【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第13回 Queen「Bohemian Rhapsody」①

超有名で激しく変な曲

 

“Queen”の「Bohemian Rhapsody」。超有名曲です。彼らの4thアルバム、1975年11月21日発売の『A Night at the Opera(オペラ座の夜)』の1曲として、フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)が詞曲を書き、リードシングルとして同年10月31日に発売。発売当時から大ヒットしましたし、フレディが1991年に亡くなってから再びヒットし、英国チャート史上、同一の楽曲・音源が2度第1位を獲得した唯一の例となりました。その後も忘れられるどころか、2018年になって同曲をタイトルにした伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が公開され、これがまた世界中で大ヒットだったのは記憶に新しいところ。ストリーミング配信時代になっても人気は衰えず、この原稿を書いている2023年11月19日現在で、Spotifyでの再生回数が約23億回(たとえば近年の大ヒット曲、ブルーノ・マーズとマーク・ロンソンの「Uptown Funk」が18.4億回、ファレル・ウィリアムス「Happy」が12.8億回…)にも達しています。

まさに「ロックの金字塔」と言うしかない作品でしょうが……ちょっと待ってください。これだけ売れているから、スタンダードだから、名曲だと言われているから、よく分からなくなっているかもしれませんが、ちゃんと見れば、これ、めちゃくちゃ変わった曲ですよ。1970年前後から一世を風靡していた「プログレッシブ・ロック」の潮流上にあるのはたしかですが、実は、成功を目指すロックバンドがこれほど異色な曲をシングルとして売り出すことに、当初はレコード会社やマネジメントはもちろん、多くのプレスや評論家たちもマイナス評価をくだしていました。Queen自体も、既に74年に「Killer Queen」がヒットして知名度は高かったものの、まだ評価は定まっていなかったのです。

 

その歌の理由_01

 

誤解と偏見に負けなかった初動

 

実はQueen人気に火がついたのは、日本のほうが先でした。“Queen”がデビューしたのは1973年ですが、やがて洋楽雑誌『ミュージック・ライフ』が彼らを強力にプッシュし始めます。裏ではワーナー・パイオニア・レコードの経営に参加していた渡辺プロも動いていました。それがかなりアイドル的だったことから、日本では少女たちがまず反応したのです。Queenの初めての日本ツアーが行われた75年4月には、既にかなり盛り上がっていて、羽田空港に1,000人もの女性ファンが詰めかけ、大騒ぎだったそうです。
しかしこれがロックファンには逆効果だったのです。恥ずかしながら私もそのひとり。大学の軽音楽部でロックバンドの一員だった私は、レッド・ツェッペリンを頂点とする、いわゆる“骨太”のハードロックに心酔しており「女・子供がキャーキャー騒ぐような」ミーハー・バンドなどクソ喰らえ!と音も聴いてないくせに、端からバカにしていたのです。そして、私のような人が日本には多かったのです。

『A Night at the Opera』の次作『A Day at the Races(華麗なるレース)』(1976)の日本盤のライナーノーツに、音楽評論家の大貫憲章さんの解説が、76年12月5日という日付入りで掲載されているのですが、そこには「これまでクイーンは、その表面上の華やかさ故に、何かと批判の対象となってきた」という言葉に続き、Queenファンの女子が“本格派のロックファン”から白い目で見られること「クイーンなんてツェッペリンを聴いたらバカバカしくって聴く気になれない」という声などを挙げ、モハメッド・アリとアントニオ猪木の「格闘技世界一決定戦」(懐かしいっ…)に例えて「ツェッペリンとクイーンを比較するのはこれと同じだ」と説き、ビートルズと並べて、アイドルであると同時に優れたロック・ミュージシャンたちである、と持ち上げています。「Bohemian〜」がヒットした1年以上あとでも、こんなことを言わなければならなかったことが、当時の状況をリアルに物語っています。

本国の英国では逆に、ファッション性や私生活にばかり関心を向けるプレスに対して、バンドも敵意をむき出しにしたため、プレスとの折り合いが非常に悪かったそうです。レコード売上やライブ動員は着実に増えていたので、たとえば74年2月号の『NME(New Musical Express)』紙の読者人気投票では「最も将来性を感じる新人」部門の第2位になったりしたのに、論評記事では「スーパーマーケット・ロック」などと揶揄されたり、2ndアルバム『Queen Ⅱ』(1974)のレビューで『Melody Maker』誌から「もし彼らがブレイクするようなことがあれば、私は帽子でも何でも食べる」、『Record Mirror』紙からは「出た、グラム・ロックの搾りカス。線が細くてつくり込み過ぎ」などと叩かれるような状況でした。

そこへ、この異色作のシングル・リリースです。要するに、それまでのポップミュージックの常識に染まっていた人たちには、すぐには理解できなかった、ついていけなかったはずなんです。だからネガティブな発言も多かった。そしてメディアの論調がそうなら、多くの一般リスナーもそれに洗脳されてしまうものです。ところが「だから当初はまったく売れず、時を経てしだいに評価が高まっていった……」のなら分かるのですが、実際はラジオでかかるやいなや、爆発的と言っていいほどリスナーは反応し、本国はもちろん、米国やヨーロッパでもたちまち大ヒットとなっていったのです。

そこには一体、どういう理由があったのでしょうか?

 

その歌の理由_02

 

どこが変なのか?

 

彼らはたくさんの名曲、名演奏、ヒット作品を残しましたが、やはりその中でもひときわ神々しく輝いているのが「Bohemian〜」でしょう。そしてくどいようですが、この曲はポップミュージック史上稀に見る、特異な曲です。いや、売れてないものなら、これより変わった曲もいくらでもあるでしょうが、全英1位ほか、世界中でヒットしたシングルの中でだと、これほど特異な曲はほかにないんじゃないでしょうか? 何が特異か、まずは列挙してみましょうか。

①シングルにしては相当長い

②曲の構成がふつうじゃない

③音楽性がロックの文脈からかなり遠い

④訳が分からない歌詞

⑤ストリングスもホーンセクションもシンセも使ってない

⑥コーラスがすごすぎる

①シングルにしては相当長い

バンドがこの曲をシングルにしたいと言い出した時に、当然のように真っ向から反対したのはマネジメント事務所のボス、ジョン・リード(John Reed)でした。デビュー以来のマネジメント、トライデントとの契約を75年8月に解消し、バンドはエルトン・ジョンのマネージャーだったリードと契約したばかりでした。「そんなに長くては誰もラジオでかけてはくれない」。ラジオでかからなければシングルカットする意味がありません。当時の常識は3分間以内。長い曲は編集してシングル・バージョンをつくるのも常識でしたが、メンバーは「切り刻む気はまったくない」と一切譲歩しませんでした。そしてフレディとロジャー・テイラー(Roger Taylor)は、リリース前に、友人のラジオDJ、ケニー・エヴェレット(Kenny Everett)に見本盤を「またラジオでかけちゃいけないよ」と念を押しつつ、渡しました。彼がそれに従わないのを見越した上です。案の定、エヴェレットは2日間で14回もオンエアし、リスナーからの問い合わせの電話が鳴り止みませんでした。また、多くの業界人そしてプレスなども「こんな長い曲を最初から最後までオンエアする番組などあるはずない」と主張しましたが、ラジオ局はどこもノーカットで放送したとのことです。

②曲の構成がふつうじゃない & ③音楽性がロックの文脈からかなり遠い

Queenの多くの曲はスタジオで試行錯誤しつつ制作されたそうですが、この曲はスタジオに入る前に、フレディ・マーキュリーの頭の中で全てできあがっていたそうです[1]。バース(Aメロ)とコーラス(サビ)を繰り返し、時にブリッジが入る、といったポップミュージックの通常の構成をまったく無視した、5つものパート(イントロ+バラード+オペラ+ハードロック+バラード・リプライズ)からなる本作は、元々3つの曲だったとのことで、録音作業も3パートに分けて行ったそうです。バラード部分は60年代の末にはつくり始めていたらしく、またフレディの遺品から、この曲の歌詞が書かれた74年の航空会社の便箋が発見され、そこには「Mongolian Rhapsody」というタイトルがあり「Mongolian」を線で消して「Bohemian」と書き添えてあったそうです[2]。積年の構想がやっと実を結んだ曲だったんですね。

フレディは「オペラチックな曲がつくりたかった」と語っています[3]。最初からその思いはあったようで、1stアルバムの『Queen(戦慄の王女)』(1973)収録の「My Fairy King」や「Liar」にもそれは窺えるし『Queen Ⅱ』の「The March of the Black Queen」など、サウンドも凝りまくっていて「Bohemian〜」の“習作”といった感じがします。

プログレッシブ・ロックの先輩バンドたちが既に、クラシック音楽の導入など様々な手法は導入済みでしたが、オペラはなかったし、おそらくフレディほどの驚異的な歌唱力がなければ成立しない企画だったでしょう。彼がQueenの仲間とともにいつか完成させたかったのはこの音楽で、これならば自分は世界の誰にも負けない、という大きな自負があったんじゃないでしょうか。

フレディは東アフリカのザンジバル(現タンザニア連合共和国)で生まれ、8歳から16歳までインドのボンベイ(ムンバイ)郊外の寄宿学校で過ごし、17歳でロンドンに移住しました。両親は敬虔なゾロアスター教信者でした。
ロックと同レベルでオペラや歌劇にも惹かれ、ロバート・プラントも好きだけどライザ・ミネリ(Liza Minnelli)はもっと好きだと公言していたフレディの感性には[4]、異質な文化をクロスオーバーしながら育ったことも影響していると思います。

④訳が分からない歌詞

詩というものは言葉の意味が分かるだけでは理解できないので、それが英語だともうお手上げなのですが、この曲の歌詞は本国でも、どう解釈するか、人々を悩ませてきたようです。フレディ本人はあえて何の説明もしようとしませんでした。
「ふらふらと適当に生きてきた少年が人を撃ち殺してしまい、神(?)の審判を受けて処刑されそうになって、命乞いをしている」というような内容ですが、ある人は、その頃、メアリー・オースティン(Mary Austin)と暮らしつつ、初めて男性と恋愛関係に陥ったフレディの心の葛藤を表しているなどと解釈し、一方、前述のラジオDJ、ケニー・エヴェレットは、フレディが彼に「歌詞は単なるランダムな韻を踏んだ無意味なもの」と話した、と語っています[5]。

私が思うところを述べようと思いますが、長くなったので、次回に。

…つづく

 

参考文献

[1]テレビ映画『ボヘミアン・ラプソディの物語』 

監督:カール・ジョンストン 
英国放送協会(BBC)(2004年) 
https://www.imdb.com/title/tt0438465/ 

[2]『ニューヨーク・タイムズ』紙より「Was Queen’s ‘Bohemian Rhapsody’ Originally ‘Mongolian Rhapsody’?」(2023年5月30日) 

アレックス・マーシャル 著 
https://www.nytimes.com/search?query=Mongolian+Rhapsody 

[3]『ローリング・ストーン誌』よりFour Queens Beat Opera Flush(1976年3月11日) 

スティーブ・ターナー 著 
https://www.rollingstone.com/ 

[4]『uDiscoverMusic』より「Freddie Mercury’s Influences: From David Bowie To Pavarotti And Beyond」(2023年9月5日) 

マーティン・チルトン 著 
https://www.udiscovermusic.com/stories/freddie-mercury-influences/ 

[5]『Wayback Machine』より「The Greatest Songs Ever! Bohemian Rhapsody」(2002年1月15日) 

ジョニー・ブラック 著 
https://web.archive.org/web/20100125102734/http://www.blender.com/guide/66831/greatest-songs-ever-bohemian-rhapsody.html 

・『クイーン 誇り高き闘い(原題:Queen As It Began)』

Jacky Smith and Jim Jenkins 著/田村亜紀 訳
シンコーミュージック・エンタテイメント(2022年2月20日発行)
※オリジナルは『Queen As It Began』by Jacky Smith and Jim Jenkins 1992

・『フレディ・マーキュリー解体新書』

米原範彦 著
平凡社新書(2023年6月15日発行)

・『A Day at the Races(華麗なるレース)』日本盤

ライナーノーツ:大貫憲章 著
ワーナー・パイオニア(1976年発売)

 

 

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