【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第15回 ハナ肇とクレージーキャッツ「スーダラ節」①

コミックソングは難しい!?

 

コメディアンの島崎俊郎さんが昨年12月6日に他界されました。まだ68歳という早過ぎる死は残念ですが、実は私、彼が一員だった“ヒップ・アップ”というトリオのアルバムを、音楽ディレクターとして担当したことがあります。1983年8月発売で、タイトルは『サラダ・ボーイズ』。私が渡辺音楽出版の社員、ヒップ・アップが渡辺プロダクションの所属タレントだったということで、自ら進んでではなかったのですが「お笑い芸人の“色物”レコードでしょ」と、ちょっと軽く見ていた私は、たちまちその考えの浅はかさを思い知らされました。
「コミックソング」は難しい。話で人の笑いを誘うには、やはり意外な展開=「オチ」があることでしょうが、一度展開を知ってしまえば、それはもう意外ではなくなってしまいます。つまり、初めて聴いた人は笑ってくれるかもしれませんが、2回目からは面白くない。だけど音楽というものは何度も聴きたくなるところに価値があるのであって、そうでない歌詞なんてそもそも失格です。かと言って、サウンドや歌い方で笑わせるのも至難の業。そういうのは偶然の産物で、意図したとたんにわざとらしくなって、招くのは失笑だけなんてことになりかねません。

お笑い芸人が人気を得て、持ちネタを活かしたコミックソングをレコード化して発売する、という流れは今もよくありますが、芸人としての人気のおかげでヒットチャートに上ることはあっても、その作品自体がちゃんと面白いものであるかといえば、甚だ心もとない。従って一人あるいは一組の芸人さんが複数のヒット曲を持つことはめったにありません。ヒップ・アップの『サラダ・ボーイズ』も、けっして胸を張ってお聴かせできるようなものにはならなかったし、ヒットもしませんでした。

ところが、そんなコミックソングを何曲もヒットさせたコメディアンが、しかも渡辺プロの創業期にいました。いたどころか、彼らによって渡辺プロは大きくなれたのですが、その名は“ハナ肇とクレージーキャッツ”、特にその中の植木等です。1961年8月20日に発売されたデビューシングル「スーダラ節」から始まって「ドント節」「五万節」「無責任一代男」「ハイそれまでョ」「これが男の生きる道」「ショボクレ人生」「ホンダラ行進曲」「だまって俺について来い」「ゴマスリ行進曲」「遺憾に存じます」「シビレ節」……いずれもヒットしたし、いずれも傑作です。そして、この中では「シビレ節」がいちばんあとで、1966年3月発売。つまりこれらはすべて、60年代半ばまでに発売されているんです。とにかく、最初の「スーダラ節」のインパクトがすごかった。その後は半年に1本の東宝「クレージー映画」シリーズがヒットして、中で歌われる曲もヒットするという好循環もあっての結果ですが、その映画シリーズ自体も「スーダラ節」のヒットに乗じて始まったものです。

 

「スーダラ節」の持久力

 

「スーダラ節」は日本のコミックソングの金字塔とされています。当時の流行ぶりもさることながら、驚異的なのはその“賞味期限”の長さ。先ほど、オチを知ってしまったら笑えなくなるからコミックソングの歌詞は難しいと言いましたが「スーダラ節」(および上記の一連の作品群)は60年以上も経った今聴いても、やっぱりニヤッとしてしまうのです。そんな持久力の“理由”は何なのでしょうか?

実はこの歌詞は「意外なオチ」で笑わせようとはしていません。1番の歌詞を見てみましょう。

チョイと一杯のつもりで飲んで

いつの間にやらハシゴ酒

気がつきゃホームのベンチでゴロ寝

これじゃ身体にいいわきゃないよ

分かっちゃいるけどやめられねぇ

ア ホレ スイスイスーダララッタ 

スラスラスイスイスイー

・・・

これはいわゆる「あるある」ですよね。酒好きにありがちな失敗話。このあと、2番は「競馬」、3番は「ナンパ」と続きます。要するに「呑む・打つ・買う」という男の三大道楽について、多くの人が身に覚えがある、あるいは身近な人がやっていそうなことを「七五調」で調子よく並べている“だけ”なんです。だから「そうそう」「だよねー」とは思うけど、意外性はない。苦笑はあっても爆笑はありません。ただ、昔も今も、たぶん100年後も、人は同じようなことを繰り返しているだろうから、この苦笑には“普遍性”があるんです。

そして、この詞の構成の見事なこと。わずか4行、曲の小節数では8小節で、1行(2小節)ごとに「起承転結」と展開して「あるある」を完璧に表現しきっています。さらに、何と言っても5行目の「分かっちゃいるけどやめられねぇ」。毎回登場する“決めゼリフ”ですが、これがすばらしいですね。人類全体の「あるある」と言うか“真理”を突きつけつつ、それを庶民言葉で言い放つところに、ものすごいパワーを感じます。当時としてはあまりにも破天荒な歌詞に、実は植木等さん、唄うのを躊躇していたのですが、お父さん、住職でありかつ左翼活動家だった植木徹誠[てつじょう]さんに見せたところ、この「分かっちゃいるけどやめられねぇ」は親鸞の悟りに通ずる素晴らしい詞だ、ヒット間違いなしだから自信をもって歌ってこいと、意外な反応が返ってきたという有名なエピソードがありますが、お父さん、えらい。ともかくこのフレーズが「スーダラ節」に、とてつもないインパクトと持久性をもたらしたことは間違いありません。

 

その歌の理由_01

 

30分でつくられた!?

 

作詞は青島幸男さん。その頃は放送作家で、フジテレビの『おとなの漫画』や日本テレビの『シャボン玉ホリデー』という、クレージーキャッツが出演するテレビ番組の台本を書いていました。作詞はだから片手間で「スーダラ節」の前年、1960年に発売された“ダニー飯田とパラダイス・キング”(ボーカル:坂本九)の「悲しき六十才」(訳詞)が初仕事で、経験も浅い。で、彼が台本で書いていたのは、やはりギャグの王道である「意外なオチ」で笑いをとるものなんです。もはや高齢者にしか分からないかもしれませんが「シャボン玉〜」で“鉄板ネタ”だった植木さんの「お呼びでない?お呼びでないね。こりゃまた失礼いたしヤシター!」というギャグも、毎回それが出てくるのは分かってるんだけど、今日はどんな意外性で登場するか、ということが楽しみでした。意外性が勝負ですから、同じことは二度できません。賞味期限1回限りのギャグだったんです。
その人が、歌の詞となると、爆笑ではないけど何度聴いてもクスリと笑えるネタを出してきた。これは意図してのことだったのでしょうか? 青島さんの自著『わかっちゃいるけど…』のP29に「正直言ってはじめの頃はこの唄がこんなに売れるとは思いませんでした。もともとコミックソングってものは、一時面白がられるけどレコードの売り上げがそんなに伸びないと言われていた」とあるのを見ると、とくに「スーダラ節」を従来のコミックソングとは違うものにしたかった、というような意図は伺えません。しかも、同書によると、この歌詞を、彼はたった2、30分で書き上げたらしいのです。

実はこの曲、当初はシングルのB面用としてつくられたそうです。テレビのレギュラーで人気が出始めたクレージーキャッツを、もう一段階グレードアップするためにオリジナル曲をつくり、レコードを出そうということで、渡辺プロの社長、渡辺晋さんの家で企画会議が行われました。
私などの時代にはもうなかったのですが、創業期は何かといえば、品川区上大崎にあった渡辺宅の居間に、タレント、クリエイター、メディアの人たちなどが集まって、侃々諤々、酒も飲みつつのミーティングが夜を徹して繰り広げられたようです。渡辺プロの怒涛の推進力はここから生まれたんですね。
まず企画として上がったのが、フジテレビで放映していた『週刊クレイジー』という番組から生まれた「こりゃシャクだった」という、クレージーの流行語第1号を歌にしようというもの。その構成台本も書いていた青島さんが作詞を担当し、クラリネット奏者の萩原哲晶[ひろあき]さんが作曲・編曲を引き受けました。萩原さんはハナ肇さん、植木さんや渡辺晋さんのジャズ仲間で、クレージーキャッツの創設時には短期間メンバーでもあった人ですが、東京音楽学校(今の東京芸大)出の秀才で、仲間内では抜きん出た音楽センスの持ち主でした。
で、1曲はできましたが、シングルレコードというものには裏面があります。もう1曲をどうしようかと、また渡辺宅でワイワイガヤガヤ。B面だからまあ何でもいいやと、植木さんがその頃、麻雀などで調子がいい時に発していた「スラスラスイスイスイ〜」という妙な鼻歌を使っちゃえ、ということになりました。さすがにそれだけじゃ歌にならないんで、その場で青島さんが歌詞をひねり出し、その場で萩原さんがメロディをつけていって一丁上がり、という話です。

前述のように、非の打ち所がないほど見事に構成された「スーダラ節」の歌詞をわずか30分で書き上げたなんて、だいぶ話を盛ってるのかなとも思いましたが、犬塚弘さんも『最後のクレイジー 犬塚弘』という本で「その打ち合わせで曲の骨子が大体まとまってゆくんです」と仰ってます。その後『人間万事塞翁が丙午』(1981)という小説で直木賞をとったり、参議院議員や東京都知事にもなってしまう本物のマルチ・タレントであった青島さんの、まだ20代の柔らかい頭脳ですから、それくらいは何でもないことだったのかもしれません。
また、コメディアンとしての植木等のキャラからは「呑む・打つ・買う」というテーマは出てきそうだし、それが決まれば、あの「あるある」のストーリーをひねり出すのはそう難しいことではないような気もします。逆に、B面だからと気楽に考えていたこと、時間をかけなかったことが、返って功を奏したのかもしれません。
それにしても「分かっちゃいるけどやめられねぇ」という決めゼリフはよく思いついたと思います。

萩原さんのメロディもまた完璧です。これ以外にはないと思えるほど、言葉にピッタリと合っているし「分かっちゃいるけどやめられねぇ」とぶちかました直後に「ア、ホレ、スイスイ…」とずっこけて鼻歌に流れていくところなんて、メロディ自体がちゃんとギャグになっています。
そして編曲は、随所にコミカルな音を散りばめながら、土台のサウンドは「ア、ホレ」までが「音頭」で「スイスイスーダララッタ」のサビからはラテンの「バイヨン」というリズムに展開するという、さすがの匠の技で、曲の魅力を最大限に盛り立てています。

 

その歌の理由_02

 

唄うのがイヤだった

 

ところがその「スーダラ節」誕生のミーティング中、唯一暗い顔をしていたのが植木さん本人でした。「この歌を唄うのがイヤで仕方なかった」と彼は何度も語っています。実は植木さん、この歌の主人公とは真逆の、酒は一滴も飲まない、律儀で真面目そのものの性格だったそうです。音楽でも、ペリー・コモやディック・ミネのような本格的な歌手を目指していたのに、せっかくレコードを出せると思ったらこんな歌か、とガッカリしたのですが、前述のお父さんの意見でようやくふっきれたというのです。

だけど、それにしてはレコードの歌唱はバカバカしいほど明るく、破壊的にエネルギッシュです。とても「イヤで仕方ない」人のパフォーマンスとは思えません。そのレコーディングでも、当時は歌とオーケストラをいっしょに録音するしかなかったのですが、通常なら2、3回で終わるところ、何度も何度もやり直したそうです。なぜなら植木さんの歌があまりにも可笑しくて、途中でミュージシャンの誰かが吹き出してしまい、演奏が止まってしまったから。

もちろん、彼のノリにノッたこの歌唱がなくては、この曲は成立しません。また、この曲のヒットがきっかけで生まれる「クレージー映画」における「日本一の無責任男」というキャラクターは、その後の植木等の代名詞となります。これもクソ真面目な植木さんとは真逆の人物像であるはずですが、その演技があまりにもハマっていたので、まさに“日本一”の人気者になっていくわけです。本人の人間性と「虚像」との、この大きなギャップは、どう理解すればいいのでしょうか?

…つづく

 

参考文献

・『わかっちゃいるけど… シャボン玉の頃』

青島幸男 著
文藝春秋(1988年9月20日発行)

・『ナベプロ帝国の興亡』

軍司貞則 著
文藝春秋(1992年3月発行)

・『植木等と藤山寛美』

小林信彦 著
新潮社(1992年3月20日発行)

・『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』

戸井十月 著
小学館(2007年12月25日発行)

・『最後のクレイジー 犬塚弘 ホンダラ一代、ここにあり!』

犬塚弘/佐藤利明 著
講談社(2013年6月25日発行)

 

 

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