【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第8回 The Ronettes「Be My Baby」②

「Be My Baby」が放ったもの

 

“The Beach Boys”のブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)が初めて「Be My Baby」を聴いたのは車の中でした。カーラジオから流れてくるこの曲にあまりにも心を奪われて、それ以上車を運転することができなかったそうです。すぐにシングル盤を買い、毎日毎日何度も何度も聴き続けました。やがて彼は、アンサーソングとして「Don't Worry Baby」を書き、ロネッツにプレゼンしますが、フィル・スペクターから「自分が作曲に加わってない曲はやらない」と冷たく却下され、仕方なく1964年5月に、ビーチ・ボーイズのシングルとしてリリースしました。

“The Beatles”もやはり、大きな影響を受けたからこそ、のちにアルバム『Let It Be』のミキシングをスペクターに任せたのだろうし、その後も、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンがそれぞれソロ作品のプロデュースを彼に依頼したのでしょう。

もっと直接的で具体的なこの曲の影響は、その特徴的なドラム・パターン“ドッドドッ・ダン”という、スネアドラムが4拍目にしかない(通常2拍目にもある)ってヤツが、たくさんの曲で使われた…と言うよりも、ごくありふれたパターンのひとつになったことですね。あれは、ドラマーのハル・ブレイン(Hal Blaine)の「スティックを落としてしまって、2拍目のスネアが叩けなかった」という単純ミスが、そのほうがいいというスペクターの判断でそのままになったという、偶然の産物らしいですが。

とまあ「Be My Baby」が“理由”となったいろんな現象はありますが、実はこの作品が世の中に放った最も重要なメッセージは「レコーディング・スタジオから新しい音楽を生み出せる」ということだったんじゃないでしょうか。
それまでの長い間、レコーディング=録音とは「ミュージシャンの演奏をメディアに記録する」という行為に過ぎませんでした。つまり、レコードはコンサート会場などで聴ける生演奏の“代替品”以上のものではなかったのです。
ところが「Be My Baby」のレコードで、弾けるようなヴェロニカ・ベネットの歌唱を包んでいるのは、生演奏ではとても表現できない、マジカルな音の世界でした。現実世界には存在しないような「Wall of Sound」とでも形容するしかないような音を、レコーディング・スタジオでつくることができるということを、世界で初めて強烈にアピールしたのがこのレコードでした。

しかもそれは、その後次々と発明される、音を加工するための様々な機械類がまだ存在しない時代。「Wall of Sound」は、スタジオのエコー室を使ってのエコー処理と、ギターやピアノなど、同じ楽器で同じことを複数の人が同時に弾くという独特の工程だけで実現した、言わば工夫と試行錯誤によって辿り着いた“発明”なんです。
その発明家がフィル・スペクターでした。「Be My Baby」は、その音そのものの革新性とともに、それを具現化した「プロデューサー」の創造力の重要性についても、人々の注目を促したのです。

それにもっとも敏感に反応したのは、やはり同様に創造力に富んでいたブライアン・ウィルソンや、ビートルズのポールやジョン、そして大瀧詠一や山下達郎でした。もしも「Be My Baby」がなければ、ひょっとしたらビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」(1966)やビートルズの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』(1967)も生まれなかったかもしれませんし、大瀧詠一の『A LONG VACATION』(1981)は絶対ああいう音にはならなかったでしょう。

 

その歌の理由_01

 

フィル・スペクターのとんでもない性格

 

ただ、スペクターという人は、人格的にはかなり問題アリでした。前回お話した、クリスタルズの「He’s a Rebel」での“出し抜き事件”や、実は違う人が歌っていたという“アーティスト無視事件”もそうですが、音楽と関係ないところでもいろんな逸話が残っています。

編曲家のジャック・ニッチェ(Jack Nitzsche)はスペクターがプロデュースしたヒット曲ほぼ全てのアレンジを担当した、スペクターにとってなくてはならなかった人物ですが、彼に対する報酬はずっと1曲50ドルだったそうです。現在価値だと約10倍くらいですが、それでも70,000円程度ですね。貢献度に比べたらメチャ安い。しかるにスペクターは飛行機で旅する際、ニッチェによく、いっしょに乗ってくれるよう頼んだらしいのですが、その理由が「一人では死なないと思うと恐怖が少し和らぐ」からだったそう。ひどいよね。

1968年にスペクターはヴェロニカと結婚したのですが「探し求めていた声」だったはずなのに、結婚後は彼女がアーティスト活動をすることを禁じたばかりか、一人で外出することもいやがって、靴を取り上げたり、逃げないように家の周囲に鉄条網を張り巡らし、番犬を放っていたそうです。1972年にはヴェロニカが離婚調停を申し立て別れたのですが、異常人格としか言いようがありません。

2003年には女優のラナ・クラークソンを射殺した容疑で逮捕されました。本人は彼女が自殺を図ったと主張して、無罪を訴えましたが、長い裁判の末、2009年に第2級殺人罪(計画性はない)で禁固19年の判決が下り、カリフォルニア州立刑務所に収監されました。そしてそのまま約12年後、2021年1月16日にコロナで亡くなるという悲惨な最期。81歳でした。ちなみにそのほぼ1年後、22年1月12日に、ヴェロニカが78歳で癌で亡くなっています。

 

その歌の理由_02

 

日本に「フィル・スペクター」が育たない理由

 

いやはや、こんな極端な人もなかなかいないと思いますが、意外なことに、スペクターの周りの人たちは当時もその後も、彼のことをそんなに悪くは言ってないんです。

「He’s a Rebel」の出し抜き事件。前回「もしも私がヴィッキのスタッフだったら怒り心頭」と書きましたが、ヴィッキ・カーの担当だったリバティ・レコードのスナッフ・ギャレット(Snuff Garrett)は「あれは音楽出版社の担当がよくなかった」と、スペクターに対しては全く怒っていません。

クリスタルズの面々はロネッツの登場以降、益々扱いがひどくなり、さすがに彼のことをボロクソに言ってますが、ヴェロニカは、結婚後の束縛には面食らったと言いつつも、当初は「本当に愛し合っていた」と、やはりそんなに彼のことを悪く思ってはいなかったようです。

彼の偏執的なこだわりから、重労働を余儀なくされたミュージシャンたちからも、目立った不満の声はなく、ハル・ブレインなど「俺が知っている中で唯一人、セッション時に2トラックレコーダーを最初からずっと回していたプロデューサー」と、スペクターのことを称賛しています。それは、ミュージシャンの、自分では覚えていないような何気ないフレーズも再現できる画期的な方法だったというわけです。

もしかしたら、常識的にはとんでもないことを平気でしてしまうワガママ人間なんだけど「一所懸命で憎めないヤツ」みたいな印象を与える人だったのかもしれませんね。さすがに「ラナ・クラークソン事件」では一線を越えてしまってアウトだったわけですが……。

「毒と薬は紙一重」あるいは「薬と毒は匙加減」などと言います。“毒”に限りなく近い“劇薬”だったからこそ、スペクターは誰も考えつかなかったようなサウンドを発明し、世界中の音楽リスナーと音楽クリエイターたちに、ワクワクする夢の世界を見せることができたのかもしれません。

しかしながらこれが日本だったらどうでしょう? 何よりその時その場の“空気”に左右されやすい民族性。スペクターのような“出る杭”は、最初からボコボコに打たれて世間から葬り去られるか、あるいはどんどん毒を抜かれてただの人にされてしまうんじゃないでしょうか。そして、画期的な作品や発明は、生まれる前に潰されてしまう。アメリカと日本の文化の違いは、そういうところに根っこがあるような気がします。

私だって、スペクターみたいな人と友達になりたくないどころか、できれば仕事もしたくありませんが、こういう毒を薬にするくらいの寛容さがないと、ほんとに豊かな文化というものは育っていかないんじゃないか、と思ったりもします。

 

参考文献

・『レコード・コレクターズ』1993年1月号 

株式会社ミュージック・マガジン

・『Inside classic rock tracks : songwriting and recording secrets of 100 great songs from 1960 to the present day』

Rikky Rooksby 著
Backbeat Books(2001)

・『音の壁の向こう側 フィル・スペクター読本(Little Symphonies: A Phil Spector Reader)』

Kingsley Abbott 著/島田聖子・岡村まゆみ 訳
シンコーミュージック・エンタテイメント(2010)

 

 

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