【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第16回 ハナ肇とクレージーキャッツ「スーダラ節」②

植木等の二面性

 

“分かっちゃいるけどやめられねぇ”という、だらしなくて脳天気な男が主人公の「スーダラ節」を、唄うのがイヤでしょうがなかったと、アチコチで語っている植木等さん。真面目で律儀なカタブツで(体質だから仕方ないけど)酒も飲めない人だったことは、多くの人が認めているので、これは本音でしょう。ところが、レコードにおける歌唱や、テレビや映画でのパフォーマンスは、まさに、この人以外誰が?と思うくらい、植木さんは完璧に表現し切っています。なぜそんなことができたのでしょうか?

でも植木さん、人を楽しませることは好きだったし、その資質も充分にもっていたようなんです。
クレージーキャッツに入る前、1954年から57年にかけて、植木さんは“フランキー堺とシティ・スリッカーズ”というバンドのメンバーでした。フランキー堺さんは一流のドラマーながらその後、喜劇俳優として大活躍する人ですから、このバンドもクレージーと同じく「コミック・ジャズバンド」でした。ここには谷啓さんもいて、植木さんと谷さんは楽器よりも客を笑わせることに熱心だったそうで、やはりそのメンバーで有名なテナーサックス奏者だった稲垣次郎さんが「座る所が僕の隣だからうるさくてしょうがなかった」と語っています。シティ・スリッカーズに入ったときから態度がでかくて「調子のいい野郎が来たな」というのが第一印象だったそうです。稲垣さんに言わせると、植木さんは元々「三の線」(三枚目ってこと)。「本人は歌も芝居も二の線(二枚目、ね)で行きたいと思ってたんだろうけど、本質は三の線ですよ。明るくて調子よくてうるさくて」と言い切っています。

植木さんの“鉄板”ギャグ「お呼びでない?…」は、実は、ホントに『シャボン玉ホリデー』の中で出番じゃないシーンに出てきてしまって、当時は生放送ですから、みんな凍りついたんですが、植木さんには緊張でアガるってことはなかったらしく、咄嗟に「お呼びでない? こりゃまた失礼しヤシタ!」とやって切り抜け、それが大ウケだったので、ネタに取り入れたといういきさつらしいです。やはりコメディアン的本能がないと、こんなことはできないでしょう。

要するに、マジメ人間もお調子者も、どちらも植木等の本質なんでしょう。「内弁慶」というのがありますね。ウチではでかいこと言ってるけど、外に出るとからきし意気地がない、よくあるタイプですが、これと逆ですね。「外弁慶」。でも、陽気で面白いのに実はキチンとしている、なんてむしろ理想ですよね。誰からも好かれたんじゃないでしょうか。先ほどの稲垣さんの発言も、愛情あってのものです。植木さんが亡くなって「寂しいね。来るだけで、あたりがパッと明るくなるような人だったからね」と言ってますから。ただ、ご本人にとってはそのギャップ、辛かったかもしれませんが。

 

その歌の理由_01

 

「スーダラ節」ヒットの理由

 

ともかく、B面のつもりで“適当に”つくった「スーダラ節」がA面となり、1961年8月20日に発売されると、いきなり売れ始めました。「オリコン」などない時代ですから具体的なデータは分かりませんが「1カ月もしないうちに10万枚を越え、20万40万と伸び続け、ついには60万枚の大台を越えてしまいました」と、青島幸男さんは自著『わかっちゃいるけど…』に記しています。

当時は「岩戸景気」と呼ばれた好景気の真っ只中。余談になりますが「岩戸」というネーミングの由来が面白い。54年末から57年にかけても景気がよくて「神武天皇以来、例を見ない好景気」だというので「神武景気」と名付けられたんですが、58年からは、その神武景気を上回る勢いで「(神武天皇よりさらに遡って)天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」なので「岩戸景気」としたそうです。
ネーミングにも反映されているようなハイな気分が世の中に蔓延していて、そんな気分にこの歌がピッタリはまったということもあるだろうし、逆に、1960年の安保条約改訂問題――幅広い層の大衆を巻き込んだ激しい安保反対デモ(あの石原慎太郎も反対派の先頭に立ったらしい!)の中、岸内閣が強行採決して、今に至る日米安保条約の原型が成立した――の失望感による厭世ムードには、この歌の“アホらしいほどのパワー”が必要だったのかもしれません。

なにしろ「スーダラ課長」とか「スーダラ社員」とか、図々しくて調子いいヤツの形容詞として使われて、今なら絶対流行語大賞間違いなし。また、サビの「スイスイスーダララッタ」のところで植木さんがやる、右膝をカクカク曲げながら右手をブラブラさせる、なんとも脱力感ただよう“フリ”を、今思えばかなり不気味ですが、子どもたちがみんな真似していました。小学校に入学したばかりの私もやった覚えがあります。まさに社会現象にまでなった大ヒットでした。

 

ヒットがヒットを呼ぶ

 

当時は、何か歌がヒットするとすぐ、それにあやかった映画がつくられるのが普通でした。映画のスタンスが今よりうんと軽かった。「スーダラ節」が売れるとさっそく大映が、翌62年3月に『スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ』、5月にも、2ndシングル「ドント節」(1962年1月発売)に合わせた『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』を封切りました。ただ、これらは小林信彦氏曰く「とりあげるようなものではない」内容で、実際話題にもなりませんでした。ところが、7月に東宝が『ニッポン無責任時代』という映画を封切ると、こちらは大好評。
何が違ったかというと、大映作品での植木等も、会社でも家庭でも責任をとらないダメ男、つまり「無責任男」なんだけど、また小林信彦さんの言葉を借りると「(大映では)いいかげんな男=マイナスという発想で映画がつくられていた。それに対して〈無責任でどこが悪い〉と開き直ったのが、7月29日封切りの東宝映画『ニッポン無責任時代』であった」んだそうです。

もっとも東宝でも、それまでは「いいかげんな男=マイナス」という図式が当然で、森繁久彌主演のサラリーマン喜劇「社長シリーズ」や、森繁、フランキー堺、伴淳三郎が登場する「駅前シリーズ」などの、他愛ない保守的娯楽映画が稼ぎ頭でした。実は東宝文芸部社員だった田波靖男による『ニッポン無責任時代』の脚本は、以前企画会議で、社の方針にまったく合わないとボツにされていたものでした。それが「スーダラ節」のヒットで陽の目をみた。この歌にピッタリな映画になるというわけです。
それでも、東宝は慎重に、ドル箱である「駅前シリーズ」のひとつ『駅前温泉』との併映にし、さらに「お姐ちゃんシリーズ」の「お姐ちゃんトリオ」としてこれも人気だった団令子、重山規子、中島そのみという3人の女優を出演させて、少しでもリスクを軽減しようと努めたのです。
しかしそんな心配をよそに「スーダラ節」の勢いそのままに映画も大成功。やはり高度経済成長に突入したこの時代特有の昂揚感、開放感に、常識破りの“無責任主義”がスコーンとはまったことが勝因でしょう。もちろんこの「無責任男」は植木等のキャラクターあってこそのものです。「スーダラ男」はすんなりと「無責任男」へ“バージョンアップ”を遂げました。それでも、生真面目な植木さんは「何が評判いいんだろう、あんな映画」などとぼやいていたそうですが。もしかしたら植木さんの奥にある真面目さが、本来嫌われるであろう「無責任男」を、憎めないどこか愛嬌のある存在に感じさせ、それも人気の一因だったかもしれません。
気をよくした東宝は、12月に早くも植木等主演映画第2作『ニッポン無責任野郎』を送り出し、その後も次々と、1971年公開の「日本一のショック男」まで、合計30作もの「クレージー映画」をつくり続けたのです。

テレビのレギュラーで既に人気者だったとは言え、まだまだ映画が娯楽の王様だった時代です。主演映画の成功は、植木等、そしてクレージーキャッツを押しも押されもせぬ国民的コメディ・スターに押し上げました。また彼らを所属タレント第1号として、ともに成長してきた渡辺プロダクションも、これで経営は完全に軌道に乗ったのです。

 

その歌の理由_02

 

「スーダラ節」が生んだビジネス

 

「スーダラ節」は音楽業界のビジネス・スキームということにおいても、あることの先駆となっています。ちょっと専門的な話になりますが「原盤供給」というものです。
「原盤」というのはレコード音源の大元となる「マスター」のこと。昔は全部磁気テープだったので「マスターテープ」といい、そのテープ自体のことも指しますが、多くの場合、レコーディングをして音源をつくるという“概念”全体を指していいます。たとえば「この原盤は渡辺プロが持っている」というのは「渡辺プロが制作費を負担してマスターをつくった」ということを意味します。そして、原盤を持っているということはそれにともなう「権利」も持っているということです。「原盤権」といいます。で、日本にレコードビジネスが登場して以来、原盤はすべてレコード会社が持っていたのですが、渡辺プロは自ら原盤を持って、それをレコード会社に供給するというやり方を初めて行ったのです。その第1号が「スーダラ節」のシングルなのです。

原盤を持つということは、音源制作費を負担するということなんですが、その分、レコード会社から「原盤印税」を受け取ります。通常、プロダクションには「アーティスト印税」が支払われますが、これは1〜2%。対して原盤印税となると10~15%です。印税とはレコードが売れた分だけ発生しますから、ざっくりですが、仮に500円のシングルレコードが100万枚売れたとすると、アーティスト印税は500万円、原盤印税なら5000万円という金額になります。ゆえに、原盤を持つのはハイリスクながらハイリターン。経済的余裕があり、売れる自信がある音源であるなら、持つほうが得です。しかも、原盤権を持てば、レコード以外に、たとえばCMやドラマなどで音源を使うことを許可するかどうかも決められますし、当然使用料も要求できます。テレビやラジオなどで使用される場合は、許諾権はありませんが、使用料は決められた額で入ってきます。そして、手放したり、売ったりしなければこの権利はずっとなくなりません。今でも「スーダラ節」の音源を使いたいと思えば、渡辺音楽出版の許諾を得て、原盤使用料を支払わなくてはならないのです。

こんなにも“美味しい”原盤を、レコード会社も簡単には手放さないでしょう。「スーダラ節」は、まだ設立まもない「東芝レコード」(1955年に東芝が音楽レコード事業を開始、60年に「東芝音楽工業」が別会社として独立)だったから、そして渡辺プロダクションが既に強いイニシアチブを持っていたから、可能だったのかもしれません。
現行の著作権法が成立したのが1970年です。それ以前は、一般人は「著作権」なんて言葉も知らないし、音楽業界人でもほとんどがよく理解していない、というありさまだったようですが、そういう混沌状態だからこそ却って、新しいスキームを通しやすかったともいえそうです。

それにしても渡辺プロはどうしてそういう発想ができたのでしょう? 情報源は当時、新興楽譜出版社(現シンコーミュージック・エンタテイメント)社長だった草野昌一氏だそうです。1932年に彼はアメリカの音楽事情視察のために渡米し、原盤制作というビジネスを知りました。そして彼は早稲田大学における渡辺晋氏の後輩で、実は、最初に渡辺プロに成功の果実をもたらした「日劇ウエスタンカーニバル」(ロカビリー・サウンドのイベント)の企画を持ち込んだのが、のちのホリプロ社長堀威夫氏と、音楽専門誌『ミュージック・ライフ』の編集長時代の草野氏だったのです。そして“漣健児”のペンネームで渡辺プロの中尾ミエの大ヒット曲「可愛いベビー」(1962年5月発売)を訳詞したのも草野氏ですし、東芝レコードの音楽ディレクターになったばかりの弟“草野浩二”氏が「スーダラ節」のレコーディングに立ち会っていたという、渡辺プロとはなかなかの浅からぬ縁がありました。

 

「スーダラ」とはなんぞや?

 

30分足らずでつくった曲が時代を変える作品となる。エンタテインメントの世界では少なからずある話ですが、たとえ直接の時間は30分であっても、そこに関わった各人のそれまでに培った実力の総体と、凝縮されたエネルギーが注ぎ込まれているからこそ、その作品は大きな力を持つのだと思います。
植木さんのお父さん、僧侶だった植木徹誠[てつじょう]さんがこの曲に親鸞の教えを見たのは、前回記した有名なエピソードですが「スーダラ」とは梵語で煩悩を表す言葉であると解説した人もいた、と青島さんが語っています。本人が面白がって書いていることですから、そんなつもりはなかったのでしょうが、調べてみるとたしかに「スードラ」あるいは「シュードラ」、漢字だと「首陀羅」と書くサンスクリット語つまり梵語があって、インドのカースト制の4つの身分区別(ヴァルナ)の最下位に置かれた隷属民のことを指すそうです。偶然だとしても、私は何かそこに深みを感じてしまいます。

2007年12月に、前年亡くなった青島さんを悼んで開催された個展「青島幸男さんを偲ぶ」に、故人が酔っ払って書いたという「スーダラ節」を漢詩にしたものが展示してあったそうです。

雖然知道但無法停止

酔酔酔堕落楽多

酔堕落楽多酔酔

改めて、感動しました。

 

参考文献

・『わかっちゃいるけど… シャボン玉の頃』

青島幸男 著
文藝春秋(1988年9月20日発行)

・『ナベプロ帝国の興亡』

軍司貞則 著
文藝春秋(1992年3月発行)

・『植木等と藤山寛美』

小林信彦 著
新潮社(1992年3月20日発行)

・『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』

戸井十月 著
小学館(2007年12月25日発行)

・『最後のクレイジー 犬塚弘 ホンダラ一代、ここにあり!』

犬塚弘/佐藤利明 著
講談社(2013年6月25日発行)

 

 

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