支持したようです。バグルズ版の「ラジオボイス」や女性コーラスの感じが“売れ線”を狙っている、というのがその理由らしいのですが、まあ“評論家”の言いそうな“ゴタク”ですね。

トレヴァーはヒットすること、1位をとることを目指していたのですから、売れ線を狙うのは当然です。それに音楽自体での“売れ線”というものは実に微妙で、はずれればダサく、やり過ぎればあざとい。優秀なプロデューサーにだって簡単なことではなく、狙って当たったならば、当然人から貶される謂れはありません。彼は自ら「ブルース版は“バンド性”を出すことを重視して“プロデュースされた感”を排除していたが、バグルズ版はヒットシングルを目指していた」と語っています。さすがに当時は「(ブルース版を)くやしくてまともに聴けなかった」そうですが。

それに音楽の売れ線だけで売れたわけではありません。発売後、ものすごいスケジュールでプロモーション活動が始まりました。英国各地、ヨーロッパ各国を飛び回って、新聞雑誌のインタビューやラジオ出演で、何度も何度も同じことを訊かれ、同じことを答え、テレビの音楽番組では苦手な“口パク”をやらされました。もちろんミュージックビデオも制作しました。監督にすべてを委ね、一挙手一投足、指示通りに動いてできあがったそれを、トレヴァーは最初の1分かそこらは好きだけど、あとは見たくもなかったそうです。

だけど、そうした活動を、トレヴァーはまったくイヤではありませんでした。作品をヒットさせるためには、くどいほどのプロモーションが必要なことを、彼はプロデューサーとして理解していたからです。見るのもイヤなMVも、のちに『MTV』の名誉ある初オンエアビデオとして選ばれたことを、プロデューサーとして喜んでいます。

で、テレビでの口パク演奏は数え切れないほどやったのに、バグルズとしてのライブは一度もやらなかったそうです。二人ともライブ経験は豊富で、やろうと思えばいつでもできたのに(21世紀になってから何度もやっていますが…)。それは彼らが自分たちを、バンドとしては捉えてなかったということでしょう。あくまでトレヴァーはプロデューサーとして、30歳と27歳のやや出遅れた、イケメンでもスタイリッシュでもない男二人でも、1位をゲットできる音楽作品をつくるということだけに全力を注ぎ、見事、目標を遥かに超える結果を導き出したのでした。

そう、トレヴァーはこの作品でプロデューサーとしての自己を確立しました。あるいはこの作品がトレヴァーを一人前のプロデューサーに鍛え上げたと言ってもいいかもしれません。

 

想定内の一発屋

 

このあとバグルズは、1980年1月にアルバム『The Age of Plastic』をリリースし、81年に入ると2ndアルバム『Adventures in Modern Recording』の制作にとりかかりますが、そのタイミングで、ジェフは“Yes”のギタリスト、スティーヴ・ハウ(Steve Howe)らとバンド“Asia”を結成し、去っていきました。トレヴァーは一人で『Adventures〜』を完成させますが、それで彼はバグルズをおしまいにしました。

で、それ以降現在に至るまで、トレヴァーは、自分自身をアーティストとしてプロデュースすることをしていません。「その後私がプロデューサーとして関わったアーティストたちはみな、私自身よりずっといいアーティストたちなんだから」と彼は、やはりプロデューサーの視点で語ります。

「ラジオスターの悲劇」をきっかけに、プロデューサーとしては華々しい活躍をしていくトレヴァー・ホーンですが、アーティストとしてはこれが唯一のヒットという、いわゆる「一発屋」。それも「夢よもう一度とがんばってもその甲斐なく」というタイプではなく、客観的に自身を見極めた上での、言わば「想定内の一発屋」でした。カッコよ過ぎます。

 

<紹介楽曲>

その歌の理由_03


The Buggles「Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)」 

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参考文献

・『Adventures in Modern Recording From ABC to ZTT』

Trevor Horn 著
Nine Eight Books(2022年発行)

 

 

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